閑話(4)

 きっかけは、おそらく。

「ジーク様はお義母かあ様似ですね」

 妻のこの一言。


「……どうしたんだ、急に」

 唐突なディアナの言葉に、ジークは思わず読んでいた本から目を離した。隣でせっせと作業をしている妻を見遣る。

「あっ、すみません! ふと思ったもので……」

 自分でも口に出すことを意図していなかったのだろうか。ハッとしたディアナは、動かしていた手を止め、夫のほうへと顔を上げた。

 彼女の手に握られているのは硝子の小瓶。その中には、手製のドライフラワーが数種類詰め込まれていた。乾燥しているせいでどうしても色褪せてしまっているが、それでも瓶の中はとても賑やかだった。

 ジークにとって遠征前最後の休暇となったこの日。せっかくのオフだからと外出を試みたのだが、あいにくの天気だったためにあえなく断念した。いろいろと検討してはみたものの、結局家でゆっくり過ごすということに落ち着いた。

 リビングのソファで二人。互いの温もりを半身で分け合いながら肩を並べる。

 昼食を済ませてからずっとこんな感じ、だったのだが。

「それは私の顔が……ということか?」

 開いていたページにラベンダーの栞を挟み、ジークはそれをテーブルの上へと置いた。胸のすく柔らかな芳香がふわりと漂う。ちなみに、この栞はディアナの手作りだ。

 当然のことながら驚いてしまった夫だが、その眼差しには優しい色が滲んでいた。妻のほうへと気持ち体を向ける。

「はい。書斎の写真を拝見するたび思っていました」

 ディアナは、小瓶にしっかり蓋を施すと、彼が置いた本の隣にそれを並べた。あらかじめ用意してあった五つの小瓶すべてが満杯になった。これで、しばらくの間ティータイムに困ることはない。

「笑っているお顔が本当に素敵で……とってもお美しいです」

 頬を染め、はにかむディアナ。その表情は、華に憧れを抱いた少女のそれだった。

 プラチナブロンドのロングヘアーに琥珀色の瞳。まるで御伽の世界から抜け出てきたかのごとく麗しい義母の姿に、ディアナは密かに憧れていたのである。

 夫のように立派な息子を育て上げた義母だ。きっと女性としても母としても素晴らしい人物だったに違いない。そんなふうに想像を巡らせた。

「母のことをそう評価してくれるのは嬉しいが、その言葉がそのまま私に返ってくると思うとリアクションに困るな」

「え? ……あっ!」

 眉を下げて笑うジークに、またまたディアナはハッとした。

 彼女は言った。夫は母親似だと。

 彼女はこうも言った。母親はとても美しいと。

 すなわち、三段論法を活用すると『夫はとても美しい』となる。

「いっ、いえ! あっ、『いえ』というのはけっして『違う』ということではなくてですねっ、なんと言いますか、その……え、と……」

 夫に指摘され、とたんに恥ずかしさが込み上げてきた。視線を足下へと逸らす。

 オタオタしながら必死に弁明する彼女の頬は、熟した林檎そのものである。

「じ……」

「?」

 頭上に、ぼひゅんと湯気が昇った。

「ジーク様も、とても……お美しい、です……」

 恥ずかしい。悶えるほどに恥ずかしい。なんなら穴に入りたい。けれど、これはお世辞でもなんでもないのだ。思ってしまったのだから、仕方ない。

「……——」

「わっ、わたしっ、お茶の用意してきます……っ!!」

 ジークが口を開く前にディアナはソファから立ち上がった。テーブルの上に並べてあった小瓶を慌てて掻き集める。その際、硝子同士がぶつかる硬質な音が重なった。

 グルグル回る脳内と目。今は何を言われても頭に入らない。この場を離れ、ひとまず熱を冷ます時間が必要だ。

 ディアナは脱兎のごとくリビングから飛び出した。

「褒め逃げ……」

 呆気にとられた夫が呟く。なんだか自分まで羞恥に見舞われてしまった。俯き、片手で顔を覆う。

 同時に湧き上がってきたのは狂おしいほどの愛おしさ。本当に妻には敵わない。

 たぶんしばらく戻ってこないだろうな——そう心の中で笑みを覗かせると、夫は再度本を手に取った。腰を深くソファに沈め、足を組む。

 不意に風の唸り声が聞こえた。さっきまで降っていた雨は上がったようだが、いまだに空は鉛色だ。空調の効いている室内からは想像することしかできないが、庭木を揺らすあの風は相当冷たいのだろう。

 時刻は午後四時。

 ……瞼が重い。ここ最近の疲労と、ラベンダーのヒーリング効果が相俟って、ジークは急激な睡魔に襲われていた。周囲の音がしだいに遠退く。しばらく抗ってみたが、この欲求には勝てそうにない。

 得も言われぬ心地好さにいざなわれ、ジークは意識を手放した。





 ◆ ◆ ◆





「ねぇ、ジーク。アレ取って」

「『アレ』ってなんですか?」

「えー? えっとー…………あっ、マッシャー! ポテトマッシャー!」

「はい、どうぞ」

「んもうっ。わかるでしょ? ポテトサラダ作ってるんだから」

「わかりますけど、母上のためですよ」

「……ケチ」

「……」

 数ヶ月ぶりに会った母は、やはり母だった。

 相変わらずの物言いにジークは嘆息する。これではどちらが子供かわからない。

 仕方がないので、プンスカしている母に変わってポテトを潰すことを申し出た。すると、機嫌を直してくれたのか、頬の膨らみが少し解消された。なんとも現金である。

 十五になったばかりの今春。ジークは士官学校に入学した。全寮制のため、現在は家を出て寮で生活している。

 しかし、年末年始は一週間ほど帰省を認められるため、この日久々に里帰りしたというわけなのだ。

「今日父上は早く戻られるんですか?」

「そうなの! お母さんもう嬉しくて嬉しくて!」

 すっかり機嫌を直した母——ルナリア。飴色の瞳を輝かせながら、息子にずいっと詰め寄った。

 愛する夫が早く帰宅するという事実に、今にも躍り出しそうなほど浮かれている。けっして息子が夕食の支度を手伝ってくれているからではない。

 鍋に食材を投入していくその手付きも実に軽やかだ。

「それは、ポトフ……ですか?」

「そうよー」

 大きくカットされた野菜が鍋の中でゴロゴロしている。これらを、トロトロになるまで時間をかけてじっくりと煮込むのだ。

 使われる具材やスープは各家庭で異なる。いわば『お袋の味』。

「あなた好きでしょ?」

 スープの味を調えながら母が息子に問う。確かに自身の好物ゆえ、息子は「ええ」と頷いた。

 今夜の料理は、他の誰でもない、大事な一人息子のためのものだったのだ。

 ルナリアの生家は、由緒正しき伯爵家。すなわち彼女は、元伯爵令嬢である。

 趣味は部屋の模様替え。得意なことは料理。ブランドには一切無関心。

 誰に何を言われようと、人目はまったく気にしない。ただひたすら我が道を行く、破天荒な侯爵夫人だ。

 具体的にどのあたりが破天荒かと言うと、

「ところで、ジーク」

「?」

「あなた好きな子とかいないの?」

 このあたり。

 とくに笑うでもなく、ルナリアは至極自然に放り投げた。こんな大胆な質問を。それも息子に向かって。

 息子としての一般的な解答例は「もう母さん何言ってるんだよっ!!」といった、狼狽した返答なのだろうが、もちろんジークは例外である。

「いないですね」

「あら、そうなの?」

「興味もありません」

「……えぇっ!! 興味ないのっ!?」

「……そこまで驚くことですか?」

「……」

「……」

 親子で顔を見合わせると、互いに「はあ」と溜息を吐いた。

 実は、母からこの質問を受けるのは今日が初めてではない。もっとずっと幼い頃から、事あるごとに(なくても)言われ続けてきた。

 お馴染みともいえるこの質問には、もう慣れている。

「そっかー、いないのかー」

 鍋の中の進捗状況を覗き込みながら、母は口を尖らせた。だが、ぼやいているわりに、たいして沈んだ様子はない。野菜の硬さを確認すると、火力を弱めて蓋をした。

 貴族にしては珍しく、両親は恋愛結婚だったらしい。きっかけは、母の一目惚れ。帝室主催のパーティーで挨拶を交わした際、ドカンと雷に撃たれたような衝撃を受けたとのこと。

 おかげで、母は三十六歳になった今でも、四十二歳の父に『恋』している。

「……まだ、よくわかりません」

 母と顔を合わせることなく、ジークがぽつりと呟いた。

 間近で二人を見ていると子供ながらに思う。本当に素敵な夫婦だと。

 若くして大将という重職を務め上げている父のことは心の底から尊敬しているし、そんな父を懸命に支えている母のことも同じように尊敬している。

 なにより、二人が深い愛情をもって自分を育ててくれていることに、言葉では到底表し切れないほど感謝している。

 けれども、正直よくわからなかった。結婚して家庭を持つということがどういうことなのか。そもそも、異性を好きになるということがどういうことなのか。

「……まあ、焦る必要なんて全然ないけどね」

「じゃあいい加減同じ質問するのやめてくださいよ」

「えー、だって気になるじゃない? あなたがどんな子連れてくるのか。お父さんとお母さんの子だから、モテることは必至だもの」

「なんなんですか、その理屈……」

 帰省してから母に振り回されることになると予想はしていたが、まさかここまでとは。

 やはり侮れない。この無邪気な笑顔に、もはや逞しさすら感じられる。

「でもね、ジーク。これだけは言っておくわ」

 突如、母がそれまで纏っていた乙女オーラが消え去った。穏やかな顔色と声色で息子に語りかける。

 あまりの変容ぶりに、ジークは一瞬目を丸くするも、母の口から紡がれる二の句を静かに待った。

「あなたが結婚したいと、心から想える相手と一緒になりなさい。……あなたが選んだ相手なら、私もお父さんも反対しないから」

 まなじりを下げ、自身よりも幾分背の高い息子に微笑みかける。

 ルナリアが口にしたのは、紛れもなく息子を想う母としての言葉だった。

 周囲の貴族たちの多くは、自身の子供に許婚を定めている。幼い時分より躍起になって探した、竜人の許婚を。

 ジークにも、幾度となくその手の話を持ちかけられたことがある。最初は生まれて数ヶ月の頃。もちろん断った。

 彼らが行っていることを否定するつもりはない。家を繋いでいくための一つの有効な手段だ。そうして栄えた家だって数多く見てきた。

 けれど、息子には、自分自身で選んだ相手とともに一から家庭を築いてほしい。あくまで親の意見ゆえ、あえて口に出したりはしないが、そう強く願っている。

 けっして古い慣習や身分に捉われることなく。

「あーあ。この子ったら、いったい何人の女の子を泣かすのかしらねー」

「……は?」

「あっ、お父さん帰ってきた!」

「ちょっ……母上っ!!」


 種族に、捉われることなく。





 ◆ ◆ ◆





「ん……」

 瞼をゆっくり持ち上げると、ぼやけた視界に入ってきたのは天井だった。

 座っていたはずなのに、体ごとソファに沈んでいる。どうやら転寝うたたねをしてしまっていたらしい。

「またずいぶんと懐かしい夢を……」

 いまだ脳裏に焼き付いている夢の情景に笑みを漏らす。

 いつぶりだろうか。夢の中に母が出てきたのは。

「……毛布?」

 自身の体に掛けられているブランケットに、はたと気づく。無論、これほど準備に万全を期して眠りについた覚えなどない。

 起き上がり、ソファに座り直す。テーブルの上には、持っていたはずの本が整然と置かれてあった。ちゃんと栞も挟まれている。

「あっ、お目覚めですか?」

 ちょうどそのとき、ディアナがリビングに入ってきた。手にはもう一枚、薄手のブランケットが抱えられている。

 時刻は午後五時。外はもう薄暗い。

 これからさらに気温が下がるため、夫が風邪を引かぬようにとの妻の気遣いだった。

「すまんな、ディアナ。ありがとう」

「いえ。お疲れだったのですね。ご気分はいかがですか?」

「ああ、大分楽になった。体も軽い」

 妻が掛けてくれたブランケットを丁寧に畳む。おそらく寝室から持って来てくれたものだろう。今彼女が持っている分もあとでまとめて片づけようと、それを受け取り、自身の隣に積み重ねた。

「さっき少し庭に出たのですが、今夜はとても寒くなりそうです」

「そうか。天気も良くないしな」

「はい。ずっと曇って……あっ! ジーク様見てください!」

「ん?」

 突然ディアナが大きな声を発した。視線を夫から窓の外へと移し、そちらを指差している。

 パタパタと足を鳴らし、窓に近づくと、硝子に張り付くようにして空を見上げた。

「雪です! 初雪!」

 天からはらはらと舞い散る細雪ささめゆき。無風のため、静寂とともにゆっくり地面へと落ちてゆく。土に当たると、そのまま吸い込まれるようにじわりと溶けてなくなった。

 その様子を夢中になって目で追いかける妻。そんな妻の後ろに立ち、夫は彼女の腹部に両手を回した。彼女もまた、彼の手の甲に自身の両手をそっと添える。

「……わたし、母が亡くなって以来、雪が苦手だったんです。どうしても、あのときのことを思い出してしまって……」

 夫に添えた両手にキュッと力を込める。

 雪は好きだった。積もるとそれだけでわくわくした。母親と手を繋いで出かけたあの日も、足に雪の感触を遊ばせながら街を歩いた。

 本当に好きだった。あのときまでは。

 ……見るのも嫌になった。あのときからは。

「でも……」

 夫の胸に頭を付けて首を持ち上げる。案の定、逆さになった彼の顔には切なさが浮かんでいた。

 彼の憂いを拭うように、ディアナは凛としてこう言った。

「今は大丈夫です。……貴方と、一緒だから」

「ディアナ……」

「貴方と雪が見られて幸せです。とっても」

「……っ」

 そう微笑んだ妻の額に、夫は優しくキスを落とした。くすぐったそうに目を瞑る妻が、愛おしくて愛おしくてたまらない。

 母が自分に伝えたかったこと。あのときはまだわからなかったが、今ならそれがわかる気がする。


 ——あなたが結婚したいと、心から想える相手と一緒になりなさい。


 彼女と結婚した、今なら。


「今日は、私にも夕食の準備をさせてくれ。作りたいものがあるんだ」

「? ……なんですか?」

「ポトフ。母がよく作っていた」

「すごい! わたし食べたことないです! 是非作り方を教えてください!」


 過去のなみだも、未来への絆も、

 暗闇に白く浮かぶ雪花せっかのごとく、

 淡く、美しく、


 咲き誇る。

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