ラリマーの崩壊(2)

 太陽の光は次第に弱まり、夕暮れの気配が近づいてくる。外には、今の時季独特のなんとも言い得ぬ侘しさが滲んでいた。

「それじゃあ、目的も果たしたことだし、私は帰るわね」

 すっかり機嫌を直したイザベラが、夫に向かって満足げに口を開いた。瑞々しい萌葱色の瞳は、相変わらず知的な光を宿している。

 そんな妻に対し、少々不思議そうに夫が尋ねた。

「ん? お前このまま直帰できんの?」

「ええ。貴方まだ帰れないんでしょ? 先に帰って夕飯作って待ってるわ」

「子どもたちは?」

「今は実家で母が見てくれてるの。だから迎えに行かなきゃ」

 身長差約三十センチ。体格差はどう見ても美女と野獣。

 だが、そこで繰り広げられているのは紛うことなき夫婦の会話だ。それも、結婚八年目を迎えるベテラン夫婦の会話。違和感など皆無である。

「そっか。わりぃな。お袋さんにもよろしく言っといてくれ」

 申し訳なさそうに笑みを零す夫に、肯定の意を示した妻が頷く。

 このやり取りを、ジークとマキシムは黙って眺めていた。淡彩に目を細める。

 長い付き合いゆえ、見慣れた光景だが、何度見てもやはり安心する。 

 軍人同士の夫婦はけっして少なくない。その中でも、この二人は軍きっての鴛鴦夫婦として有名だ。

 仲は良い。これは誰もが認める事実だが、ただ単純に仲が良いというだけではない。

 仕事に打ち込む姿勢を含め、互いのことを最大限に尊敬し合い、支え合っているということが瞭然なのだ。清々しいほどに。

 イザベラは、ジークに一礼し、マキシムに念を押すと、一足先に帰路へと着いた。一つに結ったつややかな水色の髪を揺らしながら歩く姿は、実に優美である。

 残された男三人。おのずと話題は、終始半端ない存在感を醸し出していた彼女のことに。

「医師としてもヒトとしても本当に素晴らしい方ですが……やっぱり迫力はすごいですね」

 あの細い身体のいったいどこに、あんな気迫が眠っているのだろう。以前叱り飛ばされたときもそうだったが、マキシムはある種の感心を覚えていた。

 しかし、彼のその感心は、夫であるイーサンによっていとも容易くへし折られてしまう。

「あ? 馬鹿言え。あんなもん序の口だ。端からでも笑って見ていられる分にゃまだ生温なまぬるい」

 それはそれは軽くぽきっと。

「……『鬼神』にそこまで言わしめるってどれだけなんですか」

「そりゃお前……、……世の中には、知らないほうがいいことってあんだろ?」

 目は口ほどに物を言う。

 マキシムの質問に言葉を濁したイーサンだったが、その紅蓮の瞳は戦々恐々としていた。彼女の恐ろしさを識るには、それだけで十分である。

 ジークはというと、二人が話している間ずっと聞き役に回っていた。

 例の『ムカデ事件』をイーサンから聞いたときは半信半疑だったけれど、今日その片鱗を垣間見た気がする。

 とはいえ、彼女に対する意識が何か一つでも変化するわけではない。

 オランド夫妻が、彼にとって理想の夫婦であることに変わりはないのだ。


「失礼いたします!!」

 突として勢いよく現れたのは、ジークの部下であるジャスパー・エミリオ。

 ノックと開扉と挨拶がほぼ同時という、稀に見る慌てようだ。

「!?」

 だが、来客があるとは思っていなかったようで、ジーク以外の二人の姿を見た途端たじろいでしまった。

 なにせ一同に会することの滅多にない面々だ。それも片や豪然と名高い中将。彼のこの反応は、ある意味大正解である。

 マキシムのことは、軍の研究者だと知っている。何度か顔を合わせたこともあるが、どこの研究所に所属しているのかまでは聞いたことがない。ジークと親しいため、『何か重要な研究をしている博士ドクター』との認識はあるけれど。

 本日、朝からジャスパーは一度も執務室ここを訪れていない。というより、この建物にいなかった。もっと言えば、昨日からずっと。

 休息する暇を惜しみ、あちこち駆けずり回っていたのだ。ジークのスケジュールを把握する間もないくらいに。

「後ほど改めて御報告に……あ、いえ、でも……」

 とりあえず室内に入ったはいいものの、ジャスパーは優先順位を頭の中で必死に振り分けていた。

「いや、かまわん。例の件だろう?」

「あ、はい。……あっ、お茶の用意っ……!」

「俺らのことは気にすんな。いいから話せ」

 ジャスパーにしては珍しく、しどろもどろな答弁。相当動揺しているようだ。

 しかし、さすがは有能な秘書。二人の将軍に促されると、気持ちを入れ替え、すぐさま落ち着きを取り戻した。一呼吸置き、静かに語り始める。

「先刻入手したものなのですが……」

 そうして彼が差し出したのは、一枚の写真。

 このたった一枚の写真が、二人の鬼神を一瞬にして戦慄させた。

「……っ!?」

 まるで体温を奪い取るかのように、悪寒が背筋を這い上がる。

「……おいおい、マジかよ」

 目を、疑った。

 そこに写っていたのはヒトの少女。おそらく十代半ばだろう。

 華美な深紅のシルクドレスで着飾り、綺麗に化粧も施してある。年齢に見合わない豪華な装飾品。どれもこれもハイクラスの高級ブランド品だ。

 この写真からは異様さしか感じられない。それが際立っている箇所は、彼女の表情だった。

 ——笑っていない。

 それどころか、涙を堪えるかのように目元を引き攣らせ、唇をきゅっと結んでいた。

「将軍、これは……」

 現場に疎いマキシムでさえも、ただならぬ何かを悟っているらしかった。きっと恐ろしく残酷な現実がそこには存在している。そう察した。

 なのに、わかっていながら、それを確認するかのごとく訊いてしまった。

 知りたい、知りたくない——マキシムの中で競り合う相反した感情。

 これに勝敗がつく前に、ジークがゆっくりと口を開いた。まるで、重たい蓋をこじ開けるように。

「この少女は……売られる」

 そう。これは、売り手が買い手に送った。彼女が身に付けているものすべてが、彼女自身がであることを示唆している。

 ——人身売買。

 古くには、奴隷制なるものが世界中で容認されていた。市場でヒトが売り買いされていた時代があるのだ。竜人により、公然と。

 非人道的だという観点から、百年以上も前にこの制度は廃止された。諸国で法律が改正され、厳罰も設けられた。しかしながら、裏社会ではいまだ暗躍しているのである。

 若い娘を誘拐し、売り捌いている輩がいる。取引の相手方は、おおかた他国の富裕層といったところか。

 ミセモノ。ナグサミモノ。

 その目的など、想像するだけで反吐が出る。

「どこまでも腐ってやがんな」

「……」

 口調はそれほど厳しくなかったが、イーサンの目からは、いつものやんちゃさなど消散していた。代わりに蠢くは憎悪の念。

 それはジークも同じらしく、音を殺し、怒りを滾らせていた。

 二人の矛先は、言うまでもなくだ。

「これをどこで?」

 ジークがジャスパーに問いかけた。微塵も乱れぬ冷静な語調が、かえって肌に突き刺さる。

「隣国で活動している諜報員が現地で入手したと。もともと電子データだったのですが、それをこちらでプリントアウトしたものです」

「行方不明者リストと照合したのか?」

「はい。……該当者がいました」

 沈痛な面持ちでそう答えると、ジャスパーは小脇に抱えていた資料を取り出した。そこに記されていたのは、氏名や住所といった彼女のパーソナルデータ。同一人物とは思えぬほど、愛らしく微笑んだ写真も添付されている。

 きっとこれが、彼女の本当の顔なのだろう。

「……っ」

 胸が抉られた。

 この少女は『売られる』のではない。すでにもう『売られて』しまったのだ。穢らわしい連中の手によって。

 ジャスパー曰く、彼女が連れて行かれたのはこの国と隣接した同盟国で、その情報は警察等他の機関にも提供済みとのこと。データの送受信に関わった者を、現在国を跨いで懸命に捜査しているらしい。

 だが、そもそも連中がどれくらいの規模で、組織をいくつ生成しているのか皆目見当が付かない。それに、たとえ特定できたとしても、肝心のあの男に辿り着けはしないだろう。

 自分の手は、絶対に汚さない。


 あの男は——ハンス・リヴドは、誰よりも狡猾で誰よりも卑劣な人物なのだ。


「どうするよ。焦りは禁物だが、時間がねぇぞ」

 机上から少女の写真を拾い上げ、険しい顔でイーサンが言った。

 急いては事を仕損じると肝に銘じているゆえ、前置きはしたものの、どうしても焦燥に駆られてしまう。

「国外での人員を増やすことは必須でしょうね。ですが、それは我々の判断では……」

「……まあできねぇわな」

 言葉と溜息を同時に吐き出す。

 かねてより懸念していた国外に事が及んでしまった。仮に関与しているのがその国の権力者だった場合、下手をすれば国際問題にまで発展するおそれがある。

 したがって、国外での軍事的な活動は、国内でのそれよりも慎重にならざるを得ない。いくら同盟国といえども、人員を配置するだけで、相手国の神経を逆撫でする可能性を孕んでいるのだ。

 とはいえ、このまま放っておくわけにはいかない。国民を守るのが彼らの使命。なんとしても行方不明者全員の居場所を見つけ出し、一分一秒でも早く家族のもとへ帰してやらなければ。

「国境の警備も強化しねぇとだが……一番厄介なのは海路だな。数と立地から言って、全部の港を押さえて一隻一隻チェックするってのは無理がある」

「個人が所有する船を、むやみやたらと取り調べるわけにはいきませんからね」

 自由と権利の衝突。公人である彼ら特有の苦悩が、そこにはあった。

 行き過ぎた公権力の行使は、できることなら回避したい。

「とりあえず、報告がてら上に掛け合ってみっか。元帥なら、たぶん善処なさってくれる」

「……はい」

 もはやこの場だけでどうにかできる問題ではない。

 被害は、予想以上に甚大だ。

「……とにかく今できることをやるしかない。引き続き、情報収集と国内での捜索に皆をあたらせてくれ」

「御意」

 現段階での方針を一応固め、ジークは改めて指示を出した。暫定的ではあるが、基本的にやることは変わらない。

 それを受けたジャスパーは、力強く頷くと、急ぎ足でこの部屋をあとにした。

「人手は多いほうがいいだろ。ウチの部隊からも、何人か回す」

「助かります」

 イーサンのこの申し出に、少し……ほんの少しだけジークの緊張の糸がたゆんだ。心なしか口元も緩んでいる。

 持つべきものは、やはり頼れる先輩だ。

「……彼の、目的は……?」

 ここで、今まで無言を保ってきたマキシムが、やっと言葉を発した。

 喋れなかったのではない。あえて喋らなかった。

 国を守るという彼らの重責。それを痛感していた。まざまざと見せつけられたその勇姿には、ただただ敬服するばかり。

 彼らの会話を聞いた中で生まれた、素朴かつ当然ともいえる疑問を、マキシムはこのタイミングで吐露することに決めた。

「いくつかあるとは思うが、一番の目的は……」

 これに対し、苦々しい表情を浮かべたジークが口を開いた。

 相次ぐテロ事件に失踪事件。どちらも郊外を中心として発生しているが、いつ何時全土に広がりを見せるかわからない状況だ。国民の不安はピークに達していると言っても過言ではない。

 事態を早期に終息させなければ、民の不安は形を成し、刃となって皇帝へと向かうだろう。

 すなわち——

「陛下の失脚、だろうな」

 ——皇帝陛下の失墜。

 一連の事件は、そのために仕組まれたものだとジークは睨んでいる。

「たいそうをお持ちのようだからな」

 それにはイーサンも同意見のようで、至極忌々しそうにこう吐き捨てた。

 竜人至上主義を掲げる彼にとって、『ヒトとの共存共栄』を推し進める皇帝は、いわば目の上の瘤。邪魔な存在でしかないのだ。

「だが、そんな馬鹿げた妄想に屈するわけにはいかない。……ヤツの謀略をすべて暴き、必ず矢面に立たせる」

 金色の虹彩が放つ鋭い光。

 五年前のあの日、少女の健気な姿を見たあのとき、ジークは確信した。「世界が進む方向は間違っていない」と。

 幼き日の妻からもらった勇気。

 その灯火が消えることはない。

「……ジーク」

「?」

「お前はほんっとに頼もしいな!」

「っ!?」

 直前までのシリアスな雰囲気はどこへやら。

 いつものように口元から白い牙を覗かせると、イーサンはジークの背中をバシンッと一発しばいた。

 立ったままのイーサンと座ったままのジーク。振り下ろされたイーサンの手のひらには、過分なエネルギーが加わっていた。かなり痛い。

 後輩がジト目で無言の抗議をするも、先輩は少しも悪びれる素振りなど見せなかった。

 さらには。

「あんな野郎、いつまでものさばらせておくわけにはいかねぇ。とっととすぞ」

 お馴染みのイーサン節。異名の由来となった緋色の瞳が燦爛と耀く。

 頼もしいのは貴方のほうだと、ジークは思わず笑みを漏らした。

「…………そういえば。あそこの息子、お前と同業者だろ? 親父の跡継ぐのか?」

 不意にイーサンの脳裏をこんな疑問が過った。隣のマキシムに視線を移し、直球で問いかける。

「あまりよくは知りませんけどね。ですが、こんなことをできるような人物ではないと思います。……曲がりなりにも、研究者なので」

 溜息混じりにマキシムは肩をすくめた。

 過去が過去なだけに、彼の息子には良い感情などまったくもって抱いていない。けれど、性格に難はありこそすれ、研究に打ち込む姿勢はある程度認めてしかるべきだ。

 私利私欲にまみれた、冷酷残忍な父親の跡を継げるとは、到底思えない。

 あくまで希望的観測に過ぎないが。

「一人息子が跡を継がないとなると、いろいろ具合が悪いんじゃねぇのか」

「そうですね。大事な大事な一人息子ですからね。一族に示しもつかないでしょうし」

 彼らのような貴族は、良くも悪くも家柄を重んじるというのが一般的な解釈だ。個よりも家。家を繋ぐために子供を産み育てる。

 フレイム家のようにリベラルな家系は、なんというか、まあ、イレギュラーだろう。

 そんなフレイム家の嫡男であるジーク。二人の会話に出てきた、とあるワードに眉を顰め、首を傾げた。

「……一人息子?」

「ん? どした?」

「何か気になることでも?」

 三人が三人とも怪訝そうに顔を見合わせた。頭上に飛ばした疑問符が交錯する。

 しかし、このあとジークから告げられた事実により、マキシムとイーサンは言葉を失った。


「一人じゃない」


 外は、茜色。

 窓の外で一羽のカラスが——


「二人だ」


 ——啼いた。





 ◆ ◆ ◆





「——実に順調だ。私の筋書き通りに事は運んでいる」

「計画を早めてもよろしいのでは?」

「慌てるな。焦らずとも、その日になればチャンスは向こうからやって来る」

「……貴方がそうおっしゃるなら、間違いないのでしょうね」

「お前は私の期待に応えてくれ。……昔のような失態は、二度と繰り返すな」

「もちろんです、伯父上。いえ——」



「——父上」

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