アクアマリンと欠けたピース(2)

 音を立てて勢いよく回る換気扇。もわんと立ち込める蒸気を一気に吸い上げてゆく。

 夕飯の準備がひと段落したところで、ディアナは腰を落ち着けた。ダイニングテーブルに着き、シエルからの手紙をペーパーナイフでゆっくりと開封する。

 あどけない、けれど、懸命にペンを走らせたことが窺える文字。何度見ても自然と顔が綻んでしまう。

 中には、丁寧に折り畳まれた一枚の白い便箋が封入されていた。そっと取り出し、ドキドキしながらそれを広げる。

「?」

 瞬間。

 小さなメモ用紙がはらりと落ちた。どうやら半分に折られた便箋の間に挟まれていたらしい。

 ディアナはひとまずこちらから目を通すことにした。

「これは、フィルの字……」

 彼女の言う『フィル』とは、執事であるフィリップ・モラエスのことだ。幼少期より、親しみを込めてそう呼んでいる。

 メモ用紙には、まさに見本のような文字で、ディアナに対するが実に流麗にしたためられていた。それは、シエルに返事を書いて、に送って欲しいというもの。

 シエルが返事を切望していることや、自分宛ての郵便物ならば、確実にシエルに手渡すことができるという趣旨のことが書かれてあった。

 彼の真意を、ディアナは百パーセント理解した。胸が苦しくなるほどありがたい。そのうえ、「ディアナ様の字はすぐにわかりますので、差出人は明記なさらずともかまいません」という彼の一文に、そこはかとなく癒された。

 今日中に返事を書こうと決意し、メインであるシエルの手紙を再度手に取る。

 純粋で飾り気のない筆跡。姉はそれを慈しむような眼差しでじっくりと読み進めていった。せっせと作業に勤しむ弟の様子を思い浮かべながら、一文字一文字を大事に辿る。

 シエルが記した内容は、大きく三つに分かれていた。

 まずは、先日の姉夫婦に対するお礼。これが最初に述べられていた。

 忙しい中、自分のわがままのために時間を割いてくれてありがとうと。二人と一緒に過ごすことができてとても嬉しかったと。

 その次に書かれてあったのは、姉に対する自身の想い。この部分が実に全体の約半分を占めていた。

 ディアナの笑顔が見られて良かったと。幸せそうで良かったと。

 結婚した相手がジークで、本当に良かったと——。

「……」

 とめどなく押し寄せてくる情感に胸が詰まる。

 手紙を書く。それだけで、十分成長していると感心した。それなのに、これほどまでに繊細な感受性をもって、自分に対する想いを巡らせてくれていただなんて。

 嬉しいという一言では、もはや表現し切ることなどできはしない。感涙に咽びそうになるのを抑え、視線をさらに下へと動かす。

 末尾に綴られていたのは、追伸だった。

「え……?」

 ここまで順調に読み進めてきたディアナに突如ブレーキがかかった。思わず文面を二度見する。

 怪訝と困惑。書かれている文字はもちろん読める。が、を読み取るまでに、少々時間を要してしまいそうだ。

 眉を顰めてみても、頭を捻ってみても、なかなか答えは見つからない。

「なにが『え?』なんだ?」

 不意に、彼女の蒼い双瞳に揺らいだ神秘的な琥珀色。まるで燦々と輝く太陽のように、温もりさえ感じられる。

「……え? あっ、おかえりなさいませ!」

「ただいま」

 気がつくと、帰宅したばかりのジークに顔を覗き込まれていた。

 優しい笑みを零す夫の姿を認識し、慌てて椅子から立ち上がる。完璧上の空だった。

「お戻りだったのですね。すみません、気づかなくて……」

 そのままキッチンへと駆け込み、鍋に火をかける。つい先ほどまで湯気が立ち込めていたのに、もうすっかり冷めてしまっていた。季節柄、温め直すのにも時間がかかる。

「いや、気にしなくていい。それは……手紙?」

「そうなのです。シエルがわたしに」

「シエルから?」

 妻から差出人の名前を聞き、夫は図らずも驚いてしまった。テーブルの上に置かれたままとなっている便箋と封筒に視線を注ぐ。

 便箋に目を通すのはさすがにはばかられたので、そっと封筒のほうを拝借した。

「すごいな。自分で書いたのか」

 初めて目にするたどたどしい文字に、妻同様喜色を湛える。可愛い義弟の成長は、やはり彼にとっても誇らしいものだ。

「はい。たぶんフィルに教えてもらって、でしょうけれど。……ところどころ綴りや文法を間違えたりしていますが、一生懸命書いてくれたんだと思います」

 いそいそと棚から食器を取り出し、テーブルに並べる。鍋もいい感じにコトコトと音を立て始めた。

 今夜のメニューは、じっくり煮込んだハッシュドビーフだ。

「それ、読んでいただけませんか?」

「……え?」

 突然妻から投下された発言に、ジークはキョトンとしてしまった。

「いいのか? 私が読んでも」

 シエルがディアナに心を込めて送ったもの。それを、いくら夫といえど、自分が閲しても良いものだろうか……という、ごくごく普通の疑問。

 これに対し、ディアナは「もちろん」だと言わんばかりにこくりと頷く。そればかりか、「見せびらかしたいんです」と、悪戯っぽい笑みまで浮かべたのである。

 今しがた、夫があえて距離を置いた事柄を、ほかならぬ妻がひっくり返してしまった。

 ここまで言われてしまえば、彼女の意に沿うしかない。封筒を便箋に持ち替えると、ジークは立ったまま、それを読み進めていった。

 予想していたとおりの微笑ましい内容に、おのずと頬が緩む。これを受け取ったディアナの心中は、想像に難くない。きっと、陽だまりのような義弟の一言一言は、彼女の涙腺に強く響いたはず。

「きちんと書けているじゃないか。九歳でこれだけの筆力があれば十分だ」

 義兄である自分でさえも、こんなにも、満ち足りた気持ちになれるのだから。

「いつまでも小さな弟のままだと思っていたのですが、いつの間にかこんなに大きくなって。……なんだか、嬉しくもあり——」

「——寂しくもある、か」

「……はい」

 ディアナの胸中を錯綜する、姉としての複雑な感情。

 嫁ぐことが決まったとき、実家に残すシエルのことがとても心配だった。執事兼教育係としてフィリップが側に付いているゆえ、孤独を感じることはないだろう。しかし、厳しい両親のもとでちゃんとやっていけるのかどうか、不安だった。

 でも、もうその必要はなさそうだ。彼は着実に大人への階段を上っている。今日、この手紙を読んで、それを確信した。

「……ん?」

「どうかなさいましたか?」

 それまで滑らかに動いていたジークの目が止まった。

「この追伸……」

「あ、そうなのです。わたしも、さっきそこでフリーズしてしまって」

 それも、ディアナと同じ箇所で。

 まだ答えを探している途中だったディアナは、夫の隣へと移動し、その手元を覗き込んだ。もう一度、例の文面を確認する。



 ——追伸——

 最近、とうさまはよく一人で出かけています。理由はわからないけど、ボクがついて行くことはほとんどありません。ねえさまとにいさまに会ったあの日からです。

 そういえば、あの日はお花を買って、一人でどこかへ行っていました。二人に会う少し前です。ボクはお店で待つように言われたので、とうさまがどこへ行っていたのかは知りません。



「……もしかして、父もあの場所に?」

 あの場所——母が亡くなった、あの石碑の場所。

 ディアナが気になったのは、『花』というキーワードだった。もちろん、それだけで父の行動を断定することなどできない。

「かもしれんな。供えられていたいくつかのうち、一つは義父ちちうえの献花だったのかもしれん」

 が、ディアナのこの仮説には、ジークも同意を示した。

 あの日、ハロルドと擦れ違ったときに鼻をかすめた生花の香り。彼はそれを思い出していた。

 もちろん、いくら話を膨らませたところで、夫婦のこの推測は仮説止まりだ。真実は、ハロルド本人にしかわからない。

「……」

 でも、もしそうだとしたなら。もし、ハロルドが本当にあの石碑のもとを訪れていたとしたなら。いったい、誰にどんな気持ちを抱き、花を手向けたのだろうか。

 ディアナの心に残る小さな破片。表情がにわかに燻った。

 セレネの死は、けっしてディアナのせいではない。そのことは、彼女自身、今ではちゃんと理解しているし、納得だってしている。

 では、ハロルドは? 父は、はたしてそう思っているのだろうか……。

「大丈夫だ、ディアナ。心配しなくていい」

 そんな妻の心情を、ジークは即座に汲み取った。不安を拭うように、低く優しく語りかける。

 持っていた手紙をテーブルの上に置くと、妻の体を両腕でそっと抱き寄せた。

「大丈夫、ですか……?」

「ああ。だからそんな顔するな」

 ディアナもまた、甘えるように、ぽすんとその体を彼の胸の中へ収める。鼓膜を揺らす鼓動が心地好い。

 目を瞑り、その身を委ねると、彼の口元が頭に触れているのを感じた。

 彼の言葉は不思議だ。力強くて温かい。

 彼が言うのなら、きっと大丈夫。素直に、そう思えるのだ。

「……落ち着いたか?」

「はい。ありがとうございました」

「よかった」

 ジークを見上げたディアナの顔は、いつものごとく精彩を放っていた。夫から離れると、再びキッチンへと入り、特製のハッシュドビーフを器によそう。

 その姿を見て安心したジークは、着替えるためにいったん部屋をあとにした。玄関からダイニングへと直行したため、依然として軍服姿のままだったのだ。

 自室へと向かう途中。妻に見せた穏やかな表情からは一転、その眉間には皺が刻まれていた。

 ディアナにかけた言葉は本心からのものだ。そこに嘘や偽りなど欠片もない。

 ジークの胸に引っかかっていること。それは、義父が自分たちと会ったあの日から、よく一人で出かけているということだ。

 あの日、義父は『男爵』と会っていた。その男爵が例の彼とは限らない。男爵家は、ほかにもいくつか存在する。

 しかし、ここ最近の一連の出来事から、どうしても良くないほうへと思考が転がってしまう。社長から情報提供を受けて以来、彼の監視を強化させたとはいっても、それでも。

「……」

 守らなければ。この国を、家族を、

 ディアナを——。

 廊下の窓から見上げた空には、鋭く研ぎ澄まされた弓張り月が、静かにぶら下がっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る