クリソプレーズに贈る讃歌(3)

「寒いですか?」

「いや、大丈夫だ」

 ひらりと翻るカーテンに、きらりと耀く光の粒。

 太陽の匂いとともに室内へと入ってきた風が、娘の前を吹き抜け、父のもとへと流れ着いた。ほんのりとした冷たさが肌に当たる。

 ハロルドの病室を訪れたディアナは、真っ先に窓を開けた。空調が効いているおかげで大変快適だが、時季が時季ゆえ、やはり換気には気を配らなければならない。全開にするのは少々はばかられたので、空気が循環するよう、わずかに開放した。

 白を基調とした、木枠の両開き窓。目前には、葉の落ちた銀杏いちょうの木が、等間隔で横一列に並んでいた。

「今日はとてもお天気が良いですね」

 窓際からベッド脇へと移動すると、父に向かい、笑顔を投げかけた。

 そこに備え付けられているチェストの上には、来る途中で花屋の彼女に用意してもらった寄せ植えが。父親の見舞いに行く旨を伝えると、心配そうにしながらも、相変わらずの手際よさでこしらえてくれた。

 目の冴えるようなブライトカラー。温かみのある配色に心ごと癒やされる。

「ああ。昨夜の満月は見事だったな」

 娘の笑顔に対し、父も同じく表情を和らげる。

 療養ベッドで上半身を起こした今の状態はいたわしいが、顔色はそれほど悪くはない。食事も、人並み以下ではあるが、なんとか摂取できているのだそうだ。

 それを聞いて、ディアナはほんの少しだけ安心することができた。同時に、一日も早い父の回復を願う。

 真っ青に晴れ渡った午後。

 連日、朝夕の気温は冬らしく氷点下を上回ったり下回ったりだが、空はまるで秋のように高く澄みきっていた。雲ひとつ見当たらない。

 ハロルドの言うとおり、昨夜の満月は素晴らしく美しかった。『幻想的』という言葉が実にしっくりくるほどに。

「ここまで誰が?」

 付添人用の椅子に腰掛けたディアナにハロルドが尋ねた。

 娘が単身来院したのではないことくらい容易に察しがつく。だが、娘婿は現在仕事中。彼に送迎は無理だ。となると、いったい誰が。

 そう疑問に思いながらも、ハロルドには一人だけ心当たりがあった。

 おそらくは、実家のだろう。

「フィルです。わたしが一人でこちらに来るときは自分に連絡するように、と」

 父の予想は的中した。「やはりそうか」と、頬を緩める。

 ハロルド自身にとって(もちろんディアナにとっても)、フィリップは本当の家族のような存在だ。血の繋がりこそないけれど、これまでずっと彼を慕って成長してきた。

 十三年前、自身が心を隠し、娘から逃げたときも、彼は真っ直ぐに向き合ってくれた。何も言わず、ひたすらに支えてくれた。

 自分も、娘も。

「ジーク様にも、なるべく一人で出歩かないよう言われていますので、フィルの言葉に甘えさせてもらいました」

「そうか」

 彼には、いくら感謝をしてもしたりない。

 退院したら、また腰を据えて、正面から彼と話をしよう。ハロルドは、心の中でそう呟くと、小さく笑みを零した。


 十分ほど経過したところで、窓を閉めるため、ディアナは椅子を離れた。さすがに室温の低下が気になる。

 動けないハロルドの身には、普段よりも一層寒さが堪えるはずだ。

「日が短くなってきたな」

 窓の外へと視線を移す。しだいに淡く橙色に染まる空を見上げながら、ハロルドがぽつりと漏らした。まだ明るいとはいえ、どことなく切なさが滲み、哀愁が漂っている。

 冬の宵は長く、そのおとないはとても早い。

「そろそろ帰りなさい」

「え?」

「連絡すれば、フィリップが来てくれるんだろう? 私は大丈夫だから。……お前と話ができて嬉しかった」

 断じて突き放しているわけではない。その証拠に、父の表情は穏やかだった。

 娘が家事を一人でこなしていることは知っている。亡き母親のように、懸命に。

 夕食の支度はじめ、夫の帰宅を待つ準備をしなければならないのでは、という父なりの気遣い——妻となった娘に対する、彼なりの気遣いだ。

「……」

 しかし、ディアナは首を縦に振らなかった。その顔には、かすかな戸惑いと憂いが顕れている。

 父の気持ちは十分に伝わった。言葉にしていない部分もちゃんと理解することができた。とてもありがたいし、夫のためにそうしたいという気持ちは強く働いている。

 けれど、すぐに肯定することはできなかったのだ。その原因となる昨夜の出来事が、つぶさに想起される。

 昨夜、ジークは帰ってこなかった。

 連絡がなかったわけではない。昼間に本人から直接電話があった。帰宅時間が遅くなるので、夕食は不要だと。

 夕食を家で食べないこと自体珍しくはない。彼にも立場があり、付き合いがあることは、ディアナとてよくよく了知している。

 だが、昨日はいつもと明らかに様子が違っていた。


 ——今夜は帰れない。


 深夜。夫から再度連絡が入り、謝罪の言葉とともにこう告げられた。

 結婚して以来、一日以上夫が家を空けるのは初めてのことだった。ゆえに一瞬戸惑ってしまったが、なんとか平静を装い、頷いた。

 仕事だから仕方ない。もうすぐ遠征だって始まるのだ。その間、自分は一人で夫の留守を守らなければならない。……泣き言など言っていられない。

 夫の不在に、どれほど自分が彼のことを慕い、彼に依存しているのかということを、まざまざと思い知らされた。

 脆弱な自分に嫌気がさした。けれども、それは自身が我慢をすればいいだけのこと。問題は、そこではなかった。

 受話器の向こう側。彼の声は、確かに翳っていた。

 顔色はわからない。いつもどおり喋ってくれていた……と思う。それでも、夫の心が何モノかによって鈍色に侵されているのだと、妻は悟ってしまったのだ。

 朝になり判明した、理由と思しき事態。

 『ルイン・ヴェリル男爵自殺』

 この病室で、父と夫の会話の中に出てきた貴族の名前。その名が、新聞の紙面を大きく賑わせていたのだ。

 普段なら、朝食前に夫が読んでいるはずの朝刊を広げ、ダイニングで一人、ディアナは該当記事を食い入るように追った。

 父に対する罪を自供し、捜査官の目の前で頭を撃ち抜き自殺したという、なんとも生々しく、なんともやるせない結末。

 このために、夫は帰ること叶わなかったのだと、声が翳っていたのだと……そう、確信した。

「……昨夜の事件は、もう知っているだろう?」

「え? あ、はい……」

 苦慮に満ちた娘の表情から心情を察したハロルドが静かに口を開いた。厳しい顔付き。だが、その口調はいたって落ち着いていた。

「今朝、私のところに捜査官が来た。『被疑者死亡』で、この件は処理されるそうだ」

 ハロルドの目撃情報と男爵本人の自供。さらに、自殺に使用された拳銃がハロルドを撃ったものと一致したため、警察は、男爵をハロルド襲撃事件の犯人だと断定。そのうえで、彼が死亡したことにより、『被疑者死亡』という形にいたったのだという経緯を説明しに来たらしい。

 要は、書類上での処理にとどまるということだ。この世を去ってしまった彼を捕らえることなどできはしない。

「……っ」

 ——まただ。また、身内を傷つけた犯人が罪を逃れた。

 釈然としない終焉。納得など、到底できるはずもなかった。俯き、下唇をキュッと噛む。

「ディアナ」

 そんな娘に、父は優しく声をかけた。

「こんな状況だからこそ、お前は家で将軍の帰りを待つべきだ」

 父のこの言葉に、ディアナは重たい頭をゆっくりと持ち上げた。互いの視線が一つに交わる。

 ディアナの双眸を真っ直ぐに捉えたハロルドの目元は、深い愛情に染まっていた。

「人の命を預かる仕事は、生半可な意気ではとてもじゃないが務まらん。常に誰かの死と隣り合わせだからな。……それゆえ、忌憚なく心安らげる場所が必要だ」

 威厳と慈愛に満ちた声色。その一音一音が、ディアナの胸にぽたりと落ちて浸透してゆく。ほかの誰でもない父の言葉だからこそ、ディアナは素直に受け容れることができた。

 人の命を預かる仕事——これは、造船を生業とするハロルドにとっても同じことだ。

 少しでも気を抜けば、取り返しのつかない事態へと陥ってしまう。……命を、喪ってしまう。

「将軍の担う重責を計り知ることなど、我々には到底不可能だ。そのつらさも、苦しみも……。だが、彼の安らげる場所で、彼を支えられるのは、ディアナ……お前しかいない」

 期待と希望を綯い交ぜにした優しい眼差しを娘に注ぐ。

 当時は最良だと思っていたジークとの縁談。とはいえ、娘を竜人——それも貴族——のもとへ嫁がせるということに、不安がないわけではなかった。

 これは娘のため——そう自分に言い聞かせた。もう二度と、あのときのように大切な人を、大切な想いを、奪われないようにするためなのだと。

 しかし、あの日。。街で娘夫婦と遭遇し、ハロルドの不安は完全に消散した。

 シエルが二人を見つけて駆け出すよりも先に、ハロルドはすでに二人に気づいていた。並んで歩く後ろ姿は、まさに夫婦そのもの。とても美しかった。思わず見惚れてしまうほど。

 何よりも美しかったのは、時折覗いた二人の横顔。

 ——笑っていた。

 ジークだけではなく、ディアナまでもが笑っていたのだ。心から嬉しそうに、幸せそうに。

 あんなにも眩しい娘の笑顔を目の当たりにしたのは、実に十三年ぶりのことだった。

 自分のせいで笑えなくなってしまった娘に、彼が笑顔を与えてくれていた。娘もまた、彼にちゃんと笑顔を与えられていた。

 二人を目に焼きつけたその瞬間、一気に消失した胸の内のくゆり。それと同時に、二人の強い絆を感じた。

「だから、早く帰りなさい。何も特別なことをする必要はない。いつもどおりにしていれば、それでいい」

 この子たちなら、何が起こっても大丈夫だと。

「お父様……」

 繋がる視線と贈られた言葉に、ディアナの目頭が熱くなった。父の温かな瞳に心を注ぎ、大きく頷く。

 これにより、ディアナの憂いも消散した。

 大事なのは、どんな言葉をかけるかということではなく、自分が自分らしくいること。

 父の励ましをそっと胸に抱き、ほどなくして、ディアナは帰途についた。

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