クリソプレーズに贈る讃歌(4)
ディアナがハロルドを見舞っている一方、軍部では、実に秒刻みで情勢が変化していた。モノの出入りが激しく、慌ただしい。数秒前そこに在ったモノが、いつの間にか別の場所へと移動している。
人も、物も。
そんな中、一人だけ周囲の様相に反した人物がいた。
付着した血が染みとなった黒いブーツを履いた男性。まるで鎖でも引き摺るかのように重たい足取りの彼は、しだいにその歩幅を狭め、速度を落としてゆく。
そして、立ち止まった。
「……、……っ!!」
刹那、廊下に鳴り渡った、ゴッという鈍い音。
声にならない声を噛み殺し、ジークは拳の側面で壁を殴りつけた。左の手先から腕にかけて痛みが駆け上がり、痺れとともに心臓へと突き刺さる。
昨夜の一件は、ジークにとってまさに悪夢だった。……否、『夢』なら、まだどんなに良かったことか。
込み上げる悔しさは行き場を失い、怒りの矛先は自身へと向けられた。己の不甲斐なさが、たまらなく憎い。
——あと一歩だった。
あのとき、もっと早く腕を伸ばしていれば、もしかすると届いていたかもしれない。止められていたかもしれない。
ヴェリル男爵を、死なせずに済んだかもしれない。
瞼の裏に焼きついて離れない、あの蒼く冷たい満月が、ジークの精神をいまだ蝕み続けている。
「おら、壁に当たってんじゃねぇよ」
突如背後から聞こえた声に、ジークの肩がぴくりと呼応した。その音太さと言い様で、振り向かずとも誰だかわかってしまう。
緋い彼は、ゆっくりと歩みを近づけると、依然として顔を下に落としたままのジークに並んだ。
「穴でも空いたらどーすんだ。ただでさえ馬鹿力なんだから」
そう言って、イーサンはジークの頭頂部に武骨な手を乗せた。くしゃりと掴むように。粗雑に。
いつもなら、からかい混じりにもっと軽く言い飛ばすのだろうが、さすがの彼も今日は自粛しているようだ。それでも、彼なりに気を揉んでくれていることはわかったし、慰めの意思は十分に伝わった。
よって、脳裏をよぎった『あなたにだけは言われたくない』という言葉は、あえて呑み込むこととする。
「すみません、でした……」
「あ? そりゃ何に対する謝罪だよ。壁殴ったことか? それとも、昨日のことか?」
ジークの頭に置いた手を、脳味噌が揺れそうなほどガシガシと左右に動かしたイーサン。
彼のこの問いかけに、ジークを非難する意図など微塵も含まれてはいない。このあとすぐに言葉を続けるつもりだった。「昨日のことは気にするな」と。
珍しく意気消沈し、しおらしくなっている後輩に活を入れるための、その
「…………両方?」
「あぁ? 俺に聞くな馬鹿! つか、どっちにしろ要らんわっ!」
今し方のシリアスな空気はどこへやら。
頭を掴まれたままのジークは、目線を上に遣ると、眉を顰めて首を傾げた。それを受けたイーサンは、怒声とともに掴んだ頭をぐわんと前に押しやる。今にも紅蓮の瞳から炎が噴き出しそうだ。
——ああ、そうだ。コイツはこういうヤツだった。コイツのことをしおらしいとか思った数秒前の自分をブン殴ってやりたい。
「冗談ですよ」
「うるせぇもっと凹んどけ」
傍目からすれば少々物騒だが、これが彼らの平常運転だ。
ジークにとって、このタイミングでイーサンが声を掛けてくれたことは何よりの救いだったし、イーサンはイーサンで、ジークのこの憎まれ口にとりあえず安堵の色を見せた。互いの中に、つかの間でも日常が戻った証拠である。
瞬きをすれば、それは一瞬にして消失してしまうけれど。
「……この間の写真の女の子、誰に売られたのかわかったぞ」
「!!」
はあと短く溜息を吐いて気持ちを入れ替えると、イーサンは険しい面持ちで口を開いた。どうやら、これが彼にとっての本題だったらしい。
目を見開き驚くジークに対し、彼は話を続けた。たいそう忌々しそうに。吐き捨てるように。
「隣国の有名な実業家だ。誠実で名を通してる。……笑っちまうな」
イーサンの口から告げられたのは、この国にまでその名を馳せている竜人実業家だった。軍の情報部が画像の送信データを解析し、受信元を辿った結果、彼に行き着いたらしい。
貴族ではないにしろ、その国の有力者であることはほぼ間違いない。政治的にもかなりの発言力を持っているはずだ。
「現地で直接確認が取れれば、救出の手立てを講じることも可能だ。……で、今それを上に話してきたとこなんだが、何人かはどうも消極的でな」
下手をすれば国際問題。消極的にならざるを得ない上官の心情も理解できなくはない。
だが、自国民が危険に晒されていることが明白でありながら、ただ指を咥えて見ているだけなど言語道断。到底納得できるはずがない。
何よりも優先すべきは、少女の保護だ。
「でもまあ、仮にそいつがヤツとの関係を吐いたところで、ヤツは上手く躱すんだろうがな」
「……元帥は何と?」
「明確な指示はまだない。たぶん、このあとすぐに緊急会議で招集かかんぞ」
セオドアは、イーサンの報告と提言に終始黙ったまま耳を傾けていたらしい。渋る部下にも、とくに何も言わなかったのだそうだ。
彼の中では、もうすでに指針は決まっているが、その場で表明するのはあえて控えたのだろうとイーサンは言った。
「ヤツをどうにかしねぇことには、被害は広がる一方だ」
「……」
死ぬ間際、ヴェリル男爵は言っていた。自分はただの金蔓だったのだと。それにより、とある構図が浮かび上がった。
彼が投資を募って集めた金を、リヴド伯爵が吸い上げ、それをテロの活動資金として充てていたという構図。人身売買によって得たマージンも、また然りなのだろう。
養父の死により、実質的に権力者と成り上がったイアン。彼が今後どのように動くかはまだ不明だが、これまでの経緯を顧みると、彼の意思は実父の意思であるように思えてならない。
もはやヤツを——ハンス・リヴドを捕らえないことには、事態の収束は見込めないのだ。
◆
荘厳な雰囲気漂う
鮮やかなロイヤルブルーの国旗と軍旗の下に集いし勇士たち。彼らは皆、二つの旗に記された
張り詰めた空気の中、少将以上総勢百数十名の真摯な眼差しは、一様に正面の壇上へと注がれていた。この模様は、国外に駐屯する将軍たちにも中継されている。
一同は、背筋を凛と伸ばし、息を凝らして、ただ一人の登壇を待った。
そこへ現れたのは、元帥セオドア・シュトラス。
セオドアは、部下たちの前に立つと、まるで空間を凪ぐかのごとく静かに瞑目した。その身に纏うオーラは、よりいっそう崇高な光を放っている。
ほどなくして、何かを決意したように瞑目を解いたセオドアは、実に重みのある語り口でこう切り出した。
「我々の使命は、国民の
それは、彼らが入隊して以来幾度となく耳にし、心身に刻み込んできたフレーズだった。
軍人としての在り方。軍人として、その根幹に据えるべき命題を、今一度確認する。場内に緊張が走った。
そして——
「全責任は私が取る。これ以上、犠牲者を増やすな」
セオドアの重厚な声と厳粛な視線が、一人一人の心を真っ直ぐに射貫く。彼のこの言葉には、最高司令官としての彼の覚悟がつぶさに込められていた。
迷いも躊躇もない。あるのは、若き彼らを信頼し、彼らの盾となる揺るぎない信念だけ。
これにより、軍の士気は、一気に高まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます