Chapter4

アゲットに弾かれた静粛(1)

 室内に静かに響く筆記音。

 一定のリズムと周期で断続的に紡がれるその音は、同じ文字を同じ人物が繰り返し書いていることの徴証だ。

 たまに途切れることもあるが、そのほとんどが一時的なもの。数秒もすれば、すぐに硬質なペン先が紙を引っ掻く音が聞こえてくる。

 この日も、ジークは相変わらずのデスクワークに追われていた。

 紙面の隅々にまで目を通し、サインを記していく。かなりの速読だ。頭の回転が速いおかげで、見ることと書くことはほぼ同時進行。けれども、そんな彼をも悩ませる案件に、ときたまぶつかることがある。筆記音が途切れるのはそのためだ。

 いったいどこからこんなに紙が湧き出てくるのだろうか……そんな不毛な思考に支配された時期もあった。

 しかし、上に立てば立つほど、確認する書類が増えるのは仕方のないことだ。最近では、そう割り切るようにしている。

 とはいえ、自身の許可や承認の必要な事項がこれほどまで多く存在することに、責任感や使命感はますます募っていくばかり。

 若き優秀な少将は、今日も今日とて、やんごとなきその御身を国防に費やすのだった。

「失礼いたします」

 ここで、明朗な声とともに入室してきたのは、お馴染み有能な部下。

 彼は、いつものように困り顔で上司に休憩を促すと、いつものように慣れた手付きで紅茶を淹れ始めた。

 いい感じに集中力も途切れたので、残りは明日に回すこととしよう。心の中で短く溜息を吐いたジークは、ペンスタンドに万年筆を戻すと、書類を引き出しの中へと仕舞い込んだ。

「お疲れ様です」

 それを確認した部下——ジャスパーが、上司の手元へ紅茶を運ぶ。

 すでに、気品溢れる上質な芳香が部屋全体を包み込んでいた。この日彼が選んだのは、葡萄の女王として誉れ高いマスカットだ。

「すまんな」

「いえ、とんでもありません」

 毎度、計ったかのように秀逸なタイミングで、ジャスパーは息継ぎを働きかけてくれる。

 単に上司の身体を気遣うだけでは、それは上手く作用し得ないだろう。

 彼は頭に叩き込んでいるのだ。その日のジークのスケジュール、さらには、その詳細に至るまでまるごと全部。

 将軍の秘書としての手腕は、まったくもって申し分ない逸材だ。

「……で、例の件はどうなっているんだ?」

 それまでとは打って変わり、ジークは鋭い眼差しを部下に向けた。必然的に、声や口調までもが重みを増す。

 喉を潤す程度の、ほんのわずかなティーブレイク。

 そう。ジャスパーは、何もお茶を淹れるためだけにここへ来たわけではない。

 彼とて、ジーク率いる旅団に属する立派な軍人である。遂行すべき任務があるのは当然のことだ。

「はい。……どうやら、事は予想以上に深刻なようです」

 こちらも一変。

 ジャスパーは眉を顰めると、険しい表情で上司に応えた。

 つい先日。ジークはジャスパーに対し、ある事件の調査を命じた。それは、国内各地で相次ぐ失踪事件に関するもの。それも、十代のばかりが行方をくらましているという事件だ。

 もちろん、多感な年頃ゆえ、家出の可能性も十分に考えられる。今では秀抜なジャスパーも、少年時代の素行はすでに周知のとおり。自宅になど寄り付きもしなかった。

 しかし、この半年の間に、失踪者数及び捜索願の届出数は、異様なまでに跳ね上がっているのだ。

 家出か、誘拐か……はたまた、何か想像を絶するような重大な事件に巻き込まれているのか。

「家出とは縁遠い子ばかりのようですし、身代金等を要求されたというケースは一件もありませんでした」

 警察等各局と連携しながら、あらゆる可能性を視野に情報収集を行ってきたが、家柄・年齢ともにバラつきのある彼女たちの核心に迫るものは、何一つ得られなかった。

 それどころか、追いかければ追いかけるほど、不可解な点が浮き彫りになってゆく。

「国内でまったく足取りが掴めないというのも気になります。もしかすると……」

「……国外、か」

 場の空気、ひいては二人の表情までもが張りつめる。

 捜索の対象区域が広がれば、それだけ解決までの難易度は上がってしまう。が、時間をかけすぎるのはリスキーだ。焦っても仕方のないことだと、重々承知はしているけれど。

「……現状、有用な情報が不足している。今はとにかく、収集に専念してくれ」

「……御意」

 先ほどまでのデスクワークなど比にならないくらい、ジークは頭を悩ませた。


 ピリリッ、ピリリッ、ピリリッ——


 と、話がひと段落したちょうどそのとき、執務机の電話が鳴り出した。——内線だ。

 急いでジャスパーが手を伸ばす。

「はい。……ああ、俺だ」

 この話し方から察するに、通話の相手は上官ではなさそうだ。

「ああ、ここにおられる……え? いや、そのような予定は入っていないが……ああ、わかった。ちょっと待ってくれ」

 何かイレギュラーなことでも起きたのだろうか。部下の応答を横で聞いていたジークが、不思議そうな面持ちで問いかけた。

「どうした?」

「将軍にお客様だそうで、お通ししてもよろしいかとの確認が」

「客?」

 通話元は、施設への来訪者を取り次いだり、その用件を受け継ぐ、いわゆる『フロント』のような部署。門衛もんえいから連絡が入り、ジークに直接是非を賜りたいとのことだった。

 まさに寝耳に水。だが、外で待っているというその客人の名をジャスパーが告げると、ジークは少々驚きながらも快諾した。

 なら、断る理由はない。

「では、ご案内してまいります」

 受話器を戻したジャスパーは、客人を出迎えるため、部屋をあとにした。

 まるで迷宮ラビリンスのようなこの施設。以前、ここを訪れた妻が、「一人では二度と出られる気がしない」と真顔で言っていたことを思い出す。

 たしかと会うのは、今年の夏以来——妻と一緒に会ったあの日以来、数ヶ月ぶりだ。

「将軍、お連れいたしました」

 自身の仕事に誇りを持ち、世界を股にかけて活躍するデザイナー。

「ああ、入ってくれ」

 夫婦が懇意にしているその人物とは——

「申し訳ございません、侯爵。突然このような形でお邪魔してしまって……」

 ——例のパーティードレス専門店の女社長だ。

 流れるように結い上げた金髪に黒のスーツという普段通りのスタイル。深紅の瞳に真っ赤なルージュという相も変わらない美貌。

 限りなく白に近い薄柳色の肌が、彼女のあでやかさをさらに際立たせている。

「いや、気にしないでくれ。どうぞ、そちらへ」

 ジークは、応接セットに腰掛けるよう彼女に促すと、自身も執務机から移動した。

 二人分のコーヒーを、ジャスパーが丁寧にテーブルへと並べる。

「今日はどのような用件で?」

 彼女と対面するようにソファへ腰を沈めると、柔和な声色でジークが尋ねた。初めての場所で少なからず緊張している彼女に、少しでも話しやすい雰囲気を作ってやる。

 しかし、そんな緊張とは別に、彼女が何か思い悩んでいることをジークは感取していた。

「実は、侯爵にお話したいことがございまして……」

 ジークに感化され、なんとか口を開いた彼女だったが、その表情は、ここへ来たときよりも数段翳っていた。どことなくそわそわとした感じで、落ち着きもない。

 それでも、必死に平静を保ちながら、彼女は言葉を続けた。

「三日ほど前に、ある御方からを持ちかけられたのですが……」

「……投資話?」

 予想外の単語に、つい首を傾げ、復唱してしまったジーク。

 世界でも有数の企業家である彼女ならば、そのような話題を提供されたとしても、なんらおかしくはない。実際、今までにも度々あったはずだ。

 特異ではないゆえの意外。では、いったい何が、これほどまでに彼女の心を乱しているというのか。

「差し支えなければ、貴女にその話を持ちかけた人物を教えてはもらえないだろうか?」

 残る疑問点は、ここしかない。

 ジークのこの問いに、彼女は小さく頷いた。どうやら、まさにこの答えが、彼女の一番伝えたかったことらしい。

 目を瞑り、きゅっと唇を結ぶ。まるで、荒んだ心を凪ぐように。

 しばらくした後、開いた目に決意の色を滲ませた彼女は、結んでいた唇をゆっくりとほどいた。

「……ヴェリル男爵です」

「!」

 彼女の口から告げられたその名に、ジークは目を見開き絶句した。

 ルイン・ヴェリル男爵、五十五歳。貴族界でも名の知れた豪腕実業家である。

 ヴェリル男爵家は、比較的新しい『新興貴族』と呼ばれるもので、爵位を取得したのは三十年ほど前と、つい最近だ。

 つまり、フレイム家のように代々爵位を継承してきたわけではなく、現当主であるルインが初代当主ということになる。

「ヴェリル男爵というのは、たしか……」

 ここで、今まで黙って耳を傾けていたジャスパーが声を発した。彼もまた、少なからず動揺を隠し切れてはいないようだ。

「ああ。……今でこそ禁じられているが、その当時、人物だ」

 爵位の購入——にわかには信じがたい話かもしれないが、国の財源を確保する一つの手段として公に容認され、現実に行われていた制度である。もちろん、間口はかなり狭かったが。

 金融業を生業として栄えたヴェリル家。現在では、投資部門にも力を注いでいるらしい。

「私も、いろいろとお噂は耳にしておりますゆえ、失礼と存じながらも身構えてしまいました」

 言葉は濁したが、単純に信用できない相手だったということだろう。事実、爵位を獲得する以前より、彼はいろいろと疑惑の絶えない金融人だった。

 金に物を言わせ、偽善で踏み躙った善の上に立っているような人物なのである。

 だが、それだけではない。

 彼の妻は、なんとあのリヴド伯爵の実妹だ。

「額も額でしたので、『私の一存では決めかねる』と、お引き取りを……」

 あまりにも利回りが良過ぎたため、どれほど懇切丁寧に説明されても不信感しか募らなかったのだと彼女は言う。

 純粋な投資話ならばそれでいい。けれど、何か裏が……それも、暗く大きな底なし沼があるように思えてならなかったのだと。

 巨額の富は、ときに人をも殺める、凶悪な武器となる。

「私の胸の内にだけと思っていたのですが、何か引っかかって……。ですが、誰にでも話せることではありませんので、直接侯爵のお耳に、と。……申し訳ございません」

「とんでもない。わざわざご足労いただいての貴重な情報……感謝する」

 目元を緩めてジークが謝辞を述べると、彼女もまた、それまで強張らせていた表情をほぐした。心なしか、安堵した様子が窺える。

 ジークに話を聞いてもらえたことで、ここ数日の胸のつかえが下りたのだろう。

 すっかり冷めてしまったからと、ジャスパーがコーヒーの入れ替えを申し出るも、このままで構わないと、彼女は首を横に振った。

 それから、妻の近況等ほんの少しだけ世間話を交えた後、彼女は帰路についた。……と言っても、再度職場に戻るだけなのだが。

 けれど、その足取りは、確実に軽やかなものとなっていた。

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