ムーンストーンを心に灯して(2)

 右の蟀谷こめかみに走った鋭い痛み。右肩にも鈍痛を知覚し、全身を衝撃が襲った。

「ぅあっ……!!」

 ディアナの口から思わず短い呻き声が漏れた。両手を後ろ手に縛られているため、蟀谷部分を反射的に押さえたくても押さえられなかった。身をよじり、激痛に悶える。首筋や背中にはじっとりと嫌な汗が滲んだ。

 ディアナの反駁に激昂したリヴドは、大事なであることも忘れ、彼女に手を上げた。彼女の体はテーブルにぶつかり、ワインボトルとグラスを巻き込んで床に激突。その際、割れて散乱したグラスの破片で蟀谷を切ってしまったのだ。

 疼く痛みを堪え、寒気を覚えながらも、ディアナはゆっくりと上半身を起こした。負傷した箇所から、何か生温かいものが流れ出ている。それは顔の輪郭を伝い、床へと滴り落ちた。……血だ。

「……忌々しいっ!」

 リヴドはディアナに向かってそう吐き捨てると、踵を返し、棚に備え付けられている内線用の受話器を手に取った。

 静まらぬ怒りを、そのまま相手に思いきりぶつける。

「何をしている!! 早く船を出せっ!!」

 怒号とともに出帆の催促を飛ばす。先ほどまでの余裕はどこへやら。ものすごい剣幕である。

 しかし、どうやら彼の望む答えは返ってこなかったようだ。

 それどころか。

「……軍艦だとっ!? そんなはずは……っ、お、おいっ!! どうした!! 何があったっ!?」

 なにやら彼にとって不測の事態が生じた模様。

 通話が途絶えたことで、彼の焦りの色は一気に濃くなった。受話器を叩きつけるように戻すと、何かを確認するべく再び窓に近づき、外へと視線を向ける。

「!? 馬鹿な……っ!!」

 信じられないといったふうに、海に広がる光景を凝視しながら、リヴドは息を呑んだ。その片目に渦巻くのは混乱。事態がいまいち飲み込めず、呆然としている。

 ディアナが倒れ込んでいる場所からは、彼が目にしているものがいったい何なのか、まるきりわからない。だが、なんとなく、空が明るさを帯びたような気がした。自然的ではなく、人工的な明かりによって。

 それに、先ほどからなんだか室外が騒がしい。乗組員クルーがほかにもいることは知っている。無理矢理ここに運ばれたとき、階ごとに何人かと擦れ違った。でも、様子が違う。

 何かが近づいてくる。この暗い暗い空間を照らす何かが。

 光が……希望が、近づいてくる——




 バァァンッ——




 突如、大きな音を伴って勢いよく扉が開け放たれた。体にまで伝わってきた振動。激しく空気がうねりを上げた。

 隔たりが取り払われ、内側と外側が一つに繋がる。

 そのとき、ディアナの目にはっきりと飛び込んできたのは、見慣れた鮮やかな青いロングコートと、美しく長い銀髪。

「……ジー、ク、さま……?」

 今、一番会いたいと切望していた、愛する夫の姿だった。


 夫と目が合った。

 妻と目が合った。


 ここに辿り着くまでの間、ジークは不安で不安でたまらなかった。

 敵を一人薙ぎ倒すたび、ディアナは本当にここにいるのだろうかと、ちゃんと無事でいるのだろうかと、幾度となく不吉な思考が脳裏をよぎった。

 組織を殲滅する。根絶やしにする。彼女を救出する以外のその目的のために、乗組員全員を生きたまま確保する必要があった。少しでも多くの情報を得るために。

 とはいえ、彼の心理状態では、力を加減することすら容易ではなくなっていた。気絶させた相手は数知れず。重傷を負わせた相手もいる。おかげで、イーサンからは再三の戒めを受けた。

 それらを経て、ようやくここへ到達し、扉を蹴破るに至った。ようやく会えたのだ。

 ……それなのに。

「……」


 なぜ倒れ込んでいる?


「…………」


 どうしたんだ、その傷は?


「…………——」


 いったい、


「…………——っ!!!!!」




 ダ レ ニ ヤ ラ レ タ ?




 刹那。

 タァンッ——と、ジークが足で床を弾いた。そのしなやかな躯体は虚空を切り裂き、まるで疾風はやてのごとく突き抜けた。

 おぞましくも美しく宙に舞った銀糸の束。金色の眼光が狙いを定めたのは、無論、窓際に佇むハンス・リヴドただ一人。

 ジークがリヴドの間合いに入るまでの速さは、まさに神速しんそくだった。両の金眼が、漆黒の片眼を、貫くように捉える。

 たった今、白銀しろがねの鬼神が、降臨した。

「止めろジークッ!!」

「ジーク様っ!!」

 イーサンとディアナが同時に叫んだ。

 今のジークには、混じり気のない、至極純粋な殺意がある。それを危惧したゆえの両者の叫びだった。

 恐怖に慄き、声も失ったリヴドに、ジークが大剣を振りかざした。

 そして、次の瞬間。


 ガキィ、ンッ——


 ぱらり……と、壁の粉が微小な欠片とともに散ってゆく。 

 窓と窓の間。リヴドの顔から真横十数センチに位置する壁面に、猛然と刃先が突き立てられていた。その衝撃波により、リヴドの頬につっと一筋の裂傷が走る。

「あ……あぁ……ぁ……」

 実に情けない声を上げながら、リヴドはへにゃりと腰から崩れ落ちた。彼に以前のような勢いはもうない。それでも、ジークは剣を突き立てたまま、体勢を一向に動かそうとはしなかった。

「おら。瞳孔開いてんぞ」

「……」

 剣を握ったジークの両腕は、イーサンによってがっしりと掴まれていた。袖で隠れているため確認することはできないが、おそらくジークの腕には、イーサンの手の痕が、くっきりと残っているだろう。イーサンの巨体でもってそれほどの力を加えなければ、鬼神を止めることはできなかった。

 乗船する前、イーサンがジャスパーと代わった理由は、ここにあったのだ。

「コイツは俺が締め上げとくから、早く嫁さんトコ行ってやれ」

 落ち着いたトーンでイーサンがこう促すと、ジークはやっと腕の力を緩めた。そのまま静かに剣をおさめる。

「……ジーク様」

 ぴくり……と、ジークの肩が震えた。耳に馴染んだ愛おしい声が、彼の瞳に精彩を呼び戻す。

 先ほど踏み止まることができたもう一つの大きな要因。それは、自身の名を叫んだ妻の声だった。

「——っ、ディアナ……!!」

 妻のもとへ駆け寄り、両膝をつくと、夫は全身全霊で彼女の体を抱き締めた。その温もりを、何よりも尊い命を、しかと包み込む。

「遅くなってすまない」

 夫のこの言葉に、妻は涙を流しながら何度も何度もかぶりを振った。大粒の真珠が、夫の胸元に染みを作る。

 愛する夫が助けに来てくれた。その事実だけで、今の妻には十分過ぎるくらい嬉しかったのだ。

「将軍!」

 そこへ、倉庫を捜査し終えたジャスパーが駆け込んできた。それと同時に、船内の照明が一斉に点灯し、闇が打ち砕かれる。

 彼の凛然とした声が、室内に響き渡った。

「乗組員全員の身柄を確保! 実行犯と思われる二人組も、拘束いたしました!」

 背筋を真っ直ぐに伸ばし、ピッと敬礼しながら、事態がほぼ鎮静したことをジークに報告する。

 倉庫の捜索終了後、ジャスパーたち七名はすぐさま乗船。艦艇五隻で応援に駆けつけた部隊と合流し、ジークたち先行部隊の援護に回っていた。隙間という隙間までくまなく調べ上げ、今しがた、船内の制圧を完了させたのである。警察も出動し、現在陸路からこちらへと向かっているらしい。

「ご無事だったのですね……」

 ジークの腕に抱かれたディアナを見て、ジャスパーは安堵した。二人が一緒にいるというその幸せを噛み締め、顔を綻ばせる。ディアナもまた、それに応えるように、謝意を含んだ笑みを返した。

 が、そんなふうに浸っていられたのもつかの間。ディアナの蟀谷部分に押し当てられた白い布——おそらくテーブルクロスを引き裂いたもの——が、真っ赤に染まっていることに気づいたジャスパーは、ぎょっと目を見開いた。

「怪我をされたのですかっ!?」

「あっ、いえ、大丈夫です。たぶん首から上なので、派手に出血しているだけで……」

 平然とそう言ってのけたディアナだったが、傷口を押さえているその白い手にも、縛られた痕が痛々しく残っていた。眉を顰め、心配そうに見つめるジークの表情にも胸が痛む。

「誰か!! 医療班をこちらに呼んでくれっ!!」

 室外にいる兵士にジャスパーが大声で支持を飛ばすと、即座に「了解!」という明朗な返事が返ってきた。

 外には、港口……もとい、この船を封鎖するように、二隻の戦艦と三隻の支援艇が停泊している。万が一に備えて編成された医療班も、すでに上陸し、待機済みである。

 おそらくこれらの艦艇は、元帥自ら命令を下し、こちらに派遣したものだろう。

 港は、軍が完全に掌握した。

「……なぜ、この場所がわかった……」

 しばし流れた沈黙の後。

 イーサンの足下にいまだへたり込んだままのリヴドが力なく呟いた。肩を落とし、項垂れたその姿からは、以前のような若々しい威勢などもはや微塵も感じられない。

 この短時間で急速に衰え、霞み、ただの初老に成り下がったリヴドに対し、ジークが吐き捨てるようにこう言った。

「……皮肉だな。貴様が蔑んだヒトの生み出した技術により、その身を滅ぼすことになるとは」

 冷酷に放たれた言葉。これには、戦友であり親友であるへの想いが、つぶさに込められていた。

 この男のせいで投獄され、貴重な数年を潰されたマキシム。そんな彼が、闇に堕ちることなく身をやつした結果——誇りを失わなかった結果が、今のこの状況に繋がっているのだ。

 このとき、ジークたちが装着している通信機インカムからは、かすかに鼻をすする音が聞こえた。

「……っ、私は間違ってなどいない!! 竜人こそ、神に選ばれし至高の存在!! この世界は我々が導き、統べねばならぬと、なぜわからんっ!!」

 この短時間で年相応に老け込んだリヴド。だが、まだその隻眼は死んではいなかった。

 ディアナの指摘に異を唱えるように、同族であるジークに共感を求めるように、ほとんど半狂乱に近い状態で、喚き、怒鳴り散らす。

 けれど、ジークはこれに応じる代わりに、まるで氷のように凍てついた視線を浴びせかけた。

 この男には、話すことなど……話したいことなど、何もない。然るべきところが、然るべき裁きを下すのを、粛々と待つだけだ。

「……連れていけ」

 ジークの命令に黙礼したジャスパーが、リヴドの腕を掴み、無理矢理立ち上がらせた。悔しさに顔を歪めながらも、その全身からは覇気がまったく感じられない。

 とくに抵抗する素振りも見せることなく、ハンス・リヴド伯爵議員は、この場をあとにした。


 たちどころに閑散とした広いスイートルーム。今この部屋に残っているのは、ディアナとジーク、それからイーサンの三名だ。

 ディアナの身体を労りながら、間もなく到着するであろう医療班を待つ。

「……大丈夫か?」

「あ、はい。大丈夫です。たぶん血も止まって——」

「——ないと思うぞそれは」

 先ほどより回復したとはいえ、ディアナの蟀谷からは依然血が流れ続けていた。不安げに顔を悩ませる夫に、両眉を上げて強がってはみたものの、やはりまだ少し疼く。

 それでも、夫に抱かれていることで、妻の身体は驚くくらい軽くなっていた。気持ちまでもが癒される。

 さらに、彼女にはずっと気になっていることがあった。夫の腕からひょこっと顔を出し、その対象へと目を向ける。

「……オランド中将、ですか?」

 ディアナが遠慮がちに話し掛けた相手は、熊が切り株に座り込むごとく窓枠に腰掛けたイーサンだった。

 ここで彼を見たときから……ともすれば、数か月前からずっと。

 ディアナは、夫の上官であり、夫の口から名前をよく耳にしていた彼と、いつか話してみたいと強く望んでいたのである。

「俺のこと知ってくれてるとは光栄だな」

 唐突なディアナの質問に一瞬目を丸くしたイーサンだったが、すぐにいつものように白い犬歯を覗かせた。「よっこらせ」と、窓枠から巨体を持ち上げる。その足で後輩夫婦に近づくと、「できればもっとちゃんとした形で会いたかったけどな」と眉を下げた。そんなイーサンにつられ、夫婦も表情を和らげる。

 長い長い夜が、ようやく明けようとしていた。

「あー、始末書考えねぇとなー」

 長身をさらに伸ばし、ググッと背伸びをしながらイーサンが言った。これに焦ったジークが間髪容れずに口を開く。

「そんなっ!! この件は私一人の——」

「るっせ。後輩が何言ってんだ。先輩にもかっこつけさせろ」

 が、聞き入れられないとばかりにイーサンが言葉を被せた。始末書だけで事が済むとは到底思えないが、それも仕方がない。

 可愛い後輩のためなら一肌だって二肌だって脱いでやる。昔から、彼はそう心に決めているのだ。

「……ん?」

 不意に複数の足音がイーサンの鼓膜を揺らした。それらはしだいに大きさを増し、こちらへと近づいてくる。

「来たみたいだな。医療班」

「そのようですね」

 同じくジークにも聞こえていたようで、腕の中の妻にもう一度容態を確認しようと声を掛けた。

「ディアナ、大丈夫か?」

 だが。

「……あ、はい……」

 なんだか反応が薄い。目も虚ろだ。

「ディアナ……?」

 傷口に当てられた血塗れの布が、するりと彼女の手から滑り落ちた。

「……だい……じょ、ぶ……」

 長い睫毛が、ふるりと揺れる。

「……——」

「!? ディアナッ——!!」

 彼女の蒼眼は、瞼に覆われた。

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