オニキスと隠された真実(2)

 ぴちゃん、と水の滴る音が聞こえた。何か硬いものに跳ね返って生じたような音。一定間隔で絶えず奏でられるその音は、しだいに大きくなってきた。

 徐々に視界が広がり、定まる焦点。重い橙色の明かりが、目の端でちらちらと揺らめいている。視野の大部分を占めたのは、コンクリートの床だった。

 じめじめと湿った空気が肌を這い、普段接することのないような臭いが鼻を突く。

 これは……潮のかおり?

「!?」

 ここで、ディアナの意識は鮮明になった。

 両手を後ろ手に縛り上げられ、両足も足首の部分を結束バンドで固定されている。まったくもって身動きが取れない。それでも無理矢理動かそうとすると、地味に痛みが走った。

 彼女がいたのは、湿気った薄暗い空間。先ほどから目の端でちらちらと揺れているカンテラの灯りだけが、この空間を照らす唯一の明かりらしい。

 彼女の周囲に散乱する木箱が、ここがどこかの倉庫であることを暗示していた。

 寒さが下から突き刺さる。まるで刃物のように研ぎ澄まされた、冷たいコンクリートの上に直に座らされているせいで、彼女の体はすっかり冷え切っていた。

「お目覚めですか? ディアナ・フレイム様」

 突として耳に入ってきた野太い男性の声。ハッと息を呑み、その元となる方向へと顔を動かす。

 そこに立っていたのは、

「建国パーティー以来ですかな。お会いするのは」


 漆黒のマントを纏った隻眼の男——ハンス・リヴドだった。


 リヴドは、ディアナの近くまで歩み寄ると、彼女の真正面に立った。他者を貶めるような目つきは相変わらず。情など微塵も感じられない。

 ぞくりと体が震える。しかし、この震えが、寒さによるものなのか、はたまた恐怖によるものなのか、ディアナ自身にも判断がつかなかった。

 それでも、彼女はリヴドの顔からひと時も目を逸らさなかった。彼の黒い片目に視線を凝らす。黙ったまま、じっと、睨みつけるように。

「……良い目だ。さすがあの男が見初めただけのことはある」

 それまで以上に不気味で不快な笑みを浮かべながらリヴドが言った。『あの男』とは、おそらくジークのことだろう。

 この表情だけで、彼がジークに対し、よほど良からぬ感情を抱いていることが瞭然だった。

「泣くことも叫ぶこともなさらないとは……見上げたものです。感心いたしますよ。まあ、そうしたところで誰も助けには来ませんが」

「……」

「それにしても頂けませんな。衝動でについて行っては。そんなに息子のことが気になりましたか?」

 実に白々しい台詞を吐き、リヴドがちらりと目配せした。訝しく思いながらも、つられてディアナもそちらへ目を向ける。

 すると、薄暗い中、壁に張り付いた一つの影が炎に蠢いた。

「ご気分はいかがですか? 侯爵夫人」

 聞き覚えのある声だ。それも、ついさっき。物言いこそ丁寧だが、鼓膜に当たっただけで、嫌悪感がふつふつと沸き上がる。

 リヴドとディアナの視線の先には、腕を組み、足を交差して、壁に凭れたイアンの姿があった。

「……息子?」

 とっさのことでつい聞き逃しそうになったが、リヴドの口から発せられるにはあまりにも違和感のある単語だったため、ディアナは時間差で反応してしまった。

 だが、二人の顔を比較して思ったことがある。……似ているのだ。何もかもが。

 角ばった顔の輪郭、髪の色、目の色、さらには厭わしい笑い方まで……何もかもが酷似しているのだ。

「ええ。それは私の次男なのですが、十二年前に妹夫婦のもとへ養子に出しましてね。今でこそ立派に大会社を統べるまでになりましたが、大人しい長男に比べ、昔は少々やんちゃが過ぎまして」

 わざとらしい笑みをいっさい崩すことなく、顎鬚を撫でる。自分のことを否定的に説明されているのにもかかわらず、イアンも同じような笑みを湛えていた。

 言葉を絶やさぬリヴドのことを、ディアナは厳しい表情のまま直視し続けた。

 しかし、次に彼から告げられた衝撃の事実により、ディアナは一瞬呼吸をすることができなくなってしまった。

「心配し、嘆いた妻が『社会奉仕』をするようせがみ、養子に出す前にはおかみの広報配布を担っていた時期もあったのですが……そこでも少しやんちゃをしましてね。をするのにずいぶんと苦労しました。確か……十三年前の今日、でしたか」

「——!?」

 衝撃の事実。その鋭利な刃が、角度をつけてディアナの胸を一気に貫いた。

 あの事故を起こし、母を殺したのはイアンで間違いない。自分のまなこと記憶が何よりの証拠だ。なのに、そればかりか、イアンの実父がこの男で、この男が事故を揉み消した張本人だったなんて——。

 反省なんかしていない。わずかな悔悟さえも感じていない。……わかっていた。あの事故を起こした本人も、それを揉み消した人物も、喪われた命のことなどこれっぽっちも気に掛けていないということは。

 けれども、それを目の当たりにしてしまった今、ディアナは自分で自分の感情がコントロールできなくなっていた。下唇から鉄の味が染み出し、全身がわなわなと震える。

 はっきりとわかる。この震えは、恐怖や寒さなんかじゃない。——激しい怨嗟えんさだ。

 ディアナはこのとき、生まれて初めて、凄まじい憎悪を抱いた。

「ますます良い目になりましたな。そうでなくては張り合いがない。……しばしお待ちください。今、貴女に相応しいはこを用意させておりますので」

 ディアナを見下ろすリヴドの視線が、よりいっそう冷酷さを増した。が、どこか愉しんでいるようにも見える。

 そんな実父に対し、イアンが恭しく口を開いた。

「では、父上。自分は明日も仕事が控えておりますので、これにて失礼致します」

「ああ、ご苦労だったな。……就任した今が大事な時期だ。世界にお前の名をしらしめる時がようやく来た。今こそ私の期待に応えてくれ」

「はい」

 そう言うと、悦に入った態度でディアナを一瞥し、イアンはこの場から立ち去った。

 陰鬱とした空間にリヴドと二人きりとなってしまったディアナ。俯き、悔しさで瞼を閉じる。

 目の前の相手に怒りをぶつけることもできず、逃げることはおろか、動くことさえできない無力な自分が情けなくてたまらない。

 自分はこれからどうなってしまうのか。どこかへ連れて行かれるのだろうか。このまま殺されてしまうのだろうか。

 もう、夫には、会えないのだろうか。

「……」

 瞼の裏に映った、愛おしい笑顔。

 ……会いたい。

「……っ——」


 彼に、会いたい——





 ◆ ◆ ◆





 国内は、かつてないほど緊迫した状態に陥っていた。

 首都で、それも街の中心部で、白昼堂々テロ事件が発生した。幸いなことに死者は出なかったものの、重軽傷合わせて数十人の負傷者が出る惨事となった。

 警察は、早々に実行犯を特定し、現在行方を追っている。同時に、街の警備も強化し、人々は脅えながらもなんとか日常生活を営めるようになった。

 しかし、軍部では、いまだ物々しい状況が続いている。そして、それは時間を追うごとに悪化の一途を辿った。

 テロ直後の夕方。軍本部に飛び込んできた、一本の悪報。


 ジーク・フレイム少将の妻——ディアナが行方不明。


 これにより、軍の内部は大きく震撼した。

 情報を提供したのは、花屋の彼女。ディアナが店になかなか戻ってこないと心配していたところにテロの一報が入り、慌てて状況を確認したのだという。だが、街でディアナの姿は見つからず、病院に運ばれたという怪我人リストにも名前が載っていなかったため、直接本部に連絡したらしい。

 ジークが不在だということはディアナから聞いていた。ゆえに、一刻も早く彼に伝えて欲しいと、担当者に必死に訴えかけたのだそうだ。

 そしてそれは、彼女の望みどおり、演習中のジークの耳にすぐさま届けられることとなった。

 峻厳な山岳地帯を背負った荒野。凍てつくほどの冷気が静寂を助長し、空には降り注がんばかりの星屑が大海を成している。

 そこに設営された兵営キャンプの指令室。その責任者であるジークに、今しがた、本部から緊急通信が入った。

「……っ——!!」

 通信終了後、ジークはデスクを思いきり叩きつけた。遣り場のない焦りと怒りで、彼の胸は今にも押し潰されてしまいそうだった。

 普段は温厚なジーク。常に沈着冷静で、滅多なことでは動じない。性別や階級の垣根を超え、何でも相談できる良き上官。これが、部下たちが抱いている彼の印象だ。

 けれども、今の彼には、誰一人として近づくことなどできはしないだろう。それほどまでに、彼は平静さを失ってしまっていた。

 現在、百人体制で警察が懸命にディアナの捜索を行っているとのこと。にもかかわらず、まったくと言っていいほど有益な情報は得られていないらしい。何らかの事件に巻き込まれた可能性は十分に考えられるが、行方不明となってからおよそ三時間、依然として足取りは掴めていないのだ。

 居ても立っても居られない——この心情に、ジークは支配され、駆り立てられていた。

 頭の整理すら追いつかないこの状況で、自分にできることなどほぼ皆無だ。その自覚はあるし、先ほどからなんとか精神を落ち着かせようと試みているけれど、そんなことなどできるはずがなかった。

 最愛の妻が突然いなくなったと告げられ、落ち着いてなどいられるはずがない。

 ——何かしなければ。……いったい何を?

 ——行かなければ。……いったい何処へ?

 これらの思考が堂々巡りするばかりだ。それに、嫌な予感しかしない。

 こんな状態では、このまま演習を続けることなど不可能。そう判断し、上へ中止の要請をしようと通信機を手にした。

 ちょうどそのとき。


 ピーッ、ピーッ——


 また、通信が入った。

「……っ、はい」

 ジークが急いで応答すると、聞こえてきたのは、機械を通した音声にもかかわらず、大変聞き馴染みのあるの声だった。

『よう、ジーク。生きてるか?』

「……オランド中将?」

 声の主は、なんとイーサン・オランド。その語調から、彼はこの日起こった出来事をすでに把握しているようだった。

『元帥から命令だ。……演習は中止。すぐに引き揚げて来いってよ』

「!」

 今まさにジークが申し出ようとしていた事柄を、先にイーサンが述べるというまさかの展開。逸る気持ちを抑えきれないジークは、即刻部下たちに伝達しようと、イーサンとの通信を切ろうとした。

『っと、まだ切るんじゃねーぞ。俺はべつに、元帥の伝言役メッセンジャーやるために連絡したわけじゃねぇからな』

 が、ジークの心情と行動を見事にお見通しだったイーサンは、とくに抑揚をつけることなく、ぴしゃりとこう言い放った。普段喋る速度に比べると、明らかに意識して言葉をゆっくり押し出している。

 イーサンの意図がわからないジークは、焦燥感に駆られながらも、上官である彼の話に耳を傾けた。

『今日、街中まちなかでテロがあったことは聞いたか?』

「……え、ええ。ディアナがいなくなったのと、ほぼ同時刻に起こったと聞いています」

『そうか。……今から話すことはあくまで俺の仮説だからな。そのつもりで聞けよ』

「……?」

『そのテロとお前の嫁さんの失踪事件が、同時刻に、それも近い場所で起こったのは、偶然じゃないと俺は疑ってる。……むしろテロは、お前の嫁さんを攫うためのカムフラージュだったんじゃないかってな』

「!?」

 ジークの全身に、戦慄が走った。

 焦るあまり、まったく機能していなかった彼の思考回路。だが、イーサンのこの仮説により、まるでダムが放流されたかのごとく、一気に脳内が情報と分析で溢れ返った。

『あんな繁華街で起きたテロにしては規模が小さ過ぎる。その気になれば、もっとダメージを与えられたはずだ。……今日、嫁さんが街に出た心当たりは?』

 なんということだ。

「……今日は……」

 こんな大切なことを、

「今日は、妻の亡くなった母親の……命日です」


 失念していたなんて——


「おそらく、亡くなった場所に、花を手向けに……」

『……なるほどな』

 いくら後悔したところで、時間が戻るわけではない。もし、「絶対に家から出るな」と妻に言っていたところで、この日の彼女の行動を止められていたという確証もない。彼女なら、どうやってもあの場所へ行っていただろう。彼女は……ディアナは、そういう子だ。

 しかし、それでも、自分にできることが何か一つくらいあったのではないかと悔やまれてならない。自分で自分が許せない。

『……仮にもしコレがヤツに仕組まれたことだとしたら、お前が少しでも取り乱したらヤツの思うツボだ。焦って一人で突っ走んじゃねーぞ』

「!! ……っ、そんなことくらい、わかっていま——」

『とか偉そうなこと言ってっけど。……俺も嫁さん同じ目に遭わされたら、正気でなんていられる自信ねぇわ』

 痛い部分を抉られ、ついイーサンに噛みついたジーク。いつもなら、軽く聞き流すような些細なことでさえも、今は過剰に反応してしまう。

 けれど、その気持ちは、イーサンにとってもけっして他人事などではない。ジークの焦りもつらさも苛立ちも、すべて痛切に理解できる。

 彼にも、イザベラという愛する妻がいるから。

『俺らにできることは何でもする。だから、気ぃしっかり持て』

「中将……」

 一人じゃない、一緒に戦ってやる。

 先輩の厚い想いは、後輩の胸にしかと伝わった。

『つーわけで本題』

 と、ここでイーサンの声のトーンが少しだけ上がった。語気も若干軽くなっている。

 なにやら話題が転換される様子だ。

がお前に話があるってんで、俺の執務室からわざわざ通信してんだよ。家からだと、ラボよりも本部のほうが近いっつってな。今代わる』

 そうして、次にジークの耳に入ってきたのは、

『お疲れ様です、将軍』

「……マキシム?」

 軍の研究者で、今回の兵器の開発者——マキシム・ダリスの声だった。

『色々お話したいことや労って差し上げたいことは山ほどありますが時間がないので単刀直入にお聞きします』

 驚くジークをよそに、マキシムはここまで一息で言い切ると、ようやくすうっと深呼吸した。今の彼からは、常の飄々とした雰囲気など微塵も感じられない。

 そして、

『ディアナ様は、今日を装着なさっていますか?』

 彼の口から、本題が語られた。

 この質問だけで、ジークはすべてを悟るに至った。瞑目し、静かに返答する。

「……ああ。おそらく、日中は着けているはずだ」

『そうですか。では、私の考えていることはわかりますよね?』

「……」

 なぜ、マキシムが自分にコンタクトをとってきたのか。それも、わざわざイーサンのもとから、勤務時間外に。

『はっきり申し上げて、アレはまだ試用段階にも至っていません。小型軽量化したアレが上手く機能するという保証はどこにもない。ですが、やってみる価値はあると思います』

 すべては、このためだったのだ。この許可を得るために、彼は自分に連絡をしてきたのである。

 マキシムの言う『アレ』とは、ディアナが右耳に装着しているピアス——その中に内蔵されてある、小型のGPS発信機のことだ。

 心のどこかで、いつかはこんな日が来るのではないかと思っていた。ディアナの身に何か起こるかもしれないと。

 万が一の場合に備え、マキシムに極秘に用意してもらったもの。それを、今年の夏、彼女に手渡した。罪悪感を伴いながら。

「っ……」

 妻を見つける有用な方法は、現段階でこれしかないとわかっている。わかっているが、ジークは逡巡してしまった。首を縦に振ることを躊躇ってしまった。

 この手段を採ることで、彼女の人格を無視し、傷つけてしまうことが怖かったのだ。『束縛』や『監視』といった言葉が、ジークに襲いかかった。

 ギリッと歯を食いしばり、項垂れる。

 そのときだった。

『……っ、迷ってる場合じゃないだろ!! ジークッ!!』

 突如飛ばされた怒号に、ジークはハッとし、頭を上げた。思わず背筋に緊張が走る。

 怒鳴り飛ばしたのは、呼び捨てにしたのは、イーサンではない。……マキシムだ。

 叫びにも似たマキシムの必死の訴えは、軍人としてのものではない。それは、まぎれもなく、ジーク・フレイムの親友——マキシム・ダリスとしてのものであった。

 マキシムのこの叱咤により、ジークの心は定まった。

「…………頼む。妻を——」

 そうだ、迷っている暇などない。今自分がこうしている間にも、きっと妻は厳しい状況に置かれている。小さな体で、一人で耐えている。

 自分が来るのを、

「——ディアナを、見つけてくれ」

 待っている。

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