オニキスと隠された真実(1)
商業区域の一等地にある、とある摩天楼。
窓の外には、夜更けの凍てついた空気が、漆黒とともに隙間なく張り付いていた。なんとも不穏で、なんとも不気味な空気だ。
空は雲に覆われているのだろうか。まるで何かに吸い込まれるかのように、街の明かりは今ひとつ精彩に欠けていた。
その最上階に位置する一室に茫として浮かび上がった、四つの顔と三つの眼球。
「この椅子の座り心地にも、だいぶ慣れてきましたよ」
黒革のプレジデントチェアに座った青年が、片方だけ口角を上げ、得意気に放った。足を組み、膝に肘を当て、頬杖をついたその姿は、実に
「それはもともとお前に用意されていたものだ。当然だろう」
こう返したのは、隻眼の中年男性。自慢の顎鬚を愛でながら、満足そうに青年を見下ろした。前髪からぬっと覗いた闇色の
どうやら、この中で一番権力を有している人物は、この男のようだ。
前主を喪い、新主を招いたこの椅子は、よりいっそう黒みを増した。すべては、この男の思惑通り。
残りの二人——対照的な体格をした全身黒ずくめの二人組——は、部屋の隅で恭謙と佇んでいた。暗がりをものともせず、彼らは依然としてサングラスを装着したままだ。帽子も、さらには手袋まで。それらを外す気配はいっさいない。
もはや彼らは、闇の一部なのだ。
「ついにこの日がやって来た」
濁った光の海を眼下に背負い、隻眼の男が声高らかに宣言した。残りの三人に、雷光のごとく一筋の緊張が走る。
「今までは、ほんの余興にすぎん。今日が本当のはじまりだ」
一つ、また一つ。
下界の明かりが、ふっと消えてゆく。
「心して掛かれお前たち。この崇高な計画に仇なすものを……邪魔者を——」
——排除するのだ。
◆ ◆ ◆
ふうと零れた溜息が、
もうかれこれ小一時間、この状態が続いている。壁に掛けられた時計は、すでに午後一時を回っていた。
ダイニングテーブルに一人。ディアナは、カップに入れたスプーンを口に運ぶことなく、もっぱら遊ばせているだけであった。カチャカチャという金属音が、この広い空間にやけに虚しく響く。
ジークが遠征に出てから、今日でちょうど二週間が経過した。すなわち、一人で摂る食事も、今日で二週間。
遠征前も、常に昼食は一人だった。けれど、寂しいと思ったことはない。夜には、また一緒に食卓を囲むことができるとわかっていたから。だから、一人で昼食を摂りながら、夕食の献立を考えたりもした。それが楽しみでもあったのだ。
だが、今は夜になっても夫は帰って来ない。食欲なんてまったくと言っていいほど湧かないし、自分一人のためだけに料理を作る意欲も湧かない。そもそも、分量がわからない。
最初の頃は、多く作り過ぎたがために、二日くらい同じものを食べたこともあった。極度な食欲不振に陥り、一日一食だけという日もあった。実を言うと、今朝も何も口にしていない。
あと一週間。はたして自分は耐えられるのだろうか。……いや。まだよくここまで我慢できたのではないかとさえ思う。
「ジーク様……」
ぽつり、と夫の名前を呼んでみる。返事などないことはわかっている。でも、彼の優しい返事が聞こえるような、笑顔が見られるような、そんな気がするのだ。あまりの不甲斐なさに、涙も出ない。
本日、もう何度目かわからない溜息を吐き、ディアナは時計近くにあるカレンダーへと視線を移した。
彼女がこれほどまで鬱屈しているのには、夫が不在という以外に、実はもう一つ理由があったのだ。
この日は、母——セレネの、十三回目の命日。
十三年前の今日、幼きディアナは愛する母を喪った。心ない若者に、かけがえのない命を奪われた。……目の前で。
夫のおかげで、自分の中に巣食っていた罪悪感は完全に払拭することができた。父の本心も知ることができたし、悪夢に魘されることも、もうない。
しかし、あのときの場景——一瞬にして、白が赤に変わったあの場景だけは、忘れることができずにいる。生涯きっと、忘れることなどできはしない。
遊ばせていたスプーンを置き、一度だけ深呼吸すると、ディアナは静かに瞼を閉じた。
ずっと胸の内に抱いている、ある想い。それは、夫が遠征に向かうよりも前から徐々に大きくなり始め、ここ二、三日で急激に膨らみを増した。
命日に、母が亡くなったあの場所で、祈りを捧げたい。
この想いは、間違っても悔悟から生じたものではない。母に謝罪をしたいとか、自身を戒めたいだとか、そういう意図は欠片もない。
ただ、母に一言「ありがとう」と、「わたしはもう大丈夫だから」と……そう、伝えたいだけだ。最期に見せてしまった泣き顔を、涙を、塗り替えるために。
夫には、なるべく一人で外出しないように言われている。
『禁止』されているわけではない。縛り付けることが妻にとっての負担になると危惧している夫は、けっして彼女の行動範囲を制限したりはしない。話や語調のニュアンスだけを拾い上げれば『勧告』程度だが、彼の気持ちからすれば、おそらく前者に近いものがあるのだろう。
最近は、郊外でのテロ行為も静謐を保っているとはいえ、どこで何が起こるかわからない。危険因子は、どこに潜んでいるかわからないと、父の事件を目の当たりにして強く思った。
でも、それでも。
今日だけ。ほんの少しだけ……数時間だけでも。
あの場所に行きたいと、ディアナは切願してしまったのだ。
「……」
もしも今日、あの石碑の場所で、今のありのままの自分を母に見せることができたなら。
今よりもっと、前を向いて歩いて行ける。
「……行こう」
ディアナの口から、溜息はもう出ていなかった。
◆
年の瀬が迫っているせいか、街は随分と賑わいを見せていた。平日の昼間にもかかわらず、どこもかしこも人で溢れている。
家族連れ、親子連れ、友人同士、カップル……皆それぞれにショッピングを楽しみ、会話を弾ませていた。
ディアナがこうして繁華街に出るのは久方ぶりのことだ。夫がいない現在、外に出ることといえば、父の見舞いだけ。それも、週に二度程度だ。
父と会話ができることは純粋に嬉しいし、少しずつでも回復しているその様子は大変喜ばしい。そのことが、彼女の唯一の気分転換となった。
頭上はあいにくの曇り空。
それでも、人々の笑顔や、華やかなショーウィンドウを瞳に映すだけで、とても晴れやかな気分になれた。
それらを横目に、胸に小さな花束を抱え、目的地へと歩みを進める。すっかり葉を落とした街路樹の下をくぐり、真っ直ぐに、軽やかに。
街へ出て最初に、ディアナは例のごとく馴染みの花屋へと向かった。ちょうど、フラワーアーティストの彼女が一人で店番をしていたので、目的を告げ、この可愛らしいブーケを作ってもらった。
明るい暖色系で統一したブーケ。橙色や黄色が好きだった母に、ぴったりのブーケだ。
黒いロングコートに黒いショートブーツ。両耳には、パールのピアスが清楚な輝きを放っている。コンクリートで舗装された歩道を、ブーツの踵をカツカツと鳴らしながら、ディアナは目的地へと急いだ。
十三年前の今日、母が亡くなった、あの場所へ。
石碑のもとに
母を含め、同時に三人の命が喪われたこの場所。今日が命日ということもあってか、地面を埋め尽くすほどの花束が、そこにはびっしりと供えられていた。
遺された者の気持ちは、ディアナ自身、痛いくらいわかる。
悲しさも、寂しさも、つらさも、苦しさも。
裁きを受けることのなかった犯人に対する、そう仕向けた誰かに対する、怒りや憎しみも。
口に出したりはしないけれど、遺された者は皆、そういう感情を多かれ少なかれ抱いていることだろう。それが、自然な心理だ。
だが、それらの感情よりも、虚しさのほうが圧倒的に大きい。亡くなった者は、もう二度と戻ってこない。どんなに強く願っても。
命の尊さが、改めて身に突き刺さる。
「……」
だからこそ、どんなことがあっても、未来を見据えて生きてゆく。大切な思い出を、胸に刻んで。
それが、遺された自分たちに表現できる、精一杯の感謝の気持ちだと思うから。
「……お母様。あのとき、わたしを守ってくれてありがとう。そのおかげで、一番大切な彼に出会うことができた。……わたし、彼と一緒に生きていくから、だから——」
——もう、心配しないで。
微笑みとともにディアナがそう告げた瞬間、一筋の風にさらりと頬を撫でられた。冬のそれにしては、なんだかとても温かい。
直後、彼女が手向けたブーケの花びらだけが、ふわりと揺れた。
まるで花が——母が笑っているような、そんな気がした。
立ち上がり、気持ち新たに一歩を踏み出す。その足取りは、来るときよりも、さらに軽やかなものとなっていた。
それには、ここへ無事来ることができたという安堵のほかに、もう一つ理由が存在する。
実はこのあと、花屋の彼女と、ある約束を交わしているのだ。
つい先日、花屋の近くに新しいスイーツ店がオープンし、そこのフルーツケーキが人気を博しているらしい。ディアナも絶対気に入るという確信があるそうで、是非ご一緒にと、なんとデートのお誘いを受けてしまったのである。
家に帰宅しても一人。とくに夕飯の準備をする必要もない。よってディアナは、二つ返事で快諾した。なにより、同世代の女の子と遊ぶ機会など滅多にないため、嬉しくて仕方がないといった様子だ。彼女自身、自分でも驚くくらいに浮かれている。
父親である棟梁が得意先から戻って来たら店番を交代してもらうので、それまで花屋で待っていてほしいとのこと。ゆえに、これからまた、彼女のもとへと向かうのだ。
心弾ませ、元来た道を再び歩き始めた。
次の瞬間。
ドオォォォンッ——
突如、ディアナの後方で轟いた、凄まじい爆音。
地面がうねるように振動し、空気が皮膚を引き裂くように走った。その音と風圧に驚き、思わず立ち止まって振り返る。
そこに広がる光景に、彼女は言葉を失った。
目視できる範囲で、十数人のヒトと竜人が倒れ込んでいた。うつ伏せに。仰向けに。
周囲には、爆風で粉々になった硝子の破片や、彼らが持っていたと思われる荷物が散乱している。
逃げ惑う人々の悲痛な叫び声が、ディアナの耳元へと這い上がってきた。灰色の噴煙が灰色の空へもくもくと昇り、たちどころに辺り一帯を覆ってゆく。まさに地獄絵図だ。
助けなきゃ。目の前で倒れている人々を見て、そう思った。
逃げなきゃ。目の前で逃げ惑う人々を見て、そう思った。
けれども、ディアナの足は、まるで地面に重い枷で固定されているかのように、ぴくりとも動かなかったのだ。彼女の心裏は、得も言われぬ恐怖で塗りたくられていた。
そのとき。
彼女の蒼眼に、一人の竜人男性の姿が飛び込んできた。
黒革のジャンパーと黒いジーンズを身に纏ったその男性は、この状況に焦る素振りも恐れる素振りもいっさい見せることなく、人々の流れに逆行して悠然と歩いていた。
場違いとも言える彼の異様な様相。彼を取り巻く空気も、なんだか不気味だった。
しかし、ディアナは、そんな彼から一瞬たりとも目を離すことができなかった。
わたしは彼を知っている——このフレーズが、ディアナの脳裏をつっとよぎる。
どこで見た?
必死で記憶を呼び覚ます。すると、直近で該当したのは、とあるニュース番組だった。
そうだ。確か彼はヴェリル男爵の——父を撃った竜人の——息子だ。
ディアナの頭に浮かんだのは、男爵が事件を起こした翌日に行われた彼——イアンの就任会見だった。自身の父親が引き起こした事件にもかかわらず、それを謝罪しているのにもかかわらず、どこか他人事のような口振りに憤りを覚えたことを思い出していた。
その彼が、どうしてこんなところに? それに、あの余裕の顔はいったい……。
……先日? ……ニュース?
いや、違う。そうじゃない。そんな間近な過去のことじゃない。
わたしは……
「……っ——」
わたしは、十三年前のこの日、この場所で、あの男を見た。
年を取り、幼さは消えているけれど、面影はしっかりと残っている。フロントガラス越しに、自分は彼の顔をはっきりと見たから。涙に滲んだこの目で、はっきりと。
彼は、イアンは、あの日車を運転していた。猛スピードで歩道に突っ込んできた。
母を——
——コロシタ。
蘇る記憶。その
息が苦しい。脈が速い。血圧が上昇していく。耳鳴りがする。
だが、不思議なことに、今しがた苛まれていた恐怖感は、跡形もなく消滅してしまった。今、彼女の頭には、周りの喧騒など微塵もない。
あるのは、十三年前の出来事と、あの男に対する負の感情だけだ。
恐怖とともに消えてなくなった足の枷。カツンッとヒールを蹴り上げると、ディアナは無意識に彼を追いかけていた。追いかけてどうするかなど、彼女自身にもわからない。
急がなければ。見失ってしまう。
その一心で、ただひたすら走った。人々の流れに逆らい、隙間を縫い、ただひたすら必死に。
恐怖に支配された人々の目には、この状況で異常とも言える行動をとっている二人の姿など映ってはいなかった。
走って、走って、走って。
気がつくと、繁華街から少し離れた路地裏に立っていた。
建物と建物の間。細い路地の中程で、彼がぴたっと歩みを止める。
「やっぱりオレの顔覚えてたんだな。ディアナ・グランテさん。……いや」
そしてついに、
「フレイム侯爵夫人」
ディアナは、イアンと対峙した。
黒い髪と黒い瞳。彼とディアナの間に少し距離があるため定かではないが、おそらく身長はジークよりも十センチ程度低い。画面越しに見るよりも、かなり細身で、引き締まった印象だ。
「あのガキがこんな上玉に化けるなんざ思ってもみなかったが……なかなかヒトも興味深いもんだな」
「……」
他人を見下したような態度と嫌味な口調。舐めるような視線には、もはや不快感しか催さない。
「一発ヤりてぇところだが、大事な商品に
彼の真意がまったくもって理解できないが、その口ぶりからは、ディアナが自分を追いかけてくることが最初からわかっていたように聞こえた。暗にそう『仕向けた』と言っているのだろうか。
ただ一つ引っ掛かったのは、彼が口にした『親父』というワード。
「……あなたの父親は死んだでしょう?」
そう。彼の父は死んだはずだ。夫の前で。自ら引き金を引いて。
では、彼の言う『親父』とは、いったい誰のことなのか。
「ふーん。この状況で動じないとは、たいした度胸だな。ますますヤりたくなった」
「……」
「まぁそんな焦んなって。……すぐに会わせてやっからよ!!」
「……? っ——!!」
突然、イアンが語気を強めた。それが合図だった。
背後から忍び寄っていた二つの影に、ディアナはその身体を捕らえられてしまった。後ろに回された両の手首を結束バンドで固定され、鼻から口元にかけて思いきり布を押し当てられた。男二人がかりで押さえ込まれてしまっては、暴れようにも暴れられない。
布のせいでくぐもった微弱な声。しかし、仮にもっと大声が出せていたとしても、今の街の惨状では、彼女の声など誰にも届きはしないだろう。
布に染み込んでいる薬品が、彼女の体内を徐々に蝕み始めた。意識が朦朧とする。もう、立っていられない。
ジー、ク……さ——
ディアナは、闇に攫われた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます