ジルコンを光に翳せば(2)

 ジークが指定した通りの時刻に、フレイム邸へ使者がやってきた。赤髪のボーイッシュな竜人の女性。身なりから察するに、どうやら彼女も軍人らしい。

 車中では、ディアナの愛らしさに対する賛美と、いかにジークが尊敬に値する人物かということを、ひたすらに熱弁してくれた。

 最初は、彼女の話に相槌を打つだけのディアナだったが、嫌味のない軽快な口調で言葉を発する彼女に感化され、目的地に到着する頃には、自然と言葉を交わせる関係にまでなっていた。

 降車し、彼女に同行して建物へと近づく。

 高いものから低いものまで、大小様々な棟が何棟も連なっていた。どれも、真白く塗られた壁と、鮮やかな青い曲線屋根が特徴的な、近代建造物だ。

 軍の本部という重要施設であるため、外部からみだりに一般人が出入りすることはもちろん禁じられているが、例外的に、身内は手続きを踏めば出入り可能となっている。

 それでも、立ち入りが許可されているのは一部の棟だけで、その他大部分は禁戒令が敷かれてあるのだ。

 二人が玄関先まで赴くと、そこには二人の守衛と一人の男性が立っていた。

 女性軍人は、その男性に挨拶を交わすと、ディアナに笑顔で敬礼をしてこの場を離れた。ここからは、どうやらこの男性がディアナに付き添ってくれるらしい。

「はじめまして、ディアナ様。ジャスパー・エミリオと申します。お目にかかれて光栄です」

 柔らかな笑みでディアナを出迎えてくれたのは、ジークの部下であるジャスパーだった。

「ディアナ・フレイムです。いつも主人がお世話になっております」

 初対面の夫の部下に、深々と頭を下げて妻らしく挨拶をする。

 家で仕事の話をあまりしない、否、できないジークだが、ジャスパーのことは何度か聞いたことがあった。とても優秀な青年で、自分の秘書業務にも従事してくれているヒトなのだと。夫の口ぶりからは、彼のことをとても信頼しているのだということが窺えた。

「では、参りましょうか」

 ディアナをエスコートするように、ジャスパーが入り口の重厚な扉を開く。

 ディアナが誰の来客で、その人物とどういう関係であるかを理解した守衛二人が、彼女に向かい、最敬礼した。彼女もそれに応えて会釈を返し、建物の中へと入っていく。

 床が大理石張りのエントランスホールを抜け、青い絨毯が敷き詰められた長い廊下を渡る。途中、何度か右左折を繰り返したため、一人で出口まで辿りつくことはもはや困難だと、ディアナは悟った。

「こちらです」

 そうしてジャスパーに案内されたのは、とある個室。

 扉に掲げられた楕円形のプレートには、金字で『Major General Sieg Flame(少将ジーク・フレイム)』と記されていた。

「失礼いたします。奥方様をお連れいたしました」

 そう言って、ジャスパーがドアをノックすると、ほどなくして中から入室を促す返事があった。

 ドア越しに聞こえたのは、紛れもなく夫の声。毎日耳にしているはずなのに、妻は必要以上に反応してしまった。緊張のあまり、肩に力が入り、鼓動が速くなる。

「どうぞお入りください」

 ジャスパーによって、カチャリと扉が開かれた。隔てられていた空間が一つに繋がる。

 そして、その向こう側には、

「ご苦労だったな、ディアナ」

 優しく微笑む夫の姿が。

 ジークは、奥の執務机を離れ、入り口のほうへと向かってきた。突然湧き出た用事を快く引き受け、ここまで足を運んでくれた妻を慰労する。

「お疲れ様でございます。おっしゃっていたもの、お持ちいたしました」

「ああ、すまない。ありがとう。 そこへ掛けてくれ」

 妻から目的物を受け取った夫が指し示したのは、部屋の中央にある応接セット。

 幅約百五十センチほどのガラステーブルを挟むように、黒革のソファが対で配置されていた。

 大人二人は悠々と座れるだろう大きさのソファに、体の小さなディアナがちょこんと腰掛ける。入室する前よりも幾分か緊張は和らいだが、それでもまだ、肩の力を完全に抜け切れてはいなかった。

 少しでも気を紛らわそうと、そこから室内を見回したりなんかしてみる。

 すると、最初にディアナの目に飛び込んできたのは、ここでも本棚だった。家の書斎と同程度かそれ以上の書物が、隙間なく収められている。

 ジークは、妻から手渡された封筒を机の引き出しに入れると、自身もソファへと向かった。腰を下ろす際、耳に掛けていた銀糸の束が、胸元にさらりと流れ落ちる。

 対面し、改めて夫の顔を正面から見つめることとなったディアナは、なんとも言えない気恥ずかしさに襲われた。

「どうぞ」

 そこへ、ジャスパーが二人分の紅茶を淹れて運んできた。タイミング良く、というべきか。

「あっ、すみません……!」

 出された紅茶とジャスパーの顔を交互に見て慌てるディアナ。普段客人という立場にあまり慣れていないため、受け身であることがどうにも落ち着かないらしい。

 そわそわしているディアナのその姿に、青年二人は揃って破顔した。

 実はディアナ。手ぶらで参上する勇気はなく、瓶詰したドライフラワーとハーブを持参していたのだ。機会があれば、自らお茶を振る舞おうと。けれど、ここは差し出ないほうが良さそうである。

 二人に促され、ディアナはティーカップに口を付けた。ふわりと漂ったアールグレイの香りが、張りつめた心を少しだけ和らげてくれた。

 その矢先。

「あと一仕事終えれば今日は帰宅できるんだが、それまでここで待っていてくれないか?」

「え?」

 夫のこの言葉に、ディアナはティーカップを持ったままフリーズしてしまった。キョトンとした妻のまなこに、愛情こもった夫のそれがぶつかる。

「無理にとは言わないが……何か急ぎの用事があるのか?」

「あ、いえ。何もないのですけど……わたしがいて、お邪魔になりませんか?」

 仮にもここは夫の職場。いくら妻といえど、自分みたいなただの客人が居座りなどすれば、夫だけではなく、部下の枷にまでなりはしないだろうか。ディアナはそんなふうに懸念した。

 けれども、夫からの返事は、またしてもディアナの意表を突くものだった。

「気にするな。家ではそれほど休んでもいないのだろう? とくに面白い物はないが……ゆっくりしていてくれ」

 家での仕事を苦に思ったことは一度もない。とくに深く考えたりせず、日々当然のごとくこなしていた。が、夫の目には、そんな自分が働き過ぎだと映っていたようだ。

 ディアナは、こくりと頷いた。

 彼女自身、忙しい彼からのこの申し出は純粋に嬉しかったし、何より、少しでも一緒にいたいという気持ちは、ある意味彼より大きいかもしれない。

 妻が受け容れてくれたことに、ジークも安心する。頬を緩めると、目の前の妻と同じ表情を咲かせた。

 と、そのとき。


 ピリリッ、ピリリッ、ピリリッ、ピリリッ——


 断続的な高音が室内に響き渡った。音の根元は、執務机の上にある電話。すぐさまジャスパーが応対する。

 ジャスパーは、電話の主と二言三言交わすと、受話器を握ったまま、ジークに向かってこう告げた。

「将軍。参謀長より内線です」

「ああ。すぐに向かうと伝えてくれ」

 通話の相手もその用件も、すでに知っているらしかったジークは、一言そう指示すると、おもむろにソファから立ち上がった。

「じきに戻る。何かあったらジャスパーに言うといい」

「はい。行ってらっしゃいませ」

 退室する際、「妻をよろしく頼む」と部下に伝える。その後ろ姿には、少将としての歴然たる威風があった。

 必然的に、この部屋に残されたのは、ディアナとジャスパーの二人だけだ。

「お代わりはいかがですか?」

 柔和な笑みと声でジャスパーが訊ねた。

 これに対し、ディアナはほんの一呼吸だけ間を置いて、躊躇いがちに首肯した。

「あ、えっと……じゃあ、もう一杯だけ」

 断ろうかとも思ったが、せっかくの好意を無駄にするのはなんだか気が引けた。それに、正直なところ、ジャスパーの淹れる紅茶をもう一度味わいたいと、純粋に思ってしまったのだ。

 そんなディアナに、ジャスパーは快く二杯目を注いでくれた。

「ありがとうございます。……あの、エミリオ様……」

「自分のことは『ジャスパー』と。敬称も不要です。……どうなさいました?」

「あ……ジ、ジャスパーさんは、その、お仕事とか大丈夫ですか? わたしのことは、どうかお構いなく。大人しくここで待たせていただきますので」

 右も左もわからない場所で、こんなふうにお茶を汲んだり、相手をしてくれるのは非常にありがたい。ありがたいのだが、やはり気が咎めてしまう。

 夫の部下に対する、ディアナなりの配意。しかし、ジャスパーから返ってきたのは、思いもよらない言葉だった。

「……将軍が、貴女を選ばれた理由がよくわかりました」

「……え?」

 目を丸くするディアナに、ジャスパーが微笑みかける。

「ずっと思っていました。将軍が結婚なさったヒトとは、いったいどんな御方なのだろうと」

 ジャスパーがジークに仕えてからというもの、彼は何度もジークの見合い話を耳にしてきた。そのたび、片っ端から断っていったことも知っている。当然、相手の女性はすべて貴族だった。

 ジークがヒトに関し、差別心を欠片も抱いていないことは重々承知している。今自分がここにいることが何よりの証拠だ。とはいえ、まさか結婚相手にヒトを選ぶとは思わなかった。

 だが、今日直接ディアナと会って、ジャスパーは気づいてしまった。

「自分は、昨年から将軍の下で働かせていただいているのですが……実は、少々長いお付き合いでして」

 ずっと見てきた。だから、わかる。

「そう、なのですか?」

 ジークは、なにもヒトを選んだわけではない。

 ほかの誰でもない、彼女ディアナを選んだのだ。

「はい。……自分が初めて将軍とお会いしたのは、今から四年ほど前でした。当時を振り返ると、本当に情けないのですが……」

 こう前置きし、伏し目がちにジャスパーが語り始めたのは、自身の過去についてだった。

 ジャスパーがジークに出会ったのは、彼がまだ十九の頃。今からは想像することもできないが、当時の彼は、誰も手が付けられないほどの粗暴者だった。親からは勘当され、行く当ても目的もないまま、日々喧嘩に明け暮れた。

 その結果、幾度となく更正施設に送られた。けれども、その施設で彼が更正することは、ついになかった。

「他人を傷つけることで、憂さを晴らしていました。その方法しか、知らなかったんです」

「……」

 自嘲気味に、けれど、どこか悲しそうに言葉を続ける。視線は合わなかったが、ディアナはじっとジャスパーの顔を見つめたまま、彼の話に耳を傾けていた。

「あるとき、またいつものように憲兵に捕まって……」

 夜な夜な街を徘徊し、獲物を探した。前科があるため、ジャスパーの姿を見つけると、有無を言わせず憲兵たちが彼のもとへ集まってきた。職務質問と称して。

 その都度、乱闘騒ぎに発展していたことは言わずもがな。大抵は、相手に怪我を負わせて逃げおおせられていたものの、運が悪ければ『お縄頂戴』だったというわけである。

 そのときは、憲兵たちを返り討ちにしてやろうと意気込んでいた。

 だが。


 ——少し、私に時間をくれないか?


 偶然その場に居合わせたジークにより、図らずもそれは阻まれてしまった。もちろん、血の気が多いジャスパー少年が素直に応じるはずもなく。格好の餌食とばかりに、勢いよくジークに殴りかかった。

 けれども。

「見事ねじ伏せられてしまいました」

「!?」


 ——なるほど。多少粗削りだが、筋はいい。


 腕っ節には自信のあったジャスパーも、さすがのジークには、まるで歯が立たなかった。「また今度も湿気た場所で不味い飯」——そう気色けしきばんだ。身から出た錆だと、一応理解はしていた。……納得はしていなかったが。

 ところが。


 ——それほどの威勢、埋もれさせておくにはもったいないな。


 街の荒くれ者に対し、ジークがとった言動は、その場に居合わせた誰もが想定し得ないものだった。

 その光景は、今もなお、ジャスパーの脳裏に焼きついて離れない。

「当時大佐だった将軍は、士官学校のリクルートもしておられたのですが……自分のようなを、推薦してくださったんです」

 この国の軍全体に占めるヒトの割合は二割程度。残りの八割は竜人が占めている。そんな中、犯歴のあるヒトが士官学校へ入学するなど、異例中の異例だった。

「かなり反発もあったと思います。ですが、将軍は自分に対する推薦を取り下げませんでした」

 両親でさえも見放したジャスパーを、ジークはけっして見捨てなかった。ジャスパーが士官学校に在籍している間、忙しい時間の合間を縫っては寮まで出向き、相談にも乗った。

 この恩に報いたい——その一心で、ジャスパーは厳しいカリキュラムにも必死で耐え抜いた。

 二十、二十一の二年間を、モラルとルールに縛られながら過ごした。卒業し、生まれて初めて味わった充足感に、涙が溢れた。

 そんな彼を、ジーク自ら迎え入れ、今に至るというわけなのである。

「将軍のおかげで、自分は生まれ変わることができました。そのうえ、一緒に働かせていただけるなんて本当に光栄で……。いつか自分も、将軍のように立派な人物になりたいと、そう願っています」

 煌々こうこうと、ターコイズブルーの瞳が輝きを放つ。まるで少年のように澄んだ双眸。

 玲瓏とした二つの宝石には、紛れもなく、未来への光明が映し出されていた。

「……ジャスパーさんにとって、主人は憧れなのですね」

 今まで真剣な面持ちで、彼の話をじっと聞き入っていたディアナが、ここで口を開いた。

「はい! ……あっ、も、申し訳ありませんっ! こんな私的な話を長々と……」

 ジャスパーは、これに即答するも、慌てた様子で自身の非礼を詫びた。頬を赤らめ、項垂れる。

「いえ、とんでもありません。話してくださって、ありがとうございます」

 もちろん、ディアナはまったく気にしていない。というより、むしろ嬉しかった。

 夫の仕事について、激務であるということは理解していた。事あるごとに、責任と重圧がのしかかる立場にいるのだろうと。

 心配していないと言えば嘘になるが、有能な夫のことだから、難なくこなせているのだろうとも思っていた。

 どれもこれも、想像の範疇でだが。

 しかし、ディアナは確信した。夫は職務を全うできている。目の前の青年が、夫をしっかりと支えてくれているから。

 もしかすると、この青年と自分を会わせるために、ジークはこのような機会を設けたのかもしれない。そうでなければ、わざわざ自分にお使いを頼んだりするだろうか。

 ふと、そんなことも頭をよぎった。

 もちろん、これも想像の範疇でしかないが。

「主人のこと、これからもどうぞよろしくお願いいたします」

 謝意と敬意を込めて、ディアナは深々と頭を下げた。これに対し、先ほどよりもあたふたしながら、ジャスパーはディアナよりも深く長くお辞儀した。

 室内が淡彩に染まる。

 頭を上げた二人は、互いに顔を見合わせて笑みを交わした。

「すまない。待たせたな」

 そこへ、所用を済ませたジークが戻ってきた。

「いえ、お疲れ様でした。お早かったのですね」

「ああ、ただの確認だったからな。……では、そろそろ帰宅するか」

 ジークの呼びかけに、ディアナは荷物をまとめ始めた。そして、ソファから腰を浮かせる前に、ティーカップをテーブルの隅へと寄せ、その場を簡単に整える。「そんなことなさらないでください!」とまたまた慌てふためくジャスパーを、「ディアナには言っても無駄だ」とジークが窘めた。

 和やかな雰囲気の中。

 この日も、彼らの一日は無事に終了した。


「お二人とも、どうぞお気をつけて」

 執務室の外まで、ジャスパーが夫婦を見送る。さりげなく妻の分まで荷物を持つジークに、胸が綻んだ。

「ご苦労だったな、ジャスパー。お前も今日は早く上がっていいぞ」

「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」

 ここで改めてジャスパーに謝辞を。そう思い、口を開きかけたディアナだったが、

「——」

 あることを思いついたため、そのまま口を噤んでしまった。夫の手に握られている自身のバッグに視線を送る。

 なんとなく妻の思考を察知した夫は、そっとバッグを手渡した。

「あの、これを……」

 ディアナが中から取り出したもの。それは、先ほど日の目を見なかったドライフラワーとハーブの硝子瓶。

「わたしが栽培したハーブや薔薇の花を乾燥させたものです。よろしかったら、お茶にでもなさってください」

「え……自分に、ですか?」

「お礼と言ってはなんですけれど。……ジャスパーさんが淹れてくださった紅茶、とても美味しかったです」

 ふわりと微笑むと、ディアナは小瓶をジャスパーの胸元に差し出した。

 今自分が持ち合わせているものはこれくらいしかない。それでも、ジャスパーへの感謝の気持ちを、自分なりにちゃんと形にしたかった。

 忠実マメで器用な彼だから、きっと上手くアレンジして使ってくれるだろうとの願いを込めて。

 恐れ多いと感じながらも、ジャスパーはしかと両の手で受け取った。ディアナの優しさが胸にじんわりと滲む。

 過去に犯した自身の罪を消し去ることはできない。与えた傷も、受けた傷も。

 けれども、過ちは正すことができるのだと。自分の存在を認めてくれる人たちがいるのだと。

 自分がこれまで歩んできた軌跡は、かけがえのない宝物なのだと。

「……ありがたく、頂戴いたします」

 目の前の二人が、教えてくれた。




「ゆっくりできたか?」

「はい、おかげさまで。ジャスパーさんとお話もできましたし」

「どんな話をしたんだ?」

「……内緒、です」

「はははっ。そうか」

「すみません」

「いや、構わん」

「ただ……」

「?」

「ただ、貴方と結婚することができて本当に幸せだと……改めて、強く思いました」

「……そうか」


 守るべき者のため、愛する者のため、そして自分自身のために、また明日からも生きてゆこう。

 この日彼らは、そう心に誓った。

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