クリスタルにベーゼと祈りを(1)
なぜ、この世界には、二つの種族が存在するのか。
ヒトと竜人。
互いに高い知能を有し、共存共栄しながら、高度な文明をいくつも築き上げてきたのか。
国を造り、文化を継承し、ともに未来を語り合ったのか。
命を、繋いだのか——
◆ ◆ ◆
——サーッ。
——カチャン。
——ぱらり。
生活音が共鳴し合い、静かな空間を彩る。
水を流す音。食器同士がぶつかる音。紙をめくる音。
取り立ててどうということはないこれらの音だが、不思議と温もりを感じる。なんだかとても心地が好い。
非日常の中での貴重な日常。ジークは、それを噛み締めていた。
せっせと洗い物に勤しむ妻を横目に、夕刊を閲読する。彼女と同じ時を過ごせているというその事実だけで、まるで紙に垂らしたインクのように、胸にじわりと温かさが滲んだ。
先日。およそ一日半ぶりに帰宅したあの日。
一連の事件のことを知っているであろう妻のもとに、いったいどんな顔をして帰ればいいのかと、夫は悶々と悩んでいた。あの事件の結末に心を痛めているだろう妻に、どう接すればいいのかと。
緊急会議終了後、イーサンからは「さっきみたいなシケた面で嫁さんのトコに帰んじゃねぇぞコラ」と釘を刺されたが、はたして何事もなかったかのように振る舞うのは適切なのだろうかと首を捻ったりもした。
だが、夫のそれは、単なる杞憂に過ぎなかった。
——お帰りなさいませ。
玄関を開けると、いつものように妻は出迎えてくれた。いつものように微笑み、いつものように夕食を準備して。
正直、妻のこの態度に面喰らってしまったが、同時に彼女の強さや優しさをひしひしと感じた。
彼女は、何も事件をなかったことにしたわけではない。すべてを理解し、傷つき、それでも受け容れたうえで、いつものように振る舞ってくれていたのだ。……自分のために。
本当に、彼女には頭が下がるばかりだ。
「お待たせいたしました」
目線を紙面に落としたまま少々耽っていると、ディアナがハーブティーを持ってやってきた。ふと、気になる記事がちらりと目に留まったが、「ありがとう」と一言返し、手元のそれを畳んで片す。
可愛らしくも気品溢れる白磁のティーカップセット。カップとソーサーには、美しく青一色で蔦が描かれている。
ほんのりと甘い香りが、湯気とともに夫の鼻翼にふわりと触れた。
と、その香りを吸い込んだ瞬間、はたと何かに気づき、首を傾げる。
「……初めて嗅ぐ匂いだな」
ほんのりと甘い香り。それに加え、胸の奥にまで流れ込んでくる柔らかな清々しさ。
ともに生活するようになって以来、妻の淹れるハーブティーを飲むのが夫の日課となった。おかげで、ハーブの種類と香りには少しばかり詳しくなったが、今日のこの芳香は初体験だ。
「あ、わかりますか?」
さすがです! と言わんばかりにディアナの顔が華やいだ。大きな蒼眼がさらに丸みを帯び、白い頬がうっすらと桃色に染まる。
些細なことではあるが、彼女にとっては、夫のこの反応がとても嬉しかった。
「実は、二種類ほど初めて使用してみたんです」
「そうだったのか。何というハーブなんだ?」
「『エキナセア』と『エルダーフラワー』です」
妻の口から出た聞き馴染みのない名称に、夫は興味を示した。どうやら持ち前の探求心が働いたらしい。
彼女曰く、その二つはどちらも抗菌・抗ウイルスの効能を持ち、
このブレンドティーには、彼女のある祈りが込められている。
「明日から三週間、ジーク様が元気にお勤めできるように」
そう口にしたとたん、明るかった彼女の表情がわずかに暗くなった。声も力ない。けっして気持ちが沈んでいるというわけではないが、心の色は確かに明るさを失っていた。
明日から、いよいよジークの遠征が始まる。よって、明日からの三週間、ディアナは夫のいない生活を強いられてしまうのだ。
「お身体、気をつけてくださいね」
愛する夫にエールを送る。こんなことくらいしか為す術のない自分にもどかしさを覚えながらも、ディアナは精一杯彼に笑顔を向けた。
言わないと決めている。『つらい』も『寂しい』も。言えば、きっと彼を困らせてしまうから。困ったように、笑うから。
だから、弱音を漏らさずに、自分はこの場所で彼の帰りを待つ。
彼を信じて。
そう、決めた。
「ありがとう、ディアナ。……お前も、あまり無理をしないようにな」
「大丈夫です。こう見えて、体力には自信がありますので。……でも、ありがとうございます。体調には、わたしも十分に気をつけますね」
混沌とした情勢の中に差し込んだ一筋の光明。濁りなきそれは、真っ直ぐに、包み込むように、未来を照らす。
この日も、いつもと同じように、夫婦の夜は静かに更けていった。
——ぱらり。
寝室のベッドに腰掛け、ジークはもう一度夕刊に目を通していた。ダイニングに比べ、匂いのバリエーションが少ないこの部屋では、インクの独特な刺激臭がやけに鼻につく。竜人である彼にはなおさらだ。
現在ディアナは入浴中。「一緒に入るか?」と尋ねると、それはそれは勢いよく彼女の頭から噴煙が上がってしまったため、一足先に自分だけ済ませることにした。
過去に何度か一緒に入ったことはあるのだが、そのたび彼女は
可愛らしい妻に免じて、とりあえず今日は諦めることにした。また遠征から戻ってきたら、改めて提案してみることにする。
たとえ今日と同じように拒否されたとしても構わない。恥ずかしがる妻の愛くるしい表情が見られるなら。
……などとよこしまな考えを巡らせながら、夕刊をぱらりとめくった。先ほど気になった記事を閲覧しようと、該当箇所まで一気にページを進める。到達する頃には、彼の顔はすっかり引き締まっていた。
妻のことを思い浮かべ、多彩だった心模様が一転。しだいに無彩色へと変わっていった。
記事の内容は、この日、国外で一人の少女が保護され、国内へ無事に帰されたというもの。少女の顔も名前もいっさい掲載されてはいなかったが、ジークには、彼女の生年月日、ひいては両親の名前までわかっていた。
そう。この少女は、イーサンが言っていた例の彼女だ。
彼女は、現地に派遣された軍の部隊により、
とはいえ、セオドアが指針を表明してからたったの二日。少女の保護から、犯人である実業家の身柄引き渡しの交渉まで、かなりスムーズに事は運んだ。
——全責任は私が取る。これ以上、犠牲者を増やすな。
彼のあの言葉により、この一件だけではなく、他の案件も急速に進展し始めた。警察はじめ各種機関も、軍に追随するように動きを活発化させた。これが動因となったのかは定かではないが、郊外でのテロ行為は激減の一途を辿っている。
セオドアの覚悟は、けっして生半可なものなどではない。それは、部下全員が一様に承知し、肝に銘じている事柄だ。
一連の事件にかかわっている主要な人物は、おそらく、その国や地域で高いステータスを有する者ばかり。仮に、証拠が不十分なまま不用意に接近すれば、足元を掬われかねない。
最悪の場合、軍のトップである彼の首が飛ぶ。それだけは、なんとしても避けねばならない。
失敗など、微塵も許されないのだ。
昨日、演習前の挨拶に彼のもとを訪ねたジークは、直接あの言葉の真意を彼の口から聞くことができた。
そのとき、改めて、セオドア・シュトラスという人物に対し、心の底から敬服した。
——元帥。あのお言葉は……。
——うん? ……ああ。私の責任云々の話か。どうした?
——……元帥の御覚悟は、皆肝に銘じています。ですが、それでは……。
——うーん……まあ、そうだな。もしものときは、妻に土下座するぐらいでは済まんだろうな。
——……。
——はははっ、冗談だ。そんな顔をするな。私の進退については、お前たちが案ずることではない。お前たちにはお前たちの為すべきことがあるように、私も私の為すべきことをしたまでだ。……それに私は、ゼクスの託した未来を……お前たちを、信じている。
——……元帥……。
——だから、歩みを止めるな。この国の命運は、お前たちにかかっている。
——……、はい……っ。
迷っている暇などない。一刻も早く、事態を収束させなければ。
闇に隠れているあの男を引き摺り出し、必ずや、然るべき報いを受けさせる——それが、この国を守る者として、今自身が為すべきことだ。
決意新たに、ジークは気を引き締め直した。
「温かい飲み物をお持ちいたしました」
そこへ、風呂上がりのディアナがやって来た。
白いコットンのパジャマワンピースに身を包んだその姿は、さながら天使のよう。実に幻想的で神秘的だ。
控えめにあしらわれたレースの袖や裾から覗く、ほんのり薄桃色に色付いた肌が、なんとも可憐である。
手元のトレーには、ポットと一人分のティーカップが用意されていた。ポットの中身は、リラックス効果のある彼女特製のブレンドティーらしい。
彼女がベッド脇の丸テーブルへトレーごと乗せると、夫はその隣に折り畳んだ夕刊を並べた。
「すまんな」
手際よく注がれたお茶を妻から受け取り、一口啜る。この味からしばらく離れることになると思うと、とたんに名残惜しさに襲われた。けれど、それを表面には出さない。絶対に。
妻が我慢していることは、夫とて、重々承知している。
「……美味しかった。ありがとう、ディアナ」
一杯を飲み終え、そう微笑んでやると、彼女もまた嬉しそうに微笑み返してくれた。どことなく安心したような顔つきで。
しかし、それはすぐさま翳りを帯びた。
「あ、あのっ……」
突然、何かを訴えるように、ディアナは夫に呼びかけた。これほどまでに必死な様子の彼女は珍しい。
「ん?」
「あ、あの……お側に行っても……よろしい、ですか……?」
彼女の口から遠慮がちに絞り出されたのは、これまた珍しく『要望』だった。
両手でワンピースの裾をきゅっと握り、俯く。頬はさっきよりもさらに赤みを増し、目元は心なしか潤んでいるようにも見えた。
少しでも寂しさを埋めるための甘え。
彼女なりの、精一杯の甘えだ。
もちろん、溺愛する妻からの貴重なお願いとあらば、夫が断れるはずもない。ベッド縁に腰掛けたまま「おいで」と両腕を伸ばすと、妻は夫のその腕を目掛け、おずおずと近づいてきた。
ジークの真正面で立ち止まったディアナ。その表情からは、緊張の色が見てとれた。
「?」
が、それもつかの間。
突如、夫の手が腰にあてがわれ、妻はその体をぐりんと反転させられてしまった。夫の意図がまったくわからない妻の頭上に、ぽんっと疑問符が飛び出す。
そして、
「……きゃっ!」
驚いた妻が、短く声を上げた。
今しがた左右の視界が急に移り変わったと思いきや、今度は上下に目まぐるしく変化したのだ。何が何だかわからないといったように、目を白黒させる。
気づけば、妻の華奢な体は、夫の膝の間にすっぽりと納まっていた。
「び……」
「び?」
「びっくりしました……」
「あははっ!」
同じ方向を向いているため、妻の顔を窺い知ることはできないが、小動物さながらの愛らしいリアクションに、思わずジークは噴き出してしまった。
これには面白くないとばかりにディアナも抵抗する。
「笑い事じゃありません」
「すまんすまん」
「絶対悪いと思っていませんよねジーク様」
「思っている。思っているから、とりあえずこれを直してくれ」
だが、渾身の抵抗虚しく、ぷくりと膨らませた頬をジークに
「機嫌は?」
「直りません」
けれど、他愛のないこんなやり取りでさえも、彼女自身、最高に幸せだと思える。
何物にも代えがたい大切な大切なひと時だと、純粋に、そう思えるのだ。
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