閑話(1)

 ディアナの朝は、自身が育てている植物たちの世話から始まる。

 それほど大規模なものではないが、花やハーブの種類ごとに区画を整備し、見頃になる時期や彩りにまで丁寧な配慮を施してある。

 咲いた花は室内に飾り、摘んだハーブは料理やティータイムに使用した。

 もちろん、これらすべて、嫁いでから彼女が一からせっせと作ったものだ。

「おはよう、ディアナ」

 如雨露じょうろで水を与えている最中、ジークが彼女のもとまでやってきた。

 傾けていた手をすぐさま直し、夫に挨拶する。

「おはようございます、ジーク様。すぐ朝食にいたしますね」

「いや。出勤まで、まだ時間は十分にあるからな。急がなくていい」

 そう答えた彼は、いまだ部屋着のままだった。確かに落ち着いている。

 聞くところによると、今日は普段より二時間ほどゆとりがあるらしい。

「見事な花だな。……芙蓉ふよう、だったか?」

「そうです」

 声をかける直前、ディアナが水をあげていた植物に、ジークが視線を移した。夫のこの問いに、妻が頷く。

 鮮麗な緑の大きい葉に、純白の大きな花弁。この花弁は、夕方に向け、濃いピンクへと色を変えていく。

 一日だけ大輪を咲かせ、その日のうちに枯れてしまう、一日花いちにちばなだ。

「元気に、育ってくれました」

 慈しむように、細く白い指先で、そっと花びらに触れる。

 幼い頃から、花が大好きだった。熱くても寒くても、誇らしげに凛と咲いている花を見ると、勇気をもらえた。どんなに過酷な環境でも、しおれることなく、頑張ろうと。

 かねてより切望していたガーデニング。

 実家では、到底許され得るものではなかった。旧家の令嬢が土をいじるなどもってのほかだと、両親をはじめ、周りから釘を刺されていた。

 知識を得るために、図鑑やその手の本を読むのが精一杯。けれど、読めば読むほど、直に触れてみたいという思いは募っていった。

 みっともない、はしたない——耳にたこができるくらい浴びせられた言葉。

「お前の愛情に、花たちも応えてくれているんだな。私も、お前がこれからどんな花を育てていくのか、楽しみだ」

 けれど、ジークは違った。

 否定的な意見など一切口にしなかった。むしろ、好きなだけ育てればいいとまで言ってくれた。

 頬に付いた泥をも、その手で拭ってくれた。

「ジーク様」

 まるで清らかな泉のように、次から次へとわき上がってくる感情。

 両手で如雨露を抱え、体ごと彼のほうへと向き直る。

 とどまることのないこの感情を、彼に伝える効果的な言葉が見つからない。

「ありがとうございます」

 必死で探したけれど、今の彼女にはこの言葉が精一杯だった。何度言ったって足りないことくらいわかっている。でも、言わずにはいられなかった。言葉とともに、夫に笑顔を投げかける。

 と、次の瞬間。

「感謝をしなければならないのは私のほうだ」

 ディアナの耳に入ってきたのは、優しい彼の声。それと同時に、自身の唇に柔らかな温もりを感じた。

「っ——」

 思わず如雨露を落としてしまう。空っぽのそれは、芝生の上で一度だけ跳ねると、ころんと転がり、彼女の足に当たった。

 必然的に呼吸が止まり、流れる沈黙。聞こえるのは、小鳥のさえずる声だけだ。

「さて、と……私はそろそろ支度に取りかかるとしよう」

 しばらくした後。名残惜しそうに妻の唇から自身のそれを離すと、落ちた如雨露を拾い上げながら夫が言った。どことなく満足そうな笑みを浮かべ、家のほうへと爪先を向ける。

「……えっ? あっ! わ、わたしも、朝食の準備をっ……!」

 あまりにも自然体な夫の姿を見て我に返った妻。慌てて彼のその大きな背中に続く。

 神の前で誓いを済ませているゆえ、初めてのことではないが、とっさのことに少しだけ面食らってしまったようだ。


 夫婦の他愛ない朝の一幕。

 幼妻の後ろで、爽やかな夏色の風に撫でられた芙蓉の頭が、たおやかに揺れた。

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