トリフェーンと休日を

 一歩踏み出すたびに、大きく波打つワンピースの裾。澄んだブルーのそれからは、細く白い足が覗いている。

 燦々と輝く太陽の下、ワンピースと同じ色の夏空を背景に、ディアナとジークは並んで歩いていた。

「つらくないか?」

「大丈夫です。お心遣い、ありがとうございます」

 気温三十度。じりじりと照りつける太陽から守るように、夫はその身長差で妻に陰を作ってやった。仰々しい軍服ではなく、夏の私服を装った彼は実に爽やかで、その容姿はモデルか俳優と見紛うほど。

 この日、久々に休暇の取れたジークは、ディアナを連れて城下町へと来ていた。

 たくさんの店が隙間なく連なり、売り手と買い手の声があちこちで飛び交う。昔ながらの市場の横には、近代的な施設も多く立ち並び、視覚的にも聴覚的にも非常に賑やかで華やかな場所だ。

 普段、ディアナには、なるべく外出を控えるように言い聞かせている。先の事件があってからは特に。しかし、いくらなんでもずっと家で囲われているばかりでは、彼女も息が詰まるというもの。せめて自分が一緒にいられる時くらいは、外の空気を存分に吸わせてやりたいと思っていた。……とまあ、外出の名目を挙げれば堅苦しくがないが、端的に言えば、妻とのデートを純粋に楽しみたかっただけである。

 向かう先は、全世界で展開しているパーティードレスの専門店。創業二百年を超え、この国に本店を構えている、いわば老舗だ。デザインとその着心地の良さから、世代を問わず高い人気を博している。

 今から約一月後、この国は建国記念日を迎える。

 当日夜には帝室主催のパーティーが予定されており、そこに夫婦で出席することが決まっているのだ。

 ディアナにとって、侯爵夫人として初めての大きなイベント。当日着用するドレスを作るため、本日ここに足を運ぶこととなったのだが……。

「あ、あの。ジーク様……」

 白い壁に、大きな飾り窓。ショーウインドーに飾られているのは、レースがふんだんにあしらわれた純白のウエディングドレス。その横が入り口になっていて、ダークオークの両開きの扉が備えられている。

 目的地に到着するやいなや、ディアナは、その入り口の前で立ち止まってしまった。

「どうした?」

 そんな彼女を見て、不思議に思ったジークが首を傾げる。

 彼の手は、すでに扉の取っ手を掴んでいた。

「ここまで来ておいて口にするのも、大変心苦しいのですけど……」

 何か伝えたいことがあるのだろうが、彼女は口を噤んでしまった。この様子から、妻が何を考えているのか、おおよその見当はつく。

 ジークは、扉に手をかけたまま、次に継がれる二の句を待った。急かすことも遮ることもせず、柔らかな眼差しを向けて。

「わざわざ新しいものを買っていただかなくても、結婚するときに父が持たせてくれたドレスもありますし、その……」

 彼の予想通り、彼女の口から出てきたのは、またしても遠慮の言葉だった。

 一般的に嫁入りの際には、たしなみとしてドレスを数着持っていくという慣習がある。もちろんディアナも例外ではない。

 どうやら、無駄な出費になると余計な懸念をしてしまっているようだ。

 本当にこのは……。

 思わずこぼれた笑み。扉から手を放し、足下に視線を落とした妻の頭上にぽんっと乗せる。そして、優しくこう言った。

「ディアナ。これは私のわがままだ」

「わが、まま……?」

「ああ。私がお前に贈りたいんだ。……聞き入れてはもらえないか?」

 いったい、これのどこが『わがまま』なのか。ジークの言っていることが理解できなかった。だが、彼にこんなふうに懇願されてしまえば、首を縦に振るほかない。

 遠慮がちに頷いた妻に、満足した様子の夫。改めて扉に手をかけ、ゆっくりと開けると、先にディアナを入店させた。

「いらっしゃいませ。お待ちいたしておりました。いつもご贔屓くださり、誠にありがとうございます」

 店に入ると、社長自ら夫婦を出迎えてくれた。

 すっきりと一つにまとめ上げた金髪に、気品溢れる黒のスーツ。鮮やかな深紅の虹彩と、真っ赤に塗られたルージュが印象的な淑女だ。

 一族経営のこの会社は、竜人の女性が歴代トップを務めており、現社長は、マネージメントだけでなく、ドレスのデザインや制作にも関わっている。

 実はこの店、ディアナのウェディングドレスをオーダーした店でもあるのだ。

 広々としたゲストルームに夫婦を案内すると、そこに設置されている応接セットに腰掛けるよう二人に促した。

「本日はディアナ様のドレスをお求めに……ということですが、色やデザインなどはもうお決まりでしょうか?」

「いや。貴方のアドバイスを参考にして、最終的には本人が選んだものを購入したいと考えている」

 隣でおろおろしているディアナのほうに視線を移して答える。不安そうな彼女を少しでも落ち着かせようと、再度頭をぽんぽんと撫でてやった。

「かしこまりました。では、試着用の品を数点用意して参りますので、少々お待ちくださいませ」

 そう言うと、社長は一礼してこの部屋から出て行った。若い夫婦の微笑ましい光景に、深紅の目を細める。

 壁や天井、置かれている家具など、すべて白を基調としたこの部屋。大きな窓から差し込む陽光が部屋中に反射し、眩いほどだ。

 明るいこの場所とは対照的に、ディアナの表情はいまだ暗いままだった。

 ジークは指を伸ばし、絹糸のように滑らかなその髪をゆっくりと梳く。最近は慣れてきたのか、触れても特に身構えることはなくなった。が、要所要所での控えめな態度は相変わらずだ。

 しおらしいと思う。とても健気だとも。彼女のこの姿に、嫌悪感などはいっさいない。けれども、ほんの少しだけ寂しさを覚えた。

「迷惑だったか?」

 こんなことを聞くつもりなど毛頭なかったのに、思わず本音が漏れてしまった。すぐさま悔悟の念に駆られる。

「め、迷惑だなんてそんなっ! わたしはただ……」

 しかし、これに対し、ディアナは慌てて弁明した。珍しく声も大きい。

 あまりの勢いに、ジークは一瞬だけ目をしばたかせた。彼女が必死に何かを訴えようとするなんて、希少なことこの上なかったからだ。

「……前々から言おうと思っていたんだが、お前は私に遠慮しすぎだ」

 髪を梳く手を止めることなく、柔和な表情と口調でこう告げる。とっさのこととはいえ、感情を露わにしてくれたことが、彼にはとても嬉しかった。

「私に対する遠慮は不要だ。思っていることはなんでも言ってほしいし、もっと甘えてほしい。夫婦は対等であるべきだろう?」

 そして、かねてより心の中に抱いていた思いを、このタイミングで初めて吐露した。

 夫の最後の言葉が、かなり意想外だったのだろう。目を見開いたまま、しばらくの間、ディアナは固まってしまった。

 固結した彼女の身体と心をほどくように、続けて囁く。

「お前は、私の妻だ」

 彼の言葉が心の奥底まで響き、胸のあたりがほんのりと熱を帯びていくのを感じる。

 夫婦の立場が対等であるなど、今まで誰も教えてくれはしなかった。妻は、夫の後ろをついて歩く。意見をするなどもってのほかだと……そう思っていたのに。

 『目から鱗が落ちる』という諺語げんごの意味を、幼妻は身をもって知った。

「……はい」

 ゆっくりと頷いた妻に、夫も納得できたようだ。

「では、試着する前にこれを」

「……え?」

 会話が一段落したところで、ジークがあるものを差し出した。

 手のひらサイズの小さな箱。軽量だが、どことなく高級感が漂っている。彼は、それをディアナの手にそっと収めると、蓋を開けるようにすすめた。

「パールの、ピアス……?」

 箱の中には、白真珠のピアスが一つ。大きさは、今ディアナの左耳を飾っているものと、ほぼ同じだった。デザインもよく似ている。

「新たにペアで、とも考えてはみたんだが……片方だけとはいえ、お前が肌身離さずつけているものを外せなど、あまりに忍びないからな。だから、それに合わせて作ってもらった」

 結婚する前からずっと身につけていたピアス。「片方だけなどみっともない」と継母に嫌味を言われても、彼女は決して外したりしなかった。

 唯一外したのは、挙式の時だけ。それも、夫の立場を考慮してのことだった。

「よほど大切なのだな。そのピアスが」

 恥ずかしそうに、ディアナは一度だけ首肯した。その顔を最上級に綻ばせながら、夫に頭を下げる。

 高価な物を与えてくれたことよりも、自分の気持ちを汲んでくれた彼のその思いやりが、何よりも心に沁みた。

「気に入ってもらえたか?」

「はい、とても」

「……そうか」

 今まで見た中で一番綺麗な妻の笑顔に、つられてジークも微笑んだ。……しかし、その面持ちとは裏腹に、彼の心中は鈍く曇っていた。喜びと同時にこみ上げてきたのは、罪悪感。

 愛する妻を大切に思うがゆえの苦肉の策——そう自分に言い聞かせ、ジークは心の中で瞳を閉じ、耳を塞いだ。

 間もなく、社長が部下の女性を連れて部屋へと戻ってきた。二人の腕の中には三着ずつ、計六着のドレスが。六着とも、色はすべて異なっている。

「お目にかかれて光栄ですっ!!」

 突然、紺色の瞳をキラキラさせながら、部下の女性が夫婦のもとへと駆け寄ってきた。そして、有名人に握手を求めるファンよろしく、間髪容れずに両手を差し出したのである。

 これに対し、ジークは慣れた様子で応えていたが、ディアナは、目を見開いたまま、再び硬直してしまった。

 彼女はヒトで、歳はジークと同じとのこと。動くたび、左右に揺れる黒髪のポニーテール。上半身は白のカッターシャツ、下半身は細身の黒いパンツを着用している。腰には若干年季の入った黒いエプロンが巻かれており、そのポケットには、ハサミやヘアピンといった道具が一切合切詰め込まれていた。

 どうやら、この店専属のスタイリストらしい。

 夫にサポートされ、ぎこちなくも、なんとか握手を交わしたディアナ。けれど、ほっとしたのもつかの間。今度は彼女に背中を押され、部屋の隅に設けられている試着室へと連行されてしまったのだ。

 手際よくお団子に結い上げられた髪の毛。先ほどジークからもらったピアスも、右耳に装着した。

 夫と社長が見守る中、こうしてディアナの着せ替えショーが開幕した。

 ワインレッド、コバルトブルー、アンティークゴールドにロイヤルパープル、そしてアイボリーブラックとパールホワイト。

 スカートの丈は、どれも膝が見え隠れする程度の長さだったが、フレアだったり、マーメイドカットだったりと、バラエティーに富んでいた。上部も、ノースリーブにパフスリーブ、大人の魅力たっぷりのロングスリーブなど、実に様々だ。

 それらすべてに共通していたのは、繊細に編まれたレースと、眩いばかりに散りばめられたスパンコール。それから、生地の光沢だ。さすがは、シルク百パーセントといったところか。

 最後にディアナが試着したのは、ノースリーブのパールホワイトドレス。くるりと回ると、フレアスカートがふわりと舞った。

「どれが気に入ったんだ?」

 一通り試着を終えた妻のもとに歩み寄る。いつも十分愛らしいが、ドレスアップしたこの姿は、また一段と愛くるしい。

「え、と……どれもとても素敵で……」

 夫の質問に、妻は至極悩ましげに答えた。社長が見繕ってくれたドレスたちは、ディアナのツボを的確に突いているらしく、簡単には決められないようだ。

 そんな妻に対し、夫は、

「全部欲しいのか?」

 さらりと、こんなことを宣った。

 ブンブンと音が聞こえそうなほど全力で首を横に振る妻に、「冗談だ」と笑う。……わかっている。それほどまでに驕奢な思考を、彼女が備えていないということくらい。

「……あ、あのっ」

「うん?」

 と、このタイミングで、彼女のほうから声をかけてきた。彼女から呼びかけられたのは、本日二度目。

 青く煌めく円い双瞳には、不思議そうな面持ちの自分が映っている。

「あの……ジーク様は……?」

「私?」

 躊躇いがちとはいえ、いつになく積極的に訊ねたのは、夫の意見。決断に時間を要し、迷惑をかけてしまうことを憂えたすえの問いかけだった。だが、自分のドレス姿が夫の瞳にどう映っているのか、少々気になったというのが本音だ。

 目線を下に落とし、腕組みをしたまま、ジークはじっと考え込んでしまった。その眼差しは真剣そのものだ。

 自分で口にしたにもかかわらず、ディアナの胸中は恥ずかしさに占領されていた。かといって、さほど器用でもないので、間を詰めることもできず、話題を転換することもできず。

 やっぱり聞くんじゃなかった——そう彼女が後悔した直後のこと。

「今着ているその白いドレスが、一番似合っていると思う」

 ジークがおもむろに口を開いた。顔には、いつもの優しい笑みが浮かんでいる。

 驚き、キョトンとしているディアナに向かい、彼は言葉を続けた。

「しいて言うなら、な。どれも似合っているが、お前のブロンドヘアーとブルーアイは、そのドレスによく映える」

 まさか、こんなふうに言ってもらえるなんて思ってもみなかった。

 とても恥ずかしい。恥ずかしいのだが、不思議と心が凪いでいくのを感じた。

「……ありがとうございます」

 夫と顔を見合わせ、笑みを交わす。こんなにも自分の気持ちを素直に表現できたのは、結婚して以来、否、生まれて以来、初めてのことかもしれない。

 そのことが、ディアナにとっては、なんだか無性に嬉しかった。

 白のドレスを購入し、帰宅準備に取りかかる。せっかく綺麗に結ってもらったからと、髪型はそのままに。両の耳たぶを飾っているパールのピアスが、さらに彼女の魅力を引き立てた。

 お世話になった二人に謝辞を述べ、帰路につく。心なしか、来るときよりも、ディアナの足取りは軽やかだった。口数も、普段に比べれば明らかに多い。他人から見れば、それほどでもないのだろうが。

 当然のように、荷物はジークが持ってくれている。たいして重たくはないので、自分で持つと言った彼女の申し出をあっさりと却下し、その代わりに、空いているほうの手を「ほら」と差し出した彼。

 自身の手よりもはるかに大きな彼のそれを、ディアナは躊躇しながらも、キュッと握りしめた。触れた先から伝わる温もりで、心まで満たされていくのがわかる。

 この日、二人の距離は、一気に縮まった。

「だいぶ日も落ちてきたな。少し遠回りして帰るか?」

「え?」

「もう少しだけ、お前とゆっくりしたい」

 次に休暇が取れるのは、いつになるかわからない。ゆえの夫の提案だった。

 彼の真意が理解できたディアナは、目を細めて静かに頷いた。

 頭上広がる夕空。橙が次第に紫紺に呑み込まれていく。遠くの山間では、紫雲がたなびいていた。

 淡く柔らかな街灯の光が、街全体を包む。そんな中、手を繋いだ二人は、家路を歩いた。

 元来た道とは違う道を経由し、大通りへと向かう。この大通りを進めば、屋敷のある住宅街に辿りつくことができるが、通常よりも少々時間を要してしまうのだ。

「?」

 路地を抜け、ここまで出てきたところで、とたんにディアナの足が重たくなった。

 彼女に歩幅を合わせていたため、かなり速度を落としていたジークだが、それでも体一つ分前に出てしまった。疑問に感じ、妻を見やる。

 すると、その視線の先が、道脇の小さな石碑と結びついていることに気がついた。

 ——どうか安らかに。

 こう彫刻されたその下には、生花が供えられている。

 ジークが立ち止まると、つられてディアナも立ち止まった。彼女の視線は、いまだ固定されたままだ。

 自身も、その石碑に目を向ける。風雨に晒されているため、当然のことながら、薄黒く汚れて傷んでいた。

「……そういえば」

 そのとき、ジークはこの場所で起こった、とある凄惨な出来事を思い出した。

「昔、ここで大きな事故があったらしい。その場にいた歩行者数人が巻き込まれ、三人が亡くなったと聞いている」

 自分がまだ士官学校に在籍していたときのことだと、彼は言った。詳しいことはわからないけれど、と。

 人々が行き交う中。ディアナは、その足を止めたまま、しばらく石碑を見つめていた。

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