アメジストから零れる雫(2)

 病室に足を踏み入れたその瞬間。

「……ディアナ?」

 父と、目が合った。

「……お父、様……」

 無機質な白い空間の片隅で、上半身をベッドごと緩やかに起こし、首をこちらへともたげている。

 真っ直ぐ向けられたその眼差しから、ディアナは思わず自身のそれを逸らしそうになった。自身と同じ蒼い双瞳が、ゆらりと揺れる。

 幼い頃から畏怖の対象だった父。荒げた声も、ぶたれた痛みも、いまだ克明に覚えている。忘れることなどできはしない。

 しかし、ベッドに横たわる今の姿は、なんだか弱々しく感じられた。娘の名を呼ぶその声も、どことなくか細い。

 傷を負っている現状を考慮すれば当然のこと、かもしれない。けれど、にわかには受け容れ難かった。抑え付けられていた過去を振り返ると、なおさら。

 薬品の刺激臭が、やけに鼻に沁みる。

「……夜分にお騒がせしてしまい、申し訳ありませんでした」

 娘の横に立っている義理の息子に視線を移すと、ハロルドは深謝した。これに対し、ジークは口角を弛め、首を二、三度横に振って応えた。

「傷の、お加減は?」

「痛みは薬のおかげでなんとか……。ですが、歩けないというのは、どうにも厄介ですね」

 情けないとばかりに、自身の右足を布団越しに見遣る。「命があるだけマシですが」と、乾いた笑みを漏らしながら。

 義父の言葉に同意するように、ジークは小さく頷いた。病床に伏せる姿は痛々しいけれど、こうして話ができることにひとまず安心する。

 とはいえ、どちらを向いても予断を許さない状況であることに変わりはない。早々に解決しなければならない問題は山積している。

 第一は、ハロルドを襲った犯人とその目的。

 息子として、公人として、ハロルドに訊きたいことはたくさんある。けれども、今のジークにそのつもりはない。

 今はその時ではない。そう、思っていたのだが。

「……私を撃ったのは、ヴェリル男爵です」

「!?」

 ハロルドは、自らの意思で口にした。それも事件の真相——その核心を。

 義父の口から告げられた事実に、ジークの目には驚愕の色が浮かび上がった。同時に、脳内に散らばっていたパズルのピースが、徐々に嵌まっていくのを感じた。

 会場をあとにし、秘書のもとへと向かう途中で被弾したのだというハロルド。一瞬の出来事だったゆえ、何が起こったのか瞬時に理解することはできなかったが、地面に崩れる直前、彼はその目でしかと捉えていた。

 自身から数十メートル先。暗闇へと逃げ込む、ルイン・ヴェリルその人を。

「それを捜査官には?」

「話しました。……が、案の定、頭を抱えていました」

 ハロルドがヴェリル男爵の名を出したとたん、捜査官の顔色は急変した。

 理由は明白。彼が貴族で、あのリヴド伯爵の義弟だからだ。

「彼らも、できることなら彼を捕まえたいのでしょうが……難しそうですね」

 とくに怒りを顕わにする様子もなく、ハロルドは溜息交じりにこう言った。けっして失望しているわけではない。最初から、期待などしていない。

 呆れと諦め——彼の表情には、それらが滲んでいた。

「……義父ちちうえ。男爵との間に何があったのか、話してはいただけませんか?」

 躊躇いがちに言葉を絞り出す。

 この言葉は、息子としてのものなのか、公人としてのものなのか……ジークにもわからなかった。だが、義父が口にしてくれたこのタイミングを逃すわけにはいかないと、訊くのは今この時だと、そう思った。

 父の身に何があったのか知りたい——娘であるディアナも、それを切に願っているはずだ。

 ジークに促されたハロルドは、何かを想起するように、何かを覚悟するように、俯き瞼を閉じた。

 そうしてしばらくした後、ゆっくりと開眼すると、静かに語り始めた。

「彼はもともと、我が社の得意先でした。彼自身、何隻か購入してくれたこともありますし、客を紹介してくれたことも度々ありました」

 それは、ヴェリル男爵との関係。

 商品モノ商品モノゆえ、グランテ社の取引先は、どうしても企業に集中してしまいがちだが、個人の取引相手が少ないわけではない。

 相応の財力があれば、たとえ豪華な客船でも、嗜好品となる。

「以前からよく話はしていましたが、彼の良くない噂は存じていました。とはいえ、私にとって彼は大事な顧客ですので、無下にはできませんでした」

 男爵の因業いんごうな振る舞いは、ハロルドも知っていた。彼が爵位を得るに至った経緯も、どれほどの血と汗と涙が蹂躙されてきたのかも。

 だがしかし、それでも、彼との縁を切ることは立場上できなかった。だから、話をする際は、ビジネストークだけに留めていた。

「数ヶ月前から頻繁に連絡が入るようになり、会って話をする機会が増えました。そして——」

 そんな中、ついにを持ちかけられてしまったのだ。

「投資話……ですか?」

「ええ。やはりご存知でしたか」

「なんと返事を?」

「もちろん断りました」

 信用できない相手からの信用できない話。これには、会社を統べる者として、首を縦に振るわけにはいかなかった。

 けれど、ハロルドが断っても断っても、男爵があとに引く素振りは微塵も見せなかったらしい。

 その執拗さは、何かに憑りつかれたように異様だったと、ハロルドは声を落とした。

「何に対してかはわかりませんが、彼はかなり焦っているようでした。この数か月の間で人相まで変わってしまうほどに……」

 男爵が精神的に病み、堕ちてゆく様を、ハロルドは間近で見てきた。

 以前のように彼と付き合うことは不可能。そう判断し、つい先日、ホテルのラウンジで自身の意向をはっきりと伝えた。これ以上、話を聞くつもりはないと。

 以来、男爵とは会っていない。

 公の場にも、彼はめっきり姿を見せなくなった。いつもなら、この日ハロルドが出席していた会合にも顔を出しているのだが、会場で彼の姿を見ることはついになかった。

 ハロルドが最後に彼の姿を見たのは、会場から出た直後。

 痛みで朦朧とする意識の中だった。

「……彼を追い詰めたのは、おそらく私なのでしょう」

「! 義父上のせいでは……っ」

「ええ。こうなった今でも、自分が間違った判断をしたとは思っておりません。ですが、人は何がきっかけで凶行に及ぶか、想像のつかない生き物です。……一歩を間違うことなんて、至極簡単だ」

 ヒトも竜人も、皆一様に際どい道の上に立たされている。踏み外すことなど、存外容易い。

 目線を落とし、儚げに言葉を零す。まるで、自分自身を嘲笑うかのように。

「……ディアナ」

 一呼吸置いたハロルドは、再度ディアナのほうへと目を向けた。

「っ……、はい……」

「お前に、話したいことがある」

「え……?」

 身構え、一瞬返事を喉に詰まらせてしまったディアナだったが、予期せぬ父からの申し出に、ほんの少しだけ目を丸くした。

 蒼玉と蒼玉がぶつかる。これらの蒼玉は、二人が父娘おやこであるという証。

 ハロルドは今、『父親』として、ディアナに接しようとしている。これから述べられる言葉も、おそらく『父親』としてのものなのだろう。

「……じゃあ、私は外で待っているから」

 この場に自分がいるのはそぐわないと思料したジークは、妻にそう言い残し、部屋を出ようとした。

「いえ。……是非、将軍にも聞いていただきたい」

 しかし、それは義父によって制されてしまった。思わず息を呑む。

 息子を引き止めた義父の貌は、強い決意と覚悟に満ちていた。

「セレネが亡くなった時のことを、将軍には?」

「……話し、ました」

「そうか。……今からお前に話すのは、私の本心だ」

「……?」

「十三年間、隠し続けて……いや、逃げ続けてきた私の……」

「……お父、様……?」

 いまだかつて聞いたことがない、見たことがない父の言動に、ディアナはひどく困惑した。明らかに様子が違う。

 父のこの言葉を鵜呑みにするなら、今まで自分が見てきた父は、本当の父の姿ではなかったということなのだろうか。

 荒げた声。ぶたれた痛み。そこには、偽りが併存するということ……なのだろうか。

 突如娘に浴びせられた疑問。その疑問を紐解くように、父はゆっくりと口を開いた。

「あの事故を起こした犯人が無罪になったと知ったとき、私は愕然とした。毎日を懸命に生きていた彼女の……彼女たちの命は、そんなに軽いものだったのかと」

 十三年前、突然妻を喪った。

 彼のもとへ悲報が入ってきたのは勤務時間中。まさに青天の霹靂だった。

 せめて犯人に相応の償いを——そんな正当な望みでさえも、理不尽に奪われた。

 警察や司法にも掛け合った。けれど、言葉を濁されるばかりで、どの機関もまともに取り合ってなどくれなかった。

「そのとき私は、種族の差を……自身の無力さを……痛感した」

 種族や身分の壁を前にすれば、大切なものへの想いさえ通らない。悲痛な叫びさえ、無残に掻き消されてしまう。

 ——絶望した。

 気力を失い、心を懈怠けたいに支配され、何も手につかなくなった。

 だが、それでも生きてこられたのは、こんな自分をあるじと慕ってくれる者がいてくれたから。社員たちがいてくれたから。


 娘が、いてくれたから。


「お前には……お前にだけは、二度とあの時のような思いをさせたくなかった。種族や身分を理由に、二度と大切なものを失ってほしくなかった」

 いずれ娘は『誰か』のもとへ嫁ぐ。いくら出身が旧家とはいえ、ヒトである以上、社会的に弱い立場であることに変わりはない。

 ならば、その『誰か』は、ヒトではないほうがいい。社会的にも地位の高いほうがいい。そうでなければならない。

 そうでなければ、また同じように……。

「……お前を将軍に嫁がせたのは、そのためだ」

「……」

 そのために、厳しく躾けた。どこへ出しても恥ずかしくない女性となるように。『誰か』に、見初めてもらえるように。

 すべては娘のため——そう自分に言い聞かせた。

「……だが、そんなものは詭弁だ。私は、お前から逃げただけなのだ……」

「……え?」


 そうでもしなければ、立っていることさえ、


「……セレネの死を悼むお前に対し、どう接すればいいかわからなかった。犯人が裁かれていたなら、またそこで区切りをつけられていたのかもしれない。……お前の痛みを取り除いてやることすらできない不甲斐ない自分を、お前に見せるのが——」


 息をすることさえ、


「——私は、怖かった……っ」


 できなくなってしまいそうで——。


 ここまで言い終えると、ハロルドは項垂れ、右手で顔を覆った。

 今まで誰にも明かすことのなかった彼の本心。それを、彼は自身の口から娘夫婦に告白した。

 肩が、体が、震えている。

 ディアナは、生まれて初めて父の涙を見た。

「……と、さま……」

 ずっと自分のせいだと思っていた。父が自分につらく当たるのは自分のせいなのだと。当然の報いゆえ、仕方がないことだと諦めていた。

 ——そうじゃなかった。

「……お、とう、さま……」

 父は、母が亡くなったことを娘のせいだとは思っていなかった。むしろ、母に対しても、娘に対しても、自身の非を責め続けていたのだ。

 十三年間、ずっと。

「……っ、お父様……っ!!」

 衷心から父を叫び、ディアナは駆け出した。膝を崩し、なだれ込むように父の胸元にしがみつく。

 そんな娘を、父は精一杯抱き止めた。滲む視界に、必死でその姿を映す。

 このとき、二人を隔てていた分厚い氷壁が、音を立てて一気に崩壊した。

「すまなかった、ディアナ……本当に、すまなか——っ」

「……っ——」

 耳元で声を潤ませる父に、娘は何度も何度もかぶりを振った。父の真っ直ぐな想いが、胸を貫く。

 四つの蒼玉から零れ落ちた雫が、砕け散った氷塊を、温かく溶かした。

「…………将軍」

「はい」

 いまだ娘を抱き締めたまま、ハロルドは、改まった声でジークに呼びかけた。

 その澄みきった力強い眼差しは、紛れもなく父親のもの。

「今さら私が言えた義理ではありませんが……娘のこと、どうかよろしくお願いします」

「……はい」

 娘を想う、美しき父親の眼差しだった。

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