第9話 想うということ

 松本君の予想通り、このアパートの住人から警察へと通報が入っていたらしく、兄の姿が見えなくなってから数分後、警察が部屋へとやってきて、私と松本君の事情聴取を始めた。

 そうは言っても、私は松本君の背中に張り付き、ブルブルと震えているだけだったので、詳しい内容は、耳に入ってこなかった。覚えている事と言えば、松本君は「知らない奴がチャイムをイタズラしていた所を、覗き穴から確認した」と、証言したという事くらい。確かにそれは、間違いでは無い。あの地点では、知らない奴だったのだから。

 被害届は出さなかったので、事情聴取は十五分程度で終わり、警察は「注意してください」とだけ言い残し、この部屋から立ち去っていった。

 本当に、なんの役にも立たない奴らだ……嘘でも「見回りを強化する」くらいの事、言えばいいのに。


 私は松本君の勧めで、布団の中で横になっていた。本当はこんな事、している場合では無いと言うのに。

 一刻も早く、あの男をなんとかしなければいけない。しかし、何をどう、何とかすればいいのかが、全く分からない。

 何を言っても聞かないだろうし、何をやっても嫌がらせを辞めないだろう。このままアイツが実家から出て行くのを、待つしかないのだろうか。

 しかしその間、私はどうする? 家に帰れば、メチャクチャに犯される。恐らく、殴られもする。あの様子では、問答無用だろう。

 今では父親より、兄のほうが体力や筋力の面で、上回っている。前のように父親が助けに入った所で、太刀打ち出来るか……? それどころか、何故かは分からないが、荒れに荒れている兄のあの様子では、事件にまで発展してしまう可能性だってある。つまり、父親を殺すとか……そこまで行かないまでも、暴行……重体……入院。

 そうなったら……私は大学生活どころの話しでは無くなってしまう……下手をすれば、人生の終わりだ……今まで積み上げてきたもの、全てが無駄になり、こうして松本君の所へ来る事も、出来なくなり……兄のようにフリーターとして、生活をし……ロクでもない男に引っかかり……そのまま地を這うように、ただ生きるだけの、人生。

 だから絶対に、家には帰れ無い……帰りたくない……。

 もう嫌だ……考えるのが嫌だ……どうしてこんな事に……。

 嫌な事が沢山あり、考える事を放棄してしまいたくなる。このまま眠って、起きれば、全てが解決していてくれないかな……なんて、思ってしまう。

「千香……俺が付いてる」

 松本君が冷めてしまったカツ丼をゆっくりと食べながら、私の顔を見つめ、声をかけてきた。

 私も松本君の顔を見つめ、何も喋らず、ただ松本君がカツ丼を食べている姿を、見続ける。

「だから安心しろ」

「……私が居ると、松本君に迷惑がかかるよ」

 私がそう言うと、松本君の眉間に、シワが寄った。

「迷惑なんか、いくらでもかけろよ」

「嫌だよ……迷惑かけたくない。本当にあともう少しでセンターだよ。国立にとってセンターは、本当に大事……合否の半分が決まると言っても過言じゃないって、塾の先生が言ってた……」

 松本君は私の言葉を聞き、さらに眉間にシワを寄せる。そして一瞬私から視線をそらし「チッ」と舌打ちを漏らした。何やら、イライラしているように見える……。

 また、余計な事を言ってしまったらしい……。

「この二週間、お前が勉強を教え続けてくれた俺を、少しは信じろ……そんな事より、お前だ」

 松本君はお尻を動かし、私のほうへと近づいてきた。そして私の頭に、そっと手を当てて、ゆっくりと撫で始める。

 松本君の手は、とても大きく、とても温かい。

「一週間後、試験……」

 松本君はそこで言葉を詰まらせ、一瞬表情を歪ませて目を瞑り、首を左右に小さく振った。

「いや、そんなんじゃなくて、お前の、心だ……お前の心が、心配だ」

「こころ……」

 松本君は私の言葉を聞き、首を上下に振って、目をゆっくりと開き、再び私の顔を見る。

 徐々に瞳が涙ぐんできている事が、わかった。ゆっくりと、ゆっくりと、目が赤くなり、涙がこみ上げてきている。

「兄にあんな仕打ちされて……嫌になるよなっ……なんで放っておいてくれないんだろうなっ……」

「まつもとくん……」

「酷いよなぁっ……頑張ろうとしている妹に対して、どうしてあんな事が出来るんだろうなぁっ……千香はこんなに、一生懸命生きているのに……悔しいっ……こんなに悔しいのは、生まれて初めてだっ……」

「まつもとくんっ……」

 松本君は、私の目を見て、私の頭を撫でながら、顔を歪ませ、涙をポトポトと、垂らした。

「妹が沢山勉強して、いい大学入ったら、一緒に喜べ……学年で二番を取ったら、褒めてやれ……次は一位目指そうって、励ましてやれっ……なんでそういった事が出来ないんだ……なんでそんな奴が、千香の兄貴なんだ……心が痛まないのかっ……? なんで千香はこんなに……気遣われないんだっ! 千香はこんなに頑張って! 真っ直ぐに生きているのにっ!」

 松本君はボロボロ、ボロボロ、涙を流して、叫んでいた。

 私の頭を撫でる手に、力が篭っているのが分かる。

 松本君は今、私の事で、凄く、凄く、悔しがっている。部屋の扉を蹴られた事や、変な奴に目を点けられた事なんて、全く意に介していない。ただ、ただ、私の事を、思ってくれている。

 それがこの上無く、嬉しい半面、物凄く、申し訳ない。

 申し訳ない。

「私、松本君にそう言って貰えただけで、頑張って良かったって思える」

「良くねぇだろっ! 千香はアイツを気遣ってんのに、アイツは何ひとつ気遣っていねぇじゃねぇか!」

「ううん、良いの。松本君が気遣ってくれてるの、分かるもん」

 本当に、そうなのだ。松本君の心がビシビシ、私に伝わってくる。

 今、松本君は、私の事を気遣ってくれている。私の事で悲しんでくれている。それは申し訳ない事なんだけど、私は頑張って良かったと、思えている。そして、これからも、頑張りたいと、思える。

 兄の妨害なんかに負けず、頑張ろう……なんとかする方法を、考えよう……そう思えた。

「うっ……うっ……俺が……千香の兄貴になりたかったっ……一番近くで、千香を見ていたかったっ……」

「確かに、松本君が兄だったら、良かったな。なんでも話せて、毎日楽しい時間を過ごせてたと思う。家に帰るのが嫌なんじゃなくて、楽しみになってたと、思う。友達にも、凄く自慢してたと思う。格好良い兄が居るって、言いふらしてたと思う」

 私は私の頭を撫でてくれている松本君の手に触れた。

「まつにぃ……ううん、えいにぃかな……えいにぃって呼んでた」

「……そう、呼んでくれるか?」

 松本君が私へと顔を近づけた。すると、松本君の手を握っている私の手に、涙が数滴、ポタポタと、落ちる。

「え? どういう意味?」

「……これから、俺を……そう呼んでくれないかって」

 松本君はそう言うと、私から視線を逸らして、少しだけ照れくさそうな表情を作る。

「あははっ……松本君、呼んで欲しいんだ、瑛にぃって……」

「……なんか、苗字に君付けは、距離を感じる」

 ……そう、距離を感じるんだ。それは、ワザとそうしていた。誰に対してもだが、私はまず、呼び名で距離を測る。

「瑛にぃ」

 そして呼び名を変えることによって、一気に距離が縮まったような感覚になれる。

 まるで本当に、新しい兄が出来たかのよう。

「……やっぱ、照れるな……最初は」

「ねぇ、瑛にぃっ……えいにぃっ」

「……なんだ? どうした?」

 私はドキドキと高鳴る鼓動を感じながら、意を決し、瑛にぃの目をジィっと見つめた。

「……瑛にぃはお兄ちゃんなんだから……一緒に苦難を、乗り越えて……私を、助けて……」

 助けて欲しい……助けて欲しい……。

 兄から私を、救い出して欲しい。嫌な記憶も、トラウマも、全て振り払って欲しい。

 新しいお兄ちゃんとして、私を、ずっとずっと……大事にして欲しい……。

 瞬きをすると、私の両目から、涙が流れ落ちたのが、分かった。

「ごめんねっ……こんな事、お願いなんてっ……嫌だもぉっ……嫌だぁっ……色々と、もうホントに……嫌ぁっ……」

 情けなくて、情けなくて、涙が流れてくる……。

「千香、泣くな……助けるから……安心しろ」

「ああぅぅぅっ……アイツがまた来るんじゃないかって……ガラス割って入ってくるんじゃないかって……怖いよぉっ怖いぃっ……家にも帰れないっ……アイツ今、仕事休みみたいでっ……きっと正月が終るまでは居るよぉっ……どうしたら安心出来るの? ねぇえいにぃっ……安心出来ないよぉっ……安心出来ないよぉっ……」

「考える……少し考えるからな、千香は目を閉じて、リラックスしてくれ」

「出来ないぃっ……今来たらって思っちゃうぅっ……」

 どうしてだろうな……一気に不安な気持ちが湧いてくる。

 松本君が瑛にぃになって、助けてくれると言ってくれているのに、どんどん、どんどん、不安になってくる……心の中が、モヤモヤ、モヤモヤっとしてきて、居ても立ってもいられない。早く何か手を打たなきゃと、イライラにも似た感覚が、私を襲う。

「……放火犯は現場に戻るって言うし、確かにな……来るかも知れねぇ」

 瑛にぃはそう言いながら立ち上がり、台所へと向かって歩き出した。

 そしてシンクの下の棚から、小さめのフライパンと、包丁を、取り出す。

「……こんなん、人に向かって使う事になるなんてな……」

 右手に包丁、左手にフライパンを持ち、瑛にぃは暗い表情を作る。

 どうやら瑛にぃの涙は止まっているようだった。

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