第10話 トラウマが産まれる

 瑛にぃはフライパンと包丁をちゃぶ台の上に置き、再び私の近くへと座り、寝転がっている私の頭をグッと持ち上げた。

「え? え? 何?」

 私は戸惑いながらも、されるがまま、瑛にぃの行動を見守る。

 瑛にぃは黙ったまま、私の頭の下にあった枕をどけ、そこに、自身の足をスッと入れ、私の頭を置く。

 つまり瑛にぃは、私に膝枕を、してくれた。

「えっ……えいにぃ……」

 私は瑛にぃの膝に頭を乗せたまま、瑛にぃの顔を見つめる。

 瑛にぃは少し頬を赤くしており、私の視線から逃れるよう、首を少し動かして、参考書を手にとり、それを開いた。

「……少しは、安心するかなと、思ってよ。とりあえず目を瞑って、リラックスしろ。今後の事、考えておくから」

 瑛にぃは一瞬だけ私の顔を見て、再び参考書へと視線を戻した。

 参考書を片手に持ち直し、視線を動かさないまま、私の頭へと持ってきて、再び私の頭を、優しく撫でる。

「ね……寝てくれても、いいんだぞ……疲れてるだろ……」

 私は瑛にぃの言葉を聞き、頭をグリグリと、瑛にぃの膝に押し付けた。

 もっと深く、もっと強く、瑛にぃの体に触れたい。瑛にぃの優しさに触れたい。

「おまっ……あんま動くな……こちょばい……」

「幸せだよ……こんな日が来るなんて、思っても見なかったよ……こんな私が、こんないい人に、こんないい事をして貰えるなんて……夢みたいだよ……さっきまで、寝て起きたら、全てが解決しててくれないかなーって、思ってたんだけど、今は、寝て起きて、このままの状態で居て欲しいって、思う。このままこの夢が、覚めないで欲しいって、思う」

 私は瑛にぃの顔を見つめながら、ニコッと笑った。

 心が、とてもとても、素直になっている。今なら本当になんでも、話してしまいそうだ。

 それに今、こうしている事が幸せな事なんだと言う事を、言葉にしておかないと、消えてしまいそうな気がする。

 これは、幸せな事なんだ……当たり前なんかじゃない。噛みしめるべきもの。大切にするべき事。記憶に刻みこむべき事。忘れちゃいけない事。

「……千香……」

 瑛にぃが、私の顔へと視線を移し、持っていた参考書を、ゆっくりと床へと置いた。

「今はお前が、一番大事だ。何よりも、誰よりも、お前を大切に思う。だからアイツが何をしてこようと、俺が食い止めるからな」

 あぁ、安心出来ない理由が分かった。

 大切に思われているって、凄く凄く感じるから、安心出来ないんだ。

 瑛にぃは、私を守るために、きっと、本当に体を張ってくれる。身を挺して私を守ってくれるだろう。

 そんな事、私は望んでいない……二人で一緒に乗り越えて、今まで通り、勉強を続けられる事。それがベストだと、私は思っている。

「嬉しいな……凄く嬉しいよ……でもね、戦おうとか、考えないでね。武器持つのも、逆効果だよ。奪われて刺されたらどうするの? えいにぃ、喧嘩なんてした事ないでしょ? 絶対に負ける。だからお願い。フライパンと包丁は、しまってきて」

 私がそう言うと、瑛にぃはアヒル口になり「確かに、喧嘩はした事ねぇけど、そんなに弱そうに見えるか?」と呟き、私の頭を枕の上に移し替えて、包丁とフライパンを手に持って、台所へと向かった。

「弱そうっていうか、アイツがね、喧嘩慣れしてるから」

「……そうか。参ったな……ガラス割られないようにするやつ、買って来ようか」

 えいにぃはしかめっ面をして、頭をボリボリと掻く。そして俯いて、小さくため息をついた。

 そんな困った顔をされたら、私の中の罪悪感が、どんどんと育ってしまう。胸が痛い。

「ごめん……私のせいで」

「あ? いや、悪いのは兄だろ。千香じゃない」

「情けないよ……あんな兄で」

「……何かあったのか? 大声上げながら扉をガンガン蹴るって、相当だとは思うが……」

「ん……わかんない。朝起きたら、部屋に兄が居てさ、私のストーブから灯油を抜いてたんだよ。自分の家の灯油が切れた、とか言ってね。そして……そし……て」

 あぶない……心が隙だらけになっており、つい、全てを話してしまう所であった。

 私は焦り、口をつぐむ。なんて言えばいいだろうか……。

「そして? なんだ?」

「灯油の事で……口論になって、兄が怒って、部屋から出てって」

「……嘘はやめろよ。怒るぞ」

 瑛にぃは私の目をジィッと見つめながら、そう言った。

 ……分かるものなのだな、嘘だって……雰囲気や気配が、恐らく違うのだろう。私は嘘がつけない。

「……引かないなら、言うよ。絶対引かないって、私を嫌いにならないって、誓って」

 私は瑛にぃの目を真っ直ぐ見つめ、真剣な声色で、そう言った。

 すると瑛にぃは、一瞬だけ眉間にシワを寄せたが「引かない」と言い、私の目を見つめる。

 そうか……引かないのか。正直、断って欲しかったと、思ってしまう。

「私が出掛けるって言ったら……兄がね、その前に一発抜いてくれって言って、私に迫ってきたんだ」

 私がそう言うと、瑛にぃは流石に驚いた表情を作り「は……はぁ?」という声をあげた。

 引いては……いないのか? まだ、良く分からない。

「あれ、抜くって分からないかな……? つまり、しゃせ」

「わっ……分かってる。説明するな」

 瑛にぃは私から視線をそらし、手で口元を隠し、床の一点を見つめていた。

 なんだか、やっぱり、引いているように、見える……。

「ひいてる……? 嫌いになった?」

 私がそう言うと、瑛にぃはかろうじて「いや」と答えて、ゆっくりと私のほうへと目を向けた。

「そういう、仲……だったのか?」

「……なんて言えばいいのかな……私、中一の時って、人が嫌いで、保健室登校してたんだ。今も好きな人しか好きじゃないんだけどさ。そのせいで、性に対する知識が、極端に少なくてね……だから、知らない間に、兄のオモチャに、なってたよ……オチチをいっぱい、いじられた」

「……オモチャって……中一だぞ……」

「関係無いんだよきっと……荒れるって、そういう事だよ。何やっても許されると思うんだよ。その感じは、私も分かる」

 瑛にぃは眉間にギュッと力を込めて、ベランダを見つめた。

 さきほどの兄の姿を思い出しているように見える。心中穏やかでは、無さそう。

「あ……でも、本番……は、されてない……夜這いはされたけど、パンツ脱がされそうになって、叫んだら、父親が、木刀で兄を、殴って……」

 私がそう言うと、瑛にぃは小さな声で「そうか」とだけ呟き、力なく歩き、床に置いてあった参考書を手に持って、ちゃぶ台の上に置き、私が寝転がっている布団の隣に、あぐらをかいて、座り込んだ。

 私の顔は見てくれない。参考書の表紙を、ただただ見つめ続けている。

「……あ、それで今日の朝ね……一発抜くのは絶対嫌って拒んだら、兄はため息ついて、部屋から出て行ったの……それで私、怖くなって、歯も磨けないまま、家を出てきたの……」

 私の言葉を聞き終わり、瑛にぃは難しい表情を浮かべて、目を瞑り、ガクッと肩を落とした。

「兄は……千香が好きなんだと、思うぞ。歪んだ愛情なんだとは、思うが……所有物のように、思っているんだと、思う」

 兄が、私を、好き……?

 そんな訳がない……好きな人に向かってするような、行動じゃない。

 好きになると、その人の笑顔が見たくなる。笑っていて欲しいと、本気で願う。その人のために出来る事を、本気で考える。だから私は、料理を作りたいと、思えるんだ。

 それが、愛情。身を持って知った事。

「好きじゃないよ……所有物みたいに思ってるっていうのは、そうかなって思うけど」

「……男と女の愛情は、違うんだと、思う。男の場合、所有欲と優越感が大きい……千香が反抗した理由が俺だと、思っている筈だ。俺に千香を取られたと感じて、イラついているんだ……取られる気持ちは、良く、分かる……」

 そうか……瑛にぃは、彩子さんをリクに取られた過去がある。

 瑛にぃがリクに何かをしたとか、彩子さんをストーカーしたとか、そういった話は彩子さんからも、瑛にぃからも、聞いた事が無いので、そんな事実は無かったのだろう。が、それでも、悔しかったのだろうな……奪われる気持ちをえいにぃは、よく知っている。

「自分勝手な奴だと思うが……千香を取られたという事がアイツにとっての現実で、全てなんだ……裏切られた気持ちで、いっぱいなんだ……」

 そうなのか……裏切られた、気持ちなのか……。

 私は、兄を裏切ったのだろうか? 兄にあれだけの事をさせるほどに、傷付けたのだろうか?

 じゃあ、だったら、私は一生、アイツのオモチャを続けなければいけないのか……。

 私は瑛にぃから視線を外し、枕に顔を埋めた。

「私は兄の期待に、答え続けなきゃ、いけないの……? 兄の期待って、一生兄のオモチャとして生きていく事……? そうしなきゃ、メチャクチャにされるの……? 私の人生も、感情も、心も、メチャクチャに、しなくちゃいけないの……?」

「そんな事ない。俺がな」

「アイツ、私が帰ったらメチャクチャに犯すって叫んでた……私の事を、ビッチだとか、俺のナニを咥えて喜んでたとか、千香の体で、俺の手が触れてない場所が無いとか、そういう事を瑛にぃにバラすとか、言ってた。私、喜んでないよ。触られてない場所だってあるよ。アソコはまだ、誰も触った事ないよ。本当だよ……本当だもん……なんでそんな嘘付こうとするの……? 私が瑛にぃに嫌われる事を望んでるの……? 私は瑛にぃに気に入られたいのにっ……じゃあアイツは、瑛にぃに取って変われるような、魅力があるとでも、言うの……? そんなのっ……無いくせにっ……何一つっ……アイツが瑛にぃに勝っているものなんて、無いのにぃっ……」

「……安心しろ千香、俺はお前の言葉を信じるよ」

 松本君が、私の後頭部に、優しく手を置いた。

 そしてゆっくりと、優しく撫でる。

 その瞬間に、ベランダの方から、ゴンッという音が、聞こえてきた。

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