第11話 テチヲ
私は思わず顔を上げ、ベランダへと視線を移した。
そこには、特に変わった所が無いように見える、ベランダの窓が見える。しかし瑛にぃは顔を真っ青にし、私の頭から手を離して、その場に立ち上がり、ゆっくりとベランダへと向かって歩き出した。
そして震える声で「あの……野郎っ……」と、呟く。
瑛にぃはベランダの地面へと視線を向けている。私はうつ伏せで寝転がっているので、よく見えない。
私はしばらくぶりに体を起こして、立ち上がり、瑛にぃの居る場所へと向かって歩き出す。
「何……? どうかしたの?」
私がそう聞くも、瑛にぃは地面を見つめたまま動かなくなり、何も答えてくれない。
仕方なく、私は瑛にぃの視線の先を、一緒に見つめる。
「え……? え……猫……?」
ベランダの地面には、とても汚れていて、触る事も躊躇してしまうような、猫の死骸が、転がっていた。
目玉が飛び出しており、口からは血と、舌が出ている。恐らく、頭を殴られた事による撲殺なのだろう……出血は少ないが、頭蓋骨が、凹んでいた。
右耳は、元から少し千切れていたのだろう。変な形をしているが、出血は無い。
「アイツが……やったんだと、思う……」
私は瑛にぃに対して、小さくそう言った。
猫か……昔からアイツは、野良猫を殺していた……病気かと思うほどに、殺していた……久々に見ると、流石に少し、気持ち悪い。
アイツはやっぱり、少しオカシイ……未だに野良猫を殺し、そしてその死骸を人の家のベランダに投げ込めるなんて、普通の人間では、絶対に出来ない事である。ここまで来るともう、イタズラでは、済まない。
「あっ……あああぁぁああっ! あの野郎っぶっ殺してやるぁああっ!」
瑛にぃは突然、大声を上げて、ベランダの窓の鍵を開け、凄く凄く乱暴に、窓を開ける。
そして素足のまま飛び出し、ベランダの塀をよじ登ろうと、足をかけた。
「えっ! 松本君だめだよっ! 松本君何してるのっ!」
驚き、つい松本君と呼んでしまう。
私も靴下のままベランダへと出て、瑛にぃの体をひっぱり、塀から無理矢理引きずり下ろす。
「駄目っ何考えてるの! 追いかけても殴られて終わりだよぉっ! これ素手じゃな」
「離せくそがあっ! この猫はっ! このアパートの住人共同で飼ってるような猫なんだっ! 俺ぁテチヲが! あああああっ! この猫が居たから正気を保てたんだあっ!」
物凄い形相で、瑛にぃは怒鳴っている。私を睨む。くそがって、言われた……。
テチヲ……テチヲという、名前なのか、この、猫……よっぽど、大事に、していたのだろう……瑛にぃは、正気を、保てていない……。
瑛にぃは、躊躇する事無く、テチヲの体を両手で持ち上げ、思い切り、思い切り、胸に抱きしめた。
テチヲの血が、瑛にぃの服を、濡らす。汚す……。
「テチッ! テチィッ! 畜生あの野郎っ! あの野郎ぉおっ!」
テチヲの首は、ブランと垂れ下がり、ありえない方向を向いていて、気持ちが、悪い……。
しかし、瑛にぃにとっては、特別な猫、なのだ……大切だったのだ……それを殺されて、ベランダに投げ込まれ……正気を保つ事なんて、出来無いだろう……。
それでも、やっぱり……今追いかける事は、駄目……絶対に、駄目。
「瑛にぃ、落ち着い」
「落ち着けだあっ? 落ち着けだとっ! お前は飼ってるウサギが殺されて落ち着いてられるのかっ! 死んだんじゃねぇ殺されたんだ! 殺されたんだぞっ!」
「分かってるけどっ……! 今向かって、瑛にぃが同じ目に合わされたら、私」
「俺が同じ目に合わせてやるんだよっ! ぶっころ」
瑛にぃはテチヲの体をその場に置きながら立ち上がり、血走らせた目をカッと見開きながら部屋の中へ入っていこうとしたが、私は瑛にぃの服を掴み、思い切り引っ張る。
そして瑛にぃの顔を、思い切り、思い切り、平手で叩いた。
パチィンという音が鳴り、瑛にぃの体が一瞬、よろめく。
次に私は、瑛にぃの肩を思い切りドンと押し、ベランダの壁に叩きつける。そして瑛にぃの首に自分の左腕を押し当て、逆の手で瑛にぃの左腕を掴んで、引っ張った。
……あんなに興奮していたのに、こんな単純な、誰でも出来る護身術に、抵抗出来ないなんて……瑛にぃは弱すぎる……絶対に、勝てない。
「……気持ちは、分かるって言ったら、嘘になるよ……ペットの死を経験してないから、どれくらい悲しいかは、正直、分からないよ……でも、このまま向かって、兄を殺そうが、兄に暴行を受けようが……どっちにしても、私が悲しむっていう事は、分かって欲しいよ……」
私はそう言いながら、ゆっくりと引っ張る力を抜いていき、瑛にぃの腕を離した。首に当てている腕も、ゆっくりと下ろす。
「……兄のした事が許せないのはよく、分かったよ、ごめんね……テチヲが殺された悲しみ、分かってあげられなくて、ごめん……そんなんで、私の気持ちを分かってなんて、ムシの良い話しだけど……私、悲しみたくないよ……瑛にぃがこれ以上、不幸になるの、見たくないよ」
私がそう言うと、瑛にぃは顔をうつむかせ、背中を壁にもたれかけ、ズルズルと、その場にしゃがみこんでしまった。
瑛にぃは、口をポカンと開けたまま、呆然としており、テチヲの死骸を、ただ見つめている。
動物の死に対して、私は悲しいと、思えない……勿論、兄のした事は許せない事だという意識は、持っている。だけど、瑛にぃの今の感情が、分からない……テチヲの死骸だって、汚らしいと、思ってしまう……お墓を作るなり、火葬するなり、しなければな……と、思うくらいだ。
母が飼っているウサギが死ぬ所を想像しても、心は動かない。
心が、冷たいのだろうか……。
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