第12話 以心伝心
瑛にぃがベランダでしゃがみ込み、呆然としてから、既に十分が経過していた。
冬の風はやはり冷たく、私と瑛にぃの体を、無遠慮に突き刺す。
瑛にぃにとっては、寒さなんて、関係無いのだろう。震える事無く、ただただ、テチヲの死骸を見つめ続けている。
私は瑛にぃの隣にしゃがみ、瑛にぃの手を握って、瑛にぃの体に身を寄せていたのだが、いい加減、寒くなってきていた。
話しかけていいものかどうか分からず、ずっと黙っていたのだが、流石にもう、私が無理だ。
「瑛にぃ……そろそろお家はいろ……寒いでしょ?」
私がそう尋ねるも、瑛にぃは視線を一切動かさない。
しかし、私の言葉を聞いてか聞かずか「テチヲはな」と、喋り出した。
「テチヲは、このアパートにおいては、俺より先輩なんだよ……俺が引っ越してきた時には既にこのアパートを住処にしてて、皆から可愛がられていた。違う呼び名で呼ぶ人も居るけど、大抵はテチヲって呼んでた」
瑛にぃの、低く、小さな声が、私の鼓膜を、わずかに震わせる。
「うん」
「人懐っこい奴でな……死んだ目をした俺の所にも、よく来てくれていた……俺が深夜に、バイトから帰ってきた時なんか、俺の部屋の前で、寝転がりながら待ってる時も、あったよ……廃棄で貰ってくる餌が目当てだって事は分かっていたが、愛嬌タップリにケツをプリプリ振って、近寄ってくるんだ……そんで、冷めたからあげを、俺が少し咀嚼してやって、与えてた……食う姿も可愛くて……俺の唯一の、癒やしの時間だった」
「うん……」
瑛にぃは、感情の篭っていない声と表情で、延々と、しゃべり続けている。
おそらく私の相槌も、期待なんてしていないのだろう。ただただ、喋っていた。
「よく他の猫と喧嘩をしていたみたいで……耳がよ、一部欠けてるだろ。俺が引っ越して来た時から耳はああだったんだが……他にもいっぱい怪我があってな、尻尾の付け根、あそこハゲてるだろ……?」
「うん」
「あそこを怪我して帰ってきた時の事は、よく覚えてるよ。夜中俺が勉強してる時に、珍しくテチヲが、このベランダに降りてきたんだ。そんで、ニャーニャー鳴きながら、俺を呼んだんだ……」
「うん」
「はは……そしたらよ、まるで喧嘩に勝ってきた事を、自慢してるような顔してやがってよ……はははっ……尻尾、一応洗ってやって、消毒してやって……餌は大したモン無いって言ったら、メチャクチャ鳴いてよ……仕方ねぇから、わざわざコンビニまでササミ買いに行ったんだよ……」
「うん」
「おかしいだろ……猫なのによ、表情があったんだ……なんか、友人みたいに思ってた……」
「友達だったんだね、テチヲ君……」
「あぁ……友達だったんだ……」
「……友達殺されたら、許せないよね」
「あぁ……許せない……」
瑛にぃは再び、眉間にシワを寄せて、死んだような、力ない目に、命が吹き込まれるかのように、ギラリと瞳を光らせた。
しかし……これだけ話を聞いても、正直未だ、悲しさが伝わっては来ていない。
やはり、一緒にその場に居なかったから、だろうか……一緒に餌を与えて、一緒に怪我の手当をして、一緒に可愛がっていれば、今ここで、一緒に悲しんでいられたのだろうか……一緒に兄へ復讐しようと、思えていたのだろうか……。
やっぱり私は、瑛にぃでは無いのだから、瑛にぃの気持ちを、正確に把握する事なんて、不可能だ。
だからこれからは、一緒に居て、同じモノを、同じように感じたいって、思う……。
一緒に悲しんであげられなくて、ごめんなさい……ごめんなさい……。
だけど、兄を許せないと思う気持ちは、一緒。あいつは、許せない。
瑛にぃはようやく立ち上がり、テチヲの体を持ち上げ、私に「中、入ろう」と声をかけ、部屋の中へと入っていった。私も瑛にぃの後を追うように、靴下を脱ぎ、部屋の中へと足を踏み入れる。
「……このままには、しておけないな……アパートの裏に、墓作ってやろう」
瑛にぃはそう言いながら、玄関のほうへと向かって歩いて行く。私は窓を閉め、しっかりと施錠をした。
そして瑛にぃは、テチヲの体を片手に持ち替えて、玄関の鍵を、パチンと音を立てて、開けた。
それと同時に、ガッチンという音が鳴り、玄関の扉が開かれる。
「うわっ!」
「わあっ!」
私と瑛にぃは驚いて、同時に声を上げた。
玄関の扉はチェーンロックのせいで、少ししか開いていないが、扉を開いた人物は、すぐに分かった。
間違いなく、兄である。
恐らく、鍵が開く音をずっと待っていたのだろう……しかしチェーンロックまでかけているとは、思っていなかったらしい。
「っ……てめぇっ!」
瑛にぃもすぐに誰だか分かったようで、殺意の篭った声で、怒鳴る。
「おい、鍵開けろ。早く」
やはり、兄の声が聞こえてきた。
何故、お前なんかが、瑛にぃに、命令口調で、話しかけてるんだ……と、私にも、殺意が宿ってくるのを、感じる。
私は畳んであるコートの上に置いてあるスマホを拾い上げ、警察へと電話をかけた。もう既にここが何市で何町の、なんというアパートであるかを覚えているので、正確に通報する事が出来る。
「てめぇ自分が何やってんのか、分かってるのか? 妹を脅迫」
「うるせーノッポ。いーから開けろ」
「……妹を脅迫して、きぶ」
「うるせーって。さっさとあけろ。殺すぞ」
電話をかけ、コール一回で、警察の人が出る。「110番です、どうかなさいましたか?」という言葉を聞いた後、直ぐに「変質者が自宅に来ているんです。助けてください。住所は」と、手早く住所を伝える。
「千香てめぇ俺を警察に売るんか? 言っとくが、この程度の事、当日で釈放だよ。長くても二週間で出てくるぞ。戻ってきたらどうなるか、わかってんのか?」
「……聞こえましたか? 脅迫されています……被害届も出しますから、早く来て下さい」
「てめぇ本気かっ! 俺はお前の兄貴だぞ! おいコラ千香ぁっ!」
兄はそう言い、チェーンロックを切ろうとしているのか、ガンガンと扉の内側を蹴っている。
しかし、そんな事で切れるほどヤワなものでは無い。道具でもあれば別だろうが、こういったものは、たとえプロレスラーでも切る事が出来ないように、出来ている。人力では、どうする事も出来やしない。
「うるせーぞ糞野郎。一日で出ようが二週間で出ようが実刑受けようが、絶対に被害届は出すし、示談にも応じねぇ。お前はもう立派な犯罪者だ。出てきたら、その次は家裁だ。前科のあるお前は、問答無用でDV認定受けて、接近禁止命令が下るだろうよ」
瑛にぃが小さく、冷たい声でそう言うと、兄は「千香ぁああっ! お前は俺より、こんな奴が良いって言うのかよぉおっ! 俺を選べ千香っ! 帰って来いっ! 今ならまだ許してやる!」と、近所中に聞こえるほどの大きな声で、叫んだ。
実際、一緒に住んでいる訳では無いし、暴力を受けた訳では無いからDVで訴えるのは難しいだろうな……とは思うが、無知で馬鹿なこの男に対する脅し文句としては、十分だろう。
「帰って来いって……一度だって兄のモノになったつもり、無いよ」
「それとな、許しを乞うのは、お前のほうだろ……土下座のひとつでも、やってみたらどうだ? 案外許して貰えるかもしれねぇぞ」
「瑛にぃ、土下座されたって許さないよ。コイツは絶対、許さない」
「はっ! だってよ。残念だったなっ!」
瑛にぃはガンガン蹴られている扉を、内側から思い切り蹴り返した。
玄関の扉は外開きのドアなので大した意味の無い行為に見えるが、どうやら兄はビックリしたようで、扉を蹴るのを辞め、扉が少し、閉まる。
「覚えておけよクソがぁっ! てめぇの人生ガタガタにしてやっからなっ! 俺から千香を奪った事は死んでも忘れねぇからな! ぶっ殺してやるからなぁあっ!」
兄はそう叫び、どうやら逃げ出したようで、玄関がバタンと音を立てて、閉まった。
……なんだろう、私も、瑛にぃも、物凄く冷静に、対処をしていたような気がする……なんだこの連帯感。連携プレー。シンパシーは。
「……はは」
「あはっ」
私と瑛にぃは目が合い、何故か自然と、笑いあった。
「……警察、いいのか? アイツが捕まると、奨学金が貰えないとか、言ってたじゃねぇか」
「うん……第一種奨学金は、適正の面で継続無理かも知れないね、最近厳しくなったって聞いたし……もし一種が駄目なら二種に切り替えかな……出来るかどうか、知らないけど……それにね、何より、これ以上瑛にぃに迷惑、掛けたくないって、思ったの」
「一種なのかよ……いや、まぁ千香なら、そうか……成績いいからな」
「……あれ? 私が瑛にぃに迷惑かけたくないっていうクダリには、触れてくれないの?」
「あ、いやっ……! 悪い……ありがとう千香……嬉しいが……やっぱり申し訳ないな……」
私は瑛にぃの顔を見ながら「ふふっ」と笑い、瑛にぃが抱えているテチヲの垂れ下がっている首を、スッと持ち上げた。
未だに汚らしいと感じてしまうのだが、今は、こうしたい。支えてあげたいと、思う。
それはテチヲのためではなく、瑛にぃのため。ダラリと垂れ下がった首なんて、見たくないだろうと思い、体が動いた。
「今まで、瑛にぃを支えてくれて、ありがとう」
「……千香」
「今日からは私が支えるから、テチヲはゆっくり、休むのにゃ」
私がそう言うと、瑛にぃは「えっ」と、小さく驚いていた。
「……今日からは、私がテチヲの変わりをするにゃ」
私は瑛にぃの顔を見つめ、ニコッと笑った。
変わりが務まるかどうかは分からないけれど、支えたいと、本気で思っている。
それは食事の面でも。勉学の面でも。心の隙間を埋めるという面でも。とにかく瑛にぃの全てを、支えたい。
今後、兄が更に迷惑行為をしてきた時にも、私は、私に出来る最大限の事をして、それを阻止しようと、思う。
もし、本当にもし、兄が本気で瑛にぃを殺しに来たとしたら、私は躊躇せず、兄を殺す。その覚悟を、今、しよう。いざ、その時になって、躊躇わないように。
殺す。殺す。殺す。
何を置いても、殺す。
「瑛にぃは、私をテチヲだと思って、大事にするのにゃっ」
「妹じゃ、無かったのか……?」
瑛にぃは少し困惑した表情を見せてはいたが「ふっ」と、小さく笑ってくれた。
遠くから、パトカーのサイレンの音が聞こえてくる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます