やってくるトラウマ

ナガス

千香

第1話 大晦日の朝

 大晦日の朝、目が覚めると非常に寒かった。

 どうやら灯油が切れてしまっており、タイマーをセットしていたのだが、ストーブが点いていないようだ。

 私はブルルと身震いを起こし、芯から冷えている体を温めるため、体に布団を密着させるように布団の端を掴み、グルグルと回転し体に布団を巻きつけた。

 しかし、そんな事ぐらいで北海道の寒い朝を暖かく過ごせる訳も無く、眠気が残っているのだが再び眠りにつく事が出来ず、私は仕方なくこの状態のまま体を起こし、ボゥっとした頭で、自分の部屋を見た。

「え……」

 そこには私のストーブのタンクから、恐らく自前のポリタンクへと灯油を移し替えている、兄の横顔が見えた。

 相変わらず髪の毛は金色で、両耳には沢山のピアスがぶら下がっている。目付きも非常に悪く、どこからどう見ても、悪人面。

 今、兄がいくつだったのかは忘れてしまったが、もう二十代も中頃と言った所だ。それなのに、いつまでそんな格好を続けるつもりなのだろうか。

「おぉ千香、起きたんか」

「……帰ってきたの?」

 私がそう問いただすと、兄はニカッと笑う。

 私の前だけでは、昔からよく笑う人だった。

 しかし私は、笑えない。昔からこの人の前では、上手く笑えない。

「年末だから金が無くなってよ、ちょーっと援助して貰おうと思ってな」

「……それで、灯油? そんなセコい」

「セコいつっても高けーんだぞ? 安月給の俺じゃあとても毎月何千円も払えねーんだわ」

「じゃあ、私はどうなんの……? 灯油無いと寒くて死んじゃう」

 兄は私の目をギロリと睨んだ。相変わらずの、鋭い眼光をしている。

「俺が寒くて死んじゃってもいいのか?」

 あぁ……私も兄と同じだから人の事は言えないが、この人は相変わらず自分本位だ。他の人では信じられないような事を、平気で言うし、平気でする。

 今だって、なけなしの私の灯油を、悪びれもせず、平気な顔で盗んでいる最中。家族だから問題無いと思っているのかも知れないが、それでも犯罪は犯罪だ。訴えれば勝てるはずだ。

 昔、兄と私とで一緒にお出かけしていた時、兄が万引きで警察に捕まった時の事を、思い出す。あの時も兄は悪びれる事なく、警察に向かって大声で叫んでいた。

 私は「自分は関係無い」と必死に警察へと訴えたが、アイツらは目を合わすと疑ってきて、身体検査と持ち物検査、事情聴取に、学校への連絡を余儀なくされた。その後も学校で先生に沢山問いつめられ、嫌な思い出となっている。

 家に帰った後の兄は、ただただ不機嫌になって、父親と口論になっていた。反省する気なんて、毛頭無いのだろう。私に悪いと思う良心も、きっと無い。

「……死なれるのは嫌だけど、私が死ぬのも嫌」

「おぉおぉ、言うようになったねぇ。あの無口だった千香ちゃんが」

 兄は私に向かって、ニコリと笑いかけた。どうやら機嫌は、悪くないようだ。

「……私、出掛けるから。散らかさないでね」

 私はノソノソと布団を体から外し、布団を折りたたもうと思い立ち上がる。

 すると兄は「お? その前によ」と言いながら、カラになったストーブの灯油タンクを元に戻し、ポリタンクの蓋を閉める。

「一発抜いてくんね? 彼女と別れちまってよ、溜まってんだ」

 ……この、性欲糞野郎。

 そうだ、兄は昔、中一だった私の体を、玩具にして、遊んでいた。

 本番をされた事こそないが、当時から大きかった私のオチチを揉み、汚らしい性器を挟み、射精していた事を、思い出す。

 当時の私は友達付き合いが希薄で、そういった性に対する知識が皆無に近かったのをいい事に、忌々しい烙印を、私の脳裏に刻んでいた。

 私のオチチは、ストレスで出来ている。嫌だと感じる度に、少しずつ大きくなり、今ではこんなに、大きくなってしまった。

「……嫌だよ、もう私、子供じゃない。何がどういう事なのか、ちゃんと分かってる」

「お? あの無知だったガキンチョが、大人になったのか?」

「……関係無いでしょ。ほっといてよ」

「おいおい……そりゃあ無いんじゃないの? もっと言い方を考えて話せよ」

 兄は立ち上がり、笑顔のまま私へと詰め寄ってきた。

 嫌だ……怖い。

「大人になったかどうか、お兄ちゃんが確かめてやるよ」

 怖い……怖い……怖い……。

 なんでこんなクズが兄になったんだ。なんでこんなクズが捕まらないんだ。なんでこんなクズに彼女が出来るんだ。なんでこんなクズがこの世に存在しているんだ。

 そして、なんでこんなクズを、私は嫌いになりきれないんだ……。

 家族だから……? 兄だから……? 料理を褒めてくれたから……?

 ただそれだけの、理由……?

 だったらその記憶、全部、要らない。

 こいつは家族じゃない……こいつは兄じゃない……。

「……嫌だよ。大声出すよ」

「んだよ。減るもんじゃねぇだろ」

 兄は更に、私との距離を詰める。

 私は思わず後ずさりして兄との距離を取り、どう逃げようかと、必死に考えていた。

 いざとなれば、大声を出す……両親に助けを求める……顔を殴る……目をえぐる……鞄を持って外に出る……裁判所に訴える……全てを実行する……その覚悟をした。

「減るんだよ……感情が、欠如していく」

「はぁ? なんだって?」

「……絶対、嫌って言ってるの」

 私は兄の目を睨み、兄と距離を取りながらゆっくりと入り口へと近づくように動いた。

 すると兄は突然、冷めたような表情を作り「はぁ」とため息をつき、ポリタンクを手に持ち、私の部屋から出て行った。

 急に、どうしたのだろうか……。

 そうは思うが、私は急いで自分の部屋の鍵を閉め、自身の布団の上に戻り、布団をかぶり直した。

 ……ほとんど思い出す事が無くなっていたトラウマが、少しずつ、少しずつ、私の脳を侵食してくる。

「嫌……本当に嫌……」

 私は体育座りをしながら、自分の足に頭を付けた。


 ……松本君の所に、行かなきゃいけない。行きたい……。

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