第2話 聞かせたいような、聞かせたくないような
私は怯えながらも着替えを済ませ、荷物をまとめて、部屋の鍵を開けた。
そしてそぉっと部屋の外へと出て、リビングのほうへと視線を向けると、兄は座椅子の上に寝転がり、シャツからお腹を出し、だらしない格好をしながら、テレビを見ていた。
私は早くこの場を離れたかったので、顔を洗う事と歯を磨く事を諦め、そそくさと玄関へと向かって歩いて行く。
玄関への途中に父親と母親の寝室があるので、私は部屋のふすまをそっと開き、まだ眠っている両親に向かって「行ってきます」と小さく声をかけ、高校時代から履いている黒いローファーへ足を入れ、扉を開き、外へと出た。
外の空気は身を刻むような冷たさで、私は全身に力が入る。
風も多少強く、長い髪の毛がバサバサと風に舞う。こういった事が嫌なので髪の毛を切りたいのだが、美容室に行くお金が無い。そんなお金があるのなら、参考書の一冊でも買ったほうがいいと思ってしまう。
そんな色気の無い私が、眼鏡と服を買ったのは、今から会いに行く松本君に、少しでも可愛く見られたいからであり、何故可愛く見られたいのかと言うと、やはりそれは、好き、だからなのだろう。
今日の私は、松本君の参考書を買いに行った日に買った、ビシッとした服を着ている。コートだけはまだブカブカの茶色いダッフルコートだが、これもいずれ変えなくてはいけない。それに、ビシッとした服も、他に何枚か欲しい所だ。
オシャレとは、お金のかかるものなのだな……しかし、私の格好を褒めてくれた松本君の言葉を思い出し、思わずニヤけ、先程あった怖かった事など気にもならなくなり、私は気分よく、冷たく強い風が吹く中を、少し駆け足気味に歩いた。
電車の中に入ると、温かい空気が私を包み込んでくれて、とてもとても癒やされる。
私は四月から隣に座っているであろう松本君の姿を思い浮かべて、またまた癒される。
何を話しているだろうか。笑っているだろうか。幸せだろうか。そんな風に考えると、心がウキウキとしてくる。それだけで楽しい気持ちになってしまう。
付き合え無くてもいい。側に居られるのなら、今のような友達のままでも全然構わない。それだけで私は十分幸せでいられる。
しかし松本君は、大学に行けば絶対にモテてしまう。人当たりが良いとは言えないし、特別気が利く訳でも無いが、決して冷たい訳では無く、時と場合によるが、とても優しい。黙っていると男前で、笑うととても可愛い。モテない訳が無い。
その時私は、どう思うのだろう……彼女でも無いくせに、やはり嫉妬してしまうのだろうか。そういえば以前、松本君が彩子さんの話しをした時や、彩子さんを呼び止めていた時、少しだけ、本当に少しだけ、嫌な気持ちになった事を思い出す。もちろん私は彩子さんも松本君も、二人共大好きなのだが、彩子さんが松本君の元彼女だと知っているからか、どうしても嫌な気持ちになってしまった……なんて心が狭いのだろうと思うが、こればかりは感情の問題なので、自分ではどうしようもない。
……難しいな、男と女って。
でも今はそんな事は考えず、自分のテストと松本君のセンター試験、そして受験の事だけを考えよう。私はまず間違いなく単位を落とすなんて事にはならないだろうが、松本君は、合格率百パーセントとは言えない。勉強は覚えていたものを思い出しやすくするためのモノ、という事を知っている今なら、多分大丈夫だとは思うのだが、試験会場での緊張感や、予想外の問題だったりすると、危ない気もする。
リラックスさせる方法は、とにかく自信を付けさせる事。出来る出来ると思わせる事。高校時代に通っていた塾の先生がそう言っていた。
だから私は、また今日も褒めよう。私自身もリラックスして、イライラしないようにしよう。何かクチゴタエされても、大人な対応をしよう。
そんな風に頭の中を松本君でいっぱいにしていたら、いつの間にか降りるべき駅へと到着しており、私は「うわぁっ!」という声を上げて、鞄を持ち、席から腰を上げて、急いで電車の外へと飛び降りた。
小走りで改札を抜けると、そこにはやはり、松本君が立って待っていた。
クリスマスイブ以来、松本君は毎日、駅まで私を迎えに来てくれている。その姿を見る度に、私はとても嬉しい気持ちが心から溢れ出てくるのを感じていた。
「おはよう松本君っ! 今日もお迎えありがとうっ」
私は満面の笑みを作り、小走りで近づき、松本君の目の前でキュッと立ち止まった。
「あぁ……今日は、その格好なんだな」
私のコートの隙間から見えている服を見て、松本君は少し微笑んでくれた。
この格好は、松本君が似合っていると言ってくれた服で、一番のお気に入りである。凄く気に入っているので、同じものをあと何着か欲しいくらいだ。
「うんうん、ちょっと寒いんだけどね。それよりさ、私……急いでて、顔洗ってないし、歯も、磨いてない……口くっさいから、松本君の家の洗面所、借りてもいい? あっ! それと、駅前のコンビニで歯ブラシだけ買っていってもいい?」
本当は、兄が帰ってきており、その兄が嫌で、自分の家の洗面所が使えなかったのだが、心配をかける訳にも行かないし、どうして兄が嫌なのかも、話さなくてはいけない。まさか一発抜いてくれと言われた……なんて、口が裂けても言える訳が無い……。
「そうなのか……? 別に急いで来る事、無かったんだぞ。遅くなるって連絡くれれば、それで」
「だってっ! 松本君を待たせる訳には行かないでしょ? 今はちょっとでも時間が惜しいもん」
「……そうだけど、俺、かなりイイ線行ってると思うがなぁ。予備校でテスト受けたら、判定A貰えてると思うが」
そう。ここ最近の松本君は、神懸っている。入試当時の私ほどじゃないにしても、かなり出来るようになってきた。東京六大学を受けたら、間違って一校くらい受かってしまうのでは無いかと思わされる。少なくともMARCHは、十分に狙えるだろう。
元々覚えていた事を思い出しているだけなのだから、出来て当然と言えば当然なのだが、それでも凄い。私が通うようになるまでの、お粗末な勉強も、決して無駄では無かったという事だ。
「うん、まぁ、そうだけど……油断出来ないでしょ? 追い込みだよ追い込み。万が一にも落ちたくないなら、手を緩めない事っ」
私は松本君の顔の前に、人差し指を立てながらそう言った。
「あぁ、分かってる。俺も早く、勉強がしたい」
松本君は微笑みながらそう言い、私に背中を向けて歩き出した。
松本君は、決してレディーファーストなんて事をしないが、長い足を私の歩幅に合わせて、ゆっくりと前へ進めている。小さな気遣いだが、少しは私の事を思ってくれていると感じ、嬉しい気持ちになる。
私はそんな不器用な松本君の背中を追いかけ、隣に並び、一緒に歩いた。松本君は私の顔を見て、表情を崩し、私も松本君の顔を見て、ニコッと微笑んだ。
松本君の表情は、兄とは違い、柔らかで、嫌味の無い、本当に純粋な笑顔で、最近ではその中に、優しさを感じる事が出来る。私の前では、凄くいい表情を作るようになったと、思う。
好きだ……松本君。本当に、好き……。
「好き……」
私は松本君に聞こえないよう、凄く凄く小さな声で、そう言った。すると心が、ザワザワと騒ぎ出すのを感じる。
あぁ……なんか、凄く青春な感じ……凄く居心地が良い。
ずぅっとこのまま、二人で居たい。
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