第8話 扉を蹴る音が聞こえる
松本君の布団とじゃれ合って数分後、突然この家のドアノブがガチャガチャという、激しく回る音が聞こえてきた。私はその音を聞き、直ぐに我にかえる。
奴だ……と、瞬時に理解し、私は立ち上がり、玄関へと向かって歩き出す。
「おーい千香ぁー。居るんだろぉー」
扉の向こう側から、ドアノブをガチャガチャと回し、扉をドンドンと、何度も叩く。こんなにも部屋に響くものだったなんて……私も松本君に対して同じ事を面白半分でやっていた事を思い出し、申し訳ない気持ちになる。もう二度としないと、心に誓った。
しかし今はそんな事を考えている場合では無い。なんとかこの男を、この場から離れさせなければ。
「……何? うるさい」
「お? 千香ぁ、おめぇ何男んトコ行ってんだよ、色気づいてよぉ。おい開けろ」
ゴンゴンという音が扉から聞こえてくる。どうやら兄は扉を蹴っているらしい……。
付けてきて、イタズラをして、扉を蹴って……一体コイツは、何を考えているんだ。どうして私に付きまとうんだ。そんなに暇なのか。
「……やめて、蹴らないで」
「だったら開けろよ。さみぃんだよ」
「絶対嫌。早く帰って」
私がそう言うと兄は黙り、突然静かになる。
少しの沈黙が続き、私は帰ったのかなと思い、覗き穴へと目を近づけた。
すると向こう側から、こちらを覗き見ようとしている、兄の目が見える。
眉毛が無く、まつ毛も無く、ただただギラギラとした目が、ギョロギョロと動いていた。
「ひっ……」
私は思わず声を上げ、後ろへと後ずさった。
すると次に、郵便ポストがパカっと開き「おーいちーかちゃーん」と、兄が直接中へと声をかけてくる。
一応ポストの部分からは中が見えないよう、曲線の蓋がついているので、そこから覗かれる心配は無い……が、とてもとても、不気味で気持ちが悪い。
「ちかーちかー。おにいちゃんだぞーぅ。あけてーあけてー」
「う……うるさい……うるさい……」
「あ? うるさい? あ? あぁっ?」
兄は再びドアノブをガチャガチャと激しく回し「開けろおらぁっ!」と怒鳴り散らす。そして今度はドンッという、思い切り扉を蹴り飛ばす音が、聞こえてきた。
「うるせぇって何だおい! 誰に向かってそんな口利いてんだおいっ?」
私は頭をおさえ、髪の毛を掻きむしりながら、玄関を見つめ、後ろ向きに歩く。
ドンッ、ドンッと、扉を蹴る音が聞こえる。
「おめぇの彼氏にバラしてやるからな! おめぇがどーしよーもねぇクソビッチだって事をなっ!」
「ひっ……ひっ……び……ビッチじゃない……」
私は首を左右に振る。
ドンッ、ドンッと、扉を蹴る音が聞こえる。
「兄のナニを咥えて喜んでたってよぉっ! お前の体で俺の手が触れてない場所は無いってよぉっ!」
私はその場にしゃがみ込む。
ドンッ、ドンッと、扉を蹴る音が聞こえる。
「帰ってきたら覚えておけよ! おめぇの体メチャクチャに犯してやっからな!」
ああああ……ああああ……。
なんでだ……? なんで、そんな事を言うんだ……?
兄は確かに、メチャクチャな所があった。幼い私のオチチに性器を挟み、激しく腰を動かし、射精をした事もあった。中一の私の処女を本気で奪おうと夜這いをしてきて、私の叫びに気付いた父親に、木刀で思い切りぶん殴られていた事もあった。私がお風呂に入っている時、下着を盗み、それを誰だかに売っていた事も、知っていた。
しかし私と接する時は、優しかった。私が作った料理を「美味い」と言って、笑顔を向けてくれた。読み終わった漫画の本を私に貸してくれた。一緒にゲームをしてくれた。頭を撫でてくれた。兄との、そういった事が切っ掛けで、人と話してみようと、思えた。
それなのに、今、どうしてこんな事に、なってしまっているんだ……何があったと、言うのだ……。
私に対しては、優しかったじゃないか……それなのに、なんで……。
「いやぁ……いやぁ……いやぁ……」
「ふざけんなよっ! 俺の前では全然笑わねぇくせによっ! あの男の前ではあんなに笑いやがってよおおぉぉぉっ! くそがああぁぁあっ!」
ドンッ、ドンッと、扉を蹴る音が聞こえる。
ドンッ、ドンッと、扉を蹴る音が聞こえる。
ドンッ、ドンッと、扉を蹴る音が聞こえる。
ドンッ、ドンッと、扉を蹴る音が聞こえる。
ドンッ、ドンッと、扉を蹴る音が聞こえる。
私は腰が抜けてしまい、その場に尻もちを着く。
しかし私は、膝と掌でなんとか移動し、折りたたんであるコートへと手を伸ばし、ポケットの中に入っているスマホを手に取り、松本君へと電話をかける。
松本君……松本君……まつもとくん……まつもと……。
兄の旧姓も、松本だ。
……松本の、くせに……松本の、くせに……。
「もしもし? どうした?」
「松本君……怖い」
「はっ?」
「……兄が」
「千香? 大丈夫か? このドンッて音なんだ? 声震えてるぞ?」
松本君の声質が変わった。
とても低く、だけど鋭い声となった。
「兄が来てる……扉蹴ってる……開けろって騒いでる……一階だから、ベランダのガラス割られて入って来られたら、逃げ場無いよ……どうしよう……松本君……ごめんね、ごめんね……」
「直ぐ帰る! 警察呼べ!」
「警察、あてにならないよ……注意受けて終わりだよ……何もしてくれないよ……だって戸籍上、兄なんだもん……なんで、兄なんだろうね、あんな奴が……なんで兄なんだろうね……なんでっ……」
「いいから警察呼べっ! 注意でもなんでも、その場は助かるから!」
「住所わかんないぃっ……ここ何市? 何町? わかんないよぉっ……」
「……いいかよく聞け……大声で叫べ。どっちにしろこの音で通報されてると思うから、叫ぶんだ。怖がってた、被害に合っていたという事を、隣人にアピールするんだ。そうすれば、そう証言してくれる」
「でもっ……そんな事したら、兄が捕まるっ……犯罪者になるっ」
「今お前が受け」
「犯罪者にはしたくないよぉっ……あれでも兄なんだよ……こんな事してきても、兄なんだよぉっ。親だって迷惑するっ。それに奨学金が貰えなくなるよ……犯罪者の妹に貸すくらいなら普通の人に貸すって同級生に言われた事あるっ……だから奨学金のためにいっぱい勉強して、成績良くしたんだよっ……良い子です、勉強出来ますって……アピールのためなんだよぉ……」
「……なんだそれ嘘だろそれはっ! いいか千香っ! 台所に行ってフラ」
扉を蹴る音が止んだ。
「イパンを持って」
「音……止まった……」
「いいから、フライパン持ってろ」
「腰が抜けて、立てないの……」
そう言いながら私は、ベランダのほうをジィッと、見つめ続けた。
するとそこに、やはり、兄が、現れた。
少し高い塀の隙間から、兄の鋭い視線が、私の顔を、睨む。
恨んでいる、憎んでいる、目だった。
「ひぃっ……ひっ……」
「ち……千香ぁっ! もう着く! 息をしろっ!」
「ま……松本君、今来て……今、アパートの裏に、兄が居るから……今なら……前から入れる」
私がそう言うと同時に、部屋の鍵がガチャリという音を立てて回り、空気を押しのけるように扉が開く。
「千香ぁっ! 大丈夫かっ!」
松本君は鍵を閉め、チェーンロックも掛けて、靴のまま部屋に上がり込んできた。
松本君の表情は、目が見開かれており、口も開かれており、真っ赤になっている。
息が上がっているらしく、肩が激しく上下に動いていた。思い切り、走ってきてくれた事が分かる。
そして松本君は、ベランダへと視線を向けて、眉間に深い深い、シワを作った。
「……アイツが、兄か?」
松本君はそう言うと、私の返答を待たずに、ベランダへと向かって歩き出した。
兄は私から松本君へと視線を移し、思い切り睨みつけた後、スッと私と松本君の視界から、姿を消す。
「てめぇっ……待てっ!」
松本君はベランダの鍵を開け、引き戸を思い切り引く。バシンという音が鳴り、私の体は一瞬、ビクッと跳ねた。
松本君はベランダに出て、首をキョロキョロと動かして、兄の姿を確認しようとしている。
……あぁ……私は、私は、どうすれば、いいんだ……。
どうすれば……。
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