第17話 千香は可愛い

 茹で上がった蕎麦を、一度水につけてよく冷やし、再びお湯を沸かす。そしてその中にほんの少しだけ漬け、少しかき混ぜると、出来上がりだ。

 私はカツ丼同様、使い捨てのドンブリに蕎麦を盛りつけ、その中に温めた麺つゆを入れ、刻んだ長ネギ、天カス、そしてお惣菜のエビの天ぷらを乗せ、完成だ。

 お昼に私が食べなかったカツ丼は二つに分け、電子レンジに入れて温めている。出来上がってから時間が経ち、かなり味が劣化しているだろうが、悪くなる前に食べてしまわないといけない。

「瑛にぃお蕎麦出来たよー」

 私がそう言いながら瑛にぃのほうへと視線を向けると、瑛にぃは「あぁ」と言いながらちゃぶ台から参考書を下ろし、立ち上がってこちらへと歩いてきた。

「俺が運ぶ」

 瑛にぃの顔を見ていたら、自然と顔がニヤけてしまい、心がウキウキと元気になる。

 今まで瑛にぃが何かをするとイライラしていた理由が、なんとなく、分かってきた。今まではきっと、瑛にぃの厚意や気遣いを、認めたく無かったのだろう。喜んでいる自分が、嫌だったんだ……過去の自分に無かった感情に、戸惑っていた。

 今はもう、そんな事は無い。瑛にぃの厚意は、素直に受け取ろう……瑛にぃは今、運びたいんだ。運びたくて仕方がないんだ。断る事は、失礼だ。そう思う。

 こういう時は、感謝をすればいい。それが一番なんだ。

「えへっ。ありがとう瑛にぃ」

 私がニコッと笑うと、瑛にぃは「ふっ」と笑い、ドンブリを二つ手に持ってちゃぶ台へと向かった。

 なんだか、いいな、この感じ。

 幸せを感じる。私は今、今までの人生の中で一番、幸せだ。


 電子レンジがチンと鳴り、私は二つに分けたカツ丼を取り出して、ちゃぶ台へと向かった。

 カツ丼をちゃぶ台に置き、私は瑛にぃの隣に「よいしょ」と言いながら座る。

「凄いな、手料理だらけだ」

「あはっ。エビは買ってきたものだよ。天ぷら鍋無いし」

「いや、十分手料理だろ。千香は本当にすげぇな」

 瑛にぃは微笑みながら、私の頭を優しく撫でてくれる。

 兄は、こんな風には褒めてくれた事は無い。兄はただ食べ「うめぇ」と言っていただけだ。料理が作られる事も、ご飯が食べられる事も、特に感謝された事が無い。

 それは、優しさなんかじゃなく、ましてや気遣いなんかでも無かった事に、今更ながら気がついた。

 優しさ、気遣い、そして愛情は、瑛にぃから貰ったものだけが、本物だ。

「えへへへへへへ……‥えへへへへ」

「ははっ……可愛いな千香」

 かっ……可愛い……?

 可愛いって言った……?

「かっかかっ……可愛い?」

「あぁ、千香は可愛い」

 あ、やばい。頭が沸騰する感じがする。また鼻血が出てきそうだ。

「可愛くないよっ……! やっやめてよ変な冗談言うのっ!」

 私は両手で顔を覆い隠し、首をブンブンと振った。

 触っている顔が、凄く凄く熱い……この感じでは恐らく、真っ赤っ赤になっているだろうと思う……。

「いいから……可愛い顔、見せてくれ」

 瑛にぃはそう言い、私の手をソッと触り、スッと左右に下ろさせる。

 私は抵抗する事も出来ず、ただただ瑛にぃに、身を委ねた。

「やっぱり、可愛い……大きな目、小さな鼻、大きめの下唇……全部、可愛い」

 瑛にぃはそのまま、私の唇に、キスを、した。

 チュッと、短い短い、キス。

「はぁぁああぁぁ……はあぁぅっ……」

 体が……燃えるように熱い……。

 なんだろうこの感じ……なんだろう……体の中心がキュゥッと引き締められて、そこから熱さが体全体に広がっていくような……そんな感じ……。

 そこが痛いような……だけど心地良いような……。

 よく分からない。分からない。

「さぁ、飯食おう。伸びる前に食べよう」

「うぅ……うん……」

 私はキュゥキュゥ痛む体の中心と、ドキドキと高鳴る心臓の鼓動を感じながら、プルプルと震える手で、お箸を手に持った。

 痛いのは、子宮なのかな……生理は先週終わってるし、私は生理痛とか、味わった事が無いのに……。

 好きになって、ドキドキして、キスをされて……となったら、普段通りには行かないか。体に変調をきたしても、不思議では無いという事だろうか。


 瑛にぃは早速、蕎麦を一口、チュルッととすする。瑛にぃの一口は、きっと私の一口よりも少ない。兄のようにズゾゾゾといった感じでは無く、上品に見える。猫舌なのか、元々そういった食べ方なのか。

「うん……美味いな」

「あはっ。口に合って良かった。というか、既成品のつゆだからね。万人受けに作られてるよ」

「いや、千香が作ったから美味い」

 瑛にぃは優しく微笑み、私の目を見る。

 ああああ……なんでそんな事を言うのだろう……そんな事が言えるのだろう。

 そんな事言われた事無い。

「ななななっ! そっそそんな訳ないよっ! 誰が作ったって一緒だよっ!」

「……あんなに一生懸命作ってくれたって思うとな、すげぇ美味く感じる。言っておくが、嘘じゃないぞ? 本当に美味い」

「はっ……ひはあぁあっ!」

 私は床に倒れこみ、胸と子宮をガッと掴む。

 痛い痛い痛い……心臓と子宮が、とてつもなく痛い。

 我慢出来ないくらいに痛い……なんだこの感じ……もしかして、病気だろうか……?

「おいっ千香、大丈夫かっ?」

「ううぅっ……うん……でもちょっと、このままでいさせて……落ち着かせて欲しいよ……」

「あ……あぁ……救急車は? 病院行くか?」

「ううん……そういうんじゃない……大丈夫、本当に大丈夫だから」

 あぁ……こんなにドキドキするなんて……こんなに体が変な感じになるなんて……皆どうやって乗り切っているんだ……?

「そ……そうか……あまり我慢するなよ……腹、痛いのか……? 擦るか?」

 今、お腹なんて擦られたら、私は心臓を口から吐き、子宮が爆発し、脳味噌が溶けて、死んでしまう……。

「いいいいっ! 本当に大丈夫だからっ! そっとしておく事が大事な時もあるの! 女の子はデリケートなの!」

「そ……そうか……すまんな……」

「ううん、いいから、冷めないうちに食べて! ねっお願い!」

「わかった……まぁ、元気はあるっぽいからな……」

 瑛にぃはどうやら分かってくれたらしく、大人しく蕎麦を食べ進め始めた。

 私はその姿を横になりながら見つめ、心が温まるのを、感じた。

 これが、愛。愛して、愛されているという実感が、凄く湧く。

 まだ、出会って二週間。付き合って一時間ちょっと。

 それだけで、こんなに満たされるなんて信じられない……人生の中で、もっとも濃密な時間を感じている。

「瑛にぃ」

「ん? なんだ?」

「ほぼ受かると思うけど、大学、受かってね」

 私がそう言うと、瑛にぃは笑みを浮かべる。

「あぁ……余裕だと思う。センターでは千香以上の点数を取ってくる」

 私はその言葉に、少しムッとした。それと同時に、子宮の痛みも徐々に引いてくるのを感じる。

「じゃあ勝負ね! 私を超えるのは絶対に無理だから、七科目合計で、八百点以上取ったらご馳走作る! それ以下だったらご馳走してっ!」

 私がそう言うと、瑛にぃは眉毛をピクッと動かし、私の目をジッと見つめた。

 八百点は、実は相当難しい。東大に入りたがる人が取るような点数。そしてウチの大学なら、願書を出した次の週末に、大学側が菓子折りを持って、家に挨拶にやって来るレベルだ。田舎過ぎて優秀な院生や研究員、講師が居ないというのが理由だと思うが、大学による青田刈りのようなものが行われている。

 私の家にも当然のようにやってきて、物凄い量のお菓子を貰った記憶がある。入学して欲しい、等の直接的な言葉を使わなかったが、凄く丁寧に大学の事をアピールして行った。

「八百点で、まだ千香超えじゃないのか……?」

 ……そっちに食いついたか……ご馳走の話しをしたかったのだが……。

「私は七科目なら、八百五十八点だったよ。塾内一位だったもん。あっ! でも、これでも本気出せなかったくらいだよ! 瑛にぃみたいに七科目だけを勉強してたら、八百八十は取れてた筈!」

 瑛にぃは目を大きく見開いて、私を見つめた。本当に驚いている顔をしている。

 可愛い……。

「……なんで、東大とか、そっちに行かなかったんだ……? なんでこんな、偏差値六十前後の大学に……」

「え? 遠いから……かな。家から通えるかなーって範囲で一番偏差値が高い大学だったから」

 私は勉強関連の話しをしていたら、水を得た魚のように元気になってきて、すっかりと痛みが引いていたのが解り、体を起こして箸を持った。

「……やっぱ天才は、一味違うな。そもそもこんな会話を生きてる内にするなんて、夢にも思って無かった」

「えーでも、瑛にぃ東大受ける? 東大じゃなくても、六大のどこかとか、MARCHとか」

「いや……受けねぇけど……」

「ね? ほらー、受かる可能性があるけど、受けないんだよ。だから天才とか関係無いの。普通だよ普通」

 私の場合、お金に関する理由も有るにはあるが、別に後悔はしていない。

 このまま院生になり、研究員になり、助教授になり、講師になり、あわよくば教授になるような、そんな平坦な人生で構わない。

 瑛にぃと居られるなら、それが一番だと思う。

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