五〇〇〇ドルで死の旅へ 3
〈3〉
ホテルに備え付けられたローテーブルを隅に除けて、ボクらは床に車座になっていた。その真ん中には、喋るラジオが鎮座している。ボクが知る一方的に情報を送ってくるやつじゃなくて、内蔵マイクでボクらの会話に参加してくるものだ。
それが、エヴァンだった。
ロシナンテ曰く、エヴァンはあらゆる場所の監視カメラでもって〈タルト・タタン〉の勤勉さを監視しているだけで、直接姿を現すことはないらしい。
そんなラジオ――エヴァンと雑談を交わしながらデリバリーの中華を平らげ、〈タルト・タタン〉は夕食後の時間を思いおもいに過ごしている。
シシリはアサルトカービンの分解掃除に夢中だ。ロシナンテが化粧水をたっぷり含めたコットンで自分の頬を叩いていることを気にする様子もない。
リューイは、床に置いたガスランプでコーヒーを沸かしていた。文字通りインスタントコーヒーとミネラルウォーターを鍋にぶち込んで煮立たせている。
さらにシシリの隣では、火のない煙草を斜めに咥えたジギィがタクティカルベストの背面にツールナイフを突き刺している。避けた布地から防弾用の白いプレートが覗いている。そこに埋没したなにかを取り除きたいらしい。勿論、ピックアップトラックの運転席に陣取っていたジギィのものじゃない。彼の膝にすっぽりと納まるサイズから考えて、シシリのものだろう。
ボクは不器用さを発揮するジギィの大きな手から、鍋の中で身悶えるコーヒーの液面に視線を移す。
「ねえ」と対面に座るシシリに向けた囁き声は、ボクの鼓膜すら不安にさせるくらい掠れていた。聞こえなければそれでもいいやと思ったのに、シシリだけじゃなく彼女の世話をしていたロシナンテと、カップに注いだコーヒーの熱さに悪態をついていたリューイまでもがボクを見た。
ジギィだけが、相変わらず自分の手元に夢中だ。思わぬ注目に「えっと……」と言葉を探す。
「……シシリは、ボクを知ってるんだよね」
「トール・ロジィ」
シシリの即答がボクの名前だと気付くのに一拍かかった。その間に、彼女はその首に刻まれた傷痕に不似合いな滑らかさで言葉をつなげていく。
「十七歳、男性、日本人。母方の伯母とその旦那と同居。大学進学に失敗。大学に入るための勉強をする学校への進学が決まっていたが、入学金約五〇〇〇ドルを持って外出したきり音信不通になる。同日、インド行の航空チケットを購入し出国していることから、日本警察は計画的な失踪と判断」
『中国』ラジオが――エヴァンがシシリの後を引き継ぐようだ。『インド、パキスタン。君が廻った国はみんな把握してるよ。どうして貧民街ばかりをうろうろする気になったのかまでは、僕には調べられないけどね』
幼いころ、母さんと巡った村を片端から訪ねた結果だ。
「インドから」とシシリはアサルトカービンに突っこんでいた細い棒で宙をかき回した。「パキスタンに入ったところで君の消息は一旦跡絶え、次にわたしたちが君を把握したのは、テロリストの荷物として、だけどね」
「五〇〇〇ドルで死の旅へ、か」笑える、と大して面白くもなさそうにリューイは唇を歪めた。「パキスタンからシリアじゃ、ちっと距離があるぜ。誰の荷物だったんだ?」
「そんなの……ボクが知りたいよ。モヘンジョ・ダロを見た帰りのタクシーでそのまま砂漠まで連れてかれて、あとはよくわからない。気が付いたら国境警備隊の取調室にいて、あとはずっと麻袋を被せられてたんだ。その次は君たちが助けてくれたよ」
「『モヘンジョ・ダロ』ってのは現地の言葉で『死の丘』って意味だぜ」
「知ってるよ。誘拐犯兼タクシー運転手が教えてくれた」
笑える、と繰り返して、リューイは鼻を鳴らす。
「えっと、そうじゃなくて……」
『トールは』と顔も上げずにジギィが、いや、彼の膝元に置かれたポータブルラジオからエヴァンが助け船を出してくれた。
『君と初めて逢ったときのことを聞きたいんじゃないかな、シシリ』
「俺も」とリューイが挙手する。「聞きたい。二回目なんだろ」
「あたしはどっちかと言えば、学校の入学金が航空チケットに化けた理由のほうが知りたいわ」
不思議、と言いつつロシナンテの興味はシシリの肌にあるようだ。いつの間に塗り直したのか、銀から派手な朱へと色を変じた長い爪を閃かせながら、それでも彼女はシシリには傷一つ付けずクリームを塗りたくっている。二人の肌が織り成す黒白に見惚れつつ、ボクは「母さんに」と半ば無意識に答えていた。答えてしまってから、続きを見失う。
逢いたくなくて、とは言えなかった。逢いたくなくて母との思い出の地を辿っているだなんて、我ながらひどく矛盾している。その矛盾の原因を突き止めたいのか、本心では逢いたいと望んでいるのか、自分でもわからない。『生きている』なんて差出人不明のメールを信じているわけじゃない。生きていてほしい、と望んだことはこれまでに何度もあるけれど、それがどう頑張ったって叶わないということもいやというほど学んでいた。
こんなあやふやな感情を、会ったばかりの彼らに理解してもらえるはずもない。
『君のお母さん? 亡くなったってことになってるんじゃないのかい? 少なくとも、僕らの情報ではそうなってるよ?』
ボクは「なんとなく」と半ば呻くように誤魔化す。
「なんとなく、全部が嫌になることってあるだろ」
シシリに塗布していた美容クリームの蓋を締めてから、ロシナンテがボクを見た。ぞっとするくらいの無表情だ。
「全部って?」
「全部は……全部だよ。両親が死んで、伯母に疎まれて、なんとなく人間関係がうまくいかなくて……そういう、全部」
「あら、失恋?」
現金にも半音高まったロシナンテの問いに、ボクは唇を噛んで黙秘を決め込む。それなのに、リューイは訳知り顔で大きく頷いた。
「ああ、フラれたのか。まあ、そりゃ旅にでも出て死にたくもなるよな」
『その結果、君はたった九〇クウェートディナールで国境警備隊からテロリストに払い下げられたんだよ』
「挙句に君は」シシリは冗談とも本気ともつかぬ抑揚だ。「二度もわたしとかかわるハメになったんだ、ロクな人生じゃないよ」
「ジギィ命のお前にゃわからん機微だろうな。失恋は死に値するぜ」
「女がフった相手の生死を気に病むなんて本気で思ってるの?」ロシナンテは朱色の爪を弾いての冷笑だ。「男の幻想ってチープよね」
アサルトカービンを拳銃に持ち替えたシシリまでもが同意するかの如く目を細める。たぶん、ジギィがエレベータで男を撃ったものとお揃いの拳銃だ。拳銃から追い出されたマガジンに整列する銃弾の黄金色が眩しかった。
「男の夢を壊すなよ」げんなりと肩を下げたリューイは、話の本筋を思い出したらしい。「で? お前、一回目はなにやらかしてシシリに救出されたんだ」
ボクはまじまじとシシリの顔を観察する。やっぱり思い出せない。首を一周する大きな傷痕を忘れるなんて普通なら考えられないけれど、ボクには十七年と少しの人生の中で例外的な時期がある。両親が死んだとされる、十三歳の夏の数週間だ。たぶん、ボクらの邂逅はその短い期間に存在する。
「……覚えてないんだ」
「そんなことあるか?」
「極度のストレスを受けると一時的に記憶を失くしたりすることもあるのよ。トールはあなたと違って繊細ってことでしょう」
「なんだ」とシシリは手早く掃除を終えて組み直した拳銃をアサルトカービンに並べて、今度は腰の後ろから引き抜いたもう一回り小さな拳銃を握る。彼女の動きに合わせて首の傷跡が身を捩った。
「せっかくわたしの初仕事だったのに、助け損だったなんて」
「それは四年前の、七月か八月のこと?」
「雨季が近かったって聞いてるから、たぶん、そう」
「……アフリカ?」
「ウガンダ南部の、NPO団体がアジトにしてた医療施設だよ。なんだ、覚えてるじゃない」
「覚えてるわけじゃないんだ。本当に思い出せないんだよ。ボクはね、ボクには十三歳の夏休みの記憶がないんだ。夏休みの三日目にウガンダまで両親に会いに行った。ボクの親は二人ともずっと海外の貧しい国で医師として働いていたんだ。それで、夏休みの終りに日本に帰ってきた。その間の記憶がひどく曖昧なんだ。はっきりしてるのは日本で両親の葬儀に出た辺りからで……。だから、シシリ」
ボクは彼女を、その首に白く浮かび上がる傷痕を、睨む。
「あのときなにがあったのか、教えてほしいんだ。ボクをどこから、どうやって助けてくれたのか、教えてほしい」
シシリは曖昧に表情を歪めた。笑っているようにも困っているようにも見える顔だ。掌大の拳銃から引き抜かれたマガジンに宿っているたった一発の輝きが、ボクを窘めている気がする。
そのとき、視界の端を小さな白が横切った。反射的に引いた肩口にそれが当たって、青白いタイルが貼られた床に着地する。でも、正体がわからない。崩れた豆腐然としたクリーム色の破片だ。
「ああ」ジギィが短く息を吐いた。「悪い」
「大丈夫」と今度はシシリが声音を緩ませる。「ありがと」
シシリの指が無造作にそれを抓み上げた。
黄ばんだ白い塊を数秒眺めて、理解するより先に両手で口を覆った。胃が急速に絞られていく。
――歯、だった。人の、歯だ。
ジギィは何事もなかったように再びタクティカルベストにツールナイフを刺しこんでいる。シシリだって拾い上げた歯を平然と錆び弾の群れへと放り投げた。ロシナンテもリューイも、エヴァンが潜むラジオのスピーカすらボクの拒否反応の理由がわからないみたいだ。
ややして、シシリが「ああ」と頷いた。
「自爆犯か、巻き込まれた人か、とにかく近距離で爆発されると人体だって十分な凶器になるんだよ」
「お前の体に刺さらなくてよかったじゃないか」
「坊やには刺激的だったかしら。でもいきなり頭蓋骨とが出てこなくて」
よかったじゃない、と言いかけたロシナンテの前に、今度は黒っぽいなにが降った。黒く縮れた繊維片だと思ったのに、思いたかったのに、ボクの脊髄は優秀に正しい答えをはじき出す。
――髪の毛の塊だ。
「まあ、こんなこともあるわ」
ロシナンテがとりなすように笑っている。リューイだって微苦笑を絶やしていない。シシリが咎めるような視線をジギィに流してくれたけれど、ボクの存在を完全に消し去っている彼は相変わらず手元に集中しているフリを継続中だ。
ボクだけがみっともなく、浅くて速い呼吸を響かせている。どうして会話の間に歯や髪が飛び込んで、どうしてみんな平気な顔をしていて、どうしてあんなものがシシリの背に刺さって――刺さって?
そうだ、彼女の背に爆発の被害があって、どうしてボクは擦り傷程度しか負っていないんだろう。
痙攣気味の眼球で、シシリを窺う。ボクを促すように少し顔を傾けて、銃も歯の欠片も似合わない柔和な表情を保っている。その首に刻まれた傷痕だけが、まるでボクが迎えるはずだった最期を物語るように不穏だった。
彼女たちが来なければ、ボクは死んでいた。
その事実をようやく項に感じたとき。
不意に首をつかまれた。リューイだ。煮立ったコーヒーを満たしたアルミカップを握っていたせいか、彼の掌はひどく熱い。そのままシシリの隣まで引きずられる。
ジギィを押し退ける形になって、妙に焦った。エヴァンのラジオまで蹴倒してしまう。シシリの顔がすぐ傍にあった。
「なにっ……」
「ほら、ウィスキーって言えよ」
は? と問い返すときにはストロボが焚かれていた。いつの間にかリューイの手にはポラロイドカメラが握られている。ああ、日本でいう「はい、チーズ」代りか、と理解してから、さぞかし変な顔をしているであろう写真を予想して憂鬱になった。せめて事前に説明してほしい。
ウィィン、と無慈悲なポラロイドがフィルムを吐き出している。
「なんで写真?」
シシリにまだ黒一色のそれを渡しつつ、リューイは悪びれる様子もない。
「再会記念だ。証拠写真さえありゃ忘れたって思い出せるだろ。お互いに、な」
歯の一件は、なかったことにするつもりらしい。
肩を竦めたシシリは予備動作もなしに、ぼんやりと浮かび上がり始めていた像に容赦なく指先を押し付けた。彼女自身の顔を強く圧して、現像液を阻んでいる。
「なんで……」
呆然とするボクには見向きもせず、シシリは自由な方の手で膝の上の拳銃を撫でた。ジギィと揃いのものよりも小さい、実戦向きとは思えない型だ。それなのに、彼女は泰然とした所作でその銃を包む。
「ねえ、シシリ。どうして……」
「君の人生に必要ないから」
「ボクを、助けてくれたのに?」
「仕事だからだよ」
「四年前の夏も?」
「そう」
「じゃあどうして……」
その後に続けるべき言葉を見付けられない。
そんなボクに、ジギィがとどめを刺す。なにを言うわけでもない。ただ立ち上がる。それで十分だった。
小さな拳銃を腰のホルスターに戻したシシリが、改めてジギィと揃いの拳銃の弾数を確認する。手放されたポラロイドが、腹を晒すラジオと並んだ。
素早くアサルトカービンに箱型弾倉をセットしてジギィの後を追うシシリは、もう他の誰にも構う気がないと知れる速度で部屋を出て行く。
『気を悪くしないでほしいんだけどね』ラジオのスピーカが気遣わし気にエヴァンの声を吐き出す。『これが僕らのやり方であり、君の安全に配慮した最善の方法でもあるんだよ。僕らの仕事は君を、平和な日本に生きて還してあげることなんだから』
「平和……」
鸚鵡返しが嘲りの色を帯びたことを自覚した。ボクはポラロイド写真を拾う。間抜けな姿勢でシシリに抱きつくボクがいた。足りない光量のせいでいささか霞んでいる。それでもシシリの、黒く潰れた顔の下に刻まれた傷痕は判別できた。
「君たちを雇ったのも、ボクと同じ平和な国の人なの?」
『クライアントについては話せないよ』
「どうせボクを気にかけてくれるのは、良くも悪くも伯母さんしかいないんだ。四年前も今も、さ」
『ノーコメントだよ』
「……どうしてシシリは自分の顔を潰したの?」
『僕らが、君の人生に必要ない人種だからだよ』
びりびりと部屋が震えていた。空が航空機のエンジン音を増幅しているせいだ。それを追う風切音がする。誰かが対空武器を使ったんだろう。そんな世界じゃ、ボクから欠落した過去なんてとてもちっぽけなものに思えた。
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