五〇〇ドル分の欠品 3
〈10〉
クウェートとの国境に廻らされた長大な有刺鉄線の渦と土手がはっきりと視認できる辺りで、タンドラは国道を逸れて荒野を東へ進む。その前方に異様な物があった。
監獄だ。高い塀にぐるりと囲まれた広大な土地が忽然と姿を現す。
『ようこそ〈タルト・タタン〉のホームへ』
ロシナンテの爪が閃いた先で、シシリのタンドラが壁へと吸い込まれていった。
出入り口らしきものは東と西に一つずつで、中央部に格納庫らしき建物があるほかはコンテナが数個並んでいるだけだ。土嚢を積んだらしき障害物はたくさん設置されているけれど、ほとんどの範囲が砂地をむき出しにした空白地帯になっている。
ボロボロとローターを鳴かせて、ヘリが高度を落としていく。目線が壁に揃って、砂漠が遮られてなおヘリの脚は随分な高さに浮いている。
少し高過ぎやしないだろうか、と思ったのが顔に出ていたのか、ロシナンテが縦方向のヘアピン軌跡を描いてくれた。
『RPG対策よ。壁を越されても生活圏まで届かないように、十五メートル』
『十三だよ』とすかさずエヴァンの訂正だ。
『あら、そうだった? 大丈夫よ。滅多に降ってこないから』
壁の足元を侵略している黒焦げのクレーターの数を横目に、滅多に、という言葉の度合を考えてみる。壁には近寄らないでおこう、と決意するには十分すぎる惨状だ。
着弾跡のない辺りからコンテナのすぐ近くまでは塹壕が這いまわっていた。訓練用にしては複雑過ぎる造りだ。あんなに高い壁を備えてなお、敵の侵入に備えているらしい。
質量のある振動を連れてヘリが大地を捉えた。格納庫に見えた建物は、実際に着陸してみると単なるテントだった。それでも中にはサメみたいに鼻先の尖った二人乗ヘリが二機も居座っている。どちらの胴にも黒焦げタルトのステッカーが貼られていた。
プロペラが完全に停止するのを待って、ベルトとつないでいた転落防止のカラビナを外す。ロシナンテと連れ立ってコンテナ群へと向かう途中、土煙だか白煙だかを引いたタンドラが格納庫の裏手へと消えて行った。
コンテナは全て六メートル型で、四基の白に交じって紅一点の赤茶けたものがあった。
「今までに三回」と蠱惑的に唇を綻ばせたロシナンテが、その赤い箱を指す。「帰ってきたら武器庫が空っぽだったことがあったわ」
「……それ、マズいよね?」
「二ヵ月くらい前までの話よ。今じゃそんなバカはいないわ。三回ともきっちり取り戻したもの。盗んだ奴、売った奴、買った連中、その全員を見付けて」ロシナンテは金色に飾られた長い爪で自分の両手首を交互に切断するマネをした。「イスラム法に則って罰したもの。イラクで起こったことには国内法が適用される。当然でしょう」
「……そうだね」とロシナンテに形ばかりの同意を示しながら、ボクは無計画な泥棒たちにわずかばかりの同情を送る。どんな経緯でこの塀の中に目を付けたのかは知らないけれど、ボクならばどんなに困窮したってこんな集団とお近付きになりたくはない。少なくとも、エヴァンの『眼』とロシナンテの銃が存在しないところを狙う。
そんな強盗計画を夢想しかけたところで、ボクは「そういえば」と別の話題を振る。
「エヴァンは?」
ロシナンテが動きを止めた。油でも注してあげたくなるぎこちなさで振り返った顔には、表情がない。それなのに、彼女はやけにはっきりとした発音を刻んだ。
「今、誰を、呼んだのかしら」
「だから……エヴァン。まだ会ったことがないから、挨拶しておきたいんだけど」
ロシナンテはゆっくりと踵を引いた。たっぷりと時間をかけて、格納庫テントの向こうからシシリたちの話し声が聞こえてくるころになってようやく、ボクと正対する。
「エヴァンは、ここにはいないわ。でも」自らの影を指したロシナンテの爪が高い位置にある太陽へと昇っていく。「きっと、彼はどこにでもいるのよ」
それだけだった。ロシナンテは大きくなるシシリとリューイのじゃれあいから逃れるように、白いコンテナに入ってしまう。強過ぎる陽光がロシナンテを呑み込んだコンテナの輪郭を危うくしていた。
詮索するな、ということだろう。ひょっとしたらロシナンテ自身もエヴァンの居場所を知らないのかもしれない。
確かに機材さえあればエヴァンがこんな物騒な砂漠地帯にいる理由なんて一つもない。むしろ、あの情報精度を鑑みればもっと設備も資金も調った先進国に引き籠っていると考える方が妥当だ。空調の効いた部屋でディスプレイに照らされる不健康そうな、猫背で眼鏡をかけている男こそ銃を撃ちまくる連中のバックアップには相応しい。
格納庫の角からシシリとリューイが顔を出した。ボクと眼が合うとシシリは小首を傾げて、リューイはひどい仏頂面を幾分和らげて、手招きする。二人ともが砂だらけのタクティカルベストとM4カービン、それに大きな背嚢を担いでいた。
兵士らしい恰好を前に、ボクは空を仰いで『どこにでもいる』というエヴァンに笑って見せる。
シシリに案内されたシャワーブースで体中の砂を洗い流して、用意されたスウェットに着替える。袖も裾も長すぎるから、たぶんジギィのものだろう。あんなにボクの存在を無視していたのに存外親切らしい。正直、拍子抜けだ。
シャワー室から出た途端に髪が乾いていく。頭皮がひやっとして心地好い。
スニーカーをつっかけて数歩壁側に行っただけで、広大な土地を這いまわる塹壕が覗き込めた。深さはボクの肩口ほどだろうか。シシリたちの前にここを使っていた人たちが掘ったのかもしれない。だってたった五人――エヴァンが空調の整った部屋から出てきたり、ロシナンテがあの爪で土と戯れたりするなんて想像できないから、実質三人だろう――で作るには規模が過ぎる。
〈タルト・タタン〉がどんな戦闘を想定しているのか理解できなくて、ボクは素直に踵を返す。
シャワー室のプレハブがいくつか並んでいた。他にも剥き出しのスチールを隠しもしない流し台とかプロパンガスのタンクだとか、ところどころに穿たれた弾痕さえ気にしなければキャンプ場めいた様相だ。
世界にボク独りが取り残された気分になって、小走りに格納庫へ辿りつく。ジギィが操縦していたあのヘリともう二機が納められていたけれど、誰もいない。
警告色の武器庫以外のコンテナはどれも同じ様式らしく、側面の扉もエアコンの室外機も二機ずつあった。コンテナ一基につき二部屋が内包されているのだろう。
うちの一基だけがやけに騒がしかった。寂寞感から早く解放されたくて油断していたのかもしれない。ノックもそこそこに引いた扉からボクを迎えてくれたのは、物置じみた部屋だった。
L字形のソファーと勾玉型のローテーブルを配して、床にはテレビだのプレイステーション3だの雑誌だのが勝手気ままに積み重ねてある。壁ではダーツの的から重要書類らしき紙の束から地図から、分類もめちゃくちゃに入り乱れていた。
唯一まともに全貌が知れるのはコルクボードくらいだ。ポラロイド写真が色とりどりのピンで留められている。ロシナンテとリューイが肩を貸し合ってうたた寝していたり、ジギィとリューイと知らない男たちがカードゲームに興じていたり、下着姿のシシリとロシナンテがビールのラッパ飲みをしていたり、和気あいあいとしたものばかりだ。
そんな雑然とした部屋に〈タルト・タタン〉の全員が揃っていた。みんなシャワーを浴びたのか湿っぽい髪をしている。ソファーの短い辺にシシリとジギィが寄り添い、長い方には腕一本分の距離を保ってリューイとロシナンテが座っている。いつもの面子だけでエヴァンの姿なんて影も形もなかった。
シシリたちの向こうでは重厚なデスクがパソコンディスプレイを載せて鎮座している。パソコンデスクの脇で、電子レンジがオレンジ色の光を宿してギリギリと軋みながら働いていた。恐ろしいことに、パソコンと電源を共有しているらしい。容量いっぱいの物と人とが息苦しいまでの閉塞感を醸していた。唯一の救いとして、天井に近いところから明り取りが光の帯を伸ばしてくれている。
ボクを横目に認めたリューイは、すぐに「で?」と険しい顔をジギィに向ける。
「俺が納得できる説明はどうした、ジギィ」
「仕事の掛け持ちは」苦笑とも微笑ともつかない表情で、ジギィが肩を竦めた。「珍しくもないだろ。なにを神経質になってる」
「確かに珍しかないがな、これまでは事前に説明されてた。だから俺だって納得してついてきた。だが今回のはなんだ。俺はシスターとガキどもを、保護施設に届けるって聞いてたんだ。それがなんだってテロリストに引き渡すはめになってんだ。挙句、テロリストを殲滅もせず撤退だ?」
「あたしだって」髪先を指に巻きつけたロシナンテが鼻を鳴らす。「作戦の変更を聞いたのは今朝、ヘリで発ってからよ。テロリストを撃てなかったのも不満。でもあなたのようにゴネたりはしないわ。給料はきちんと払われるんだもの」
「金次第でクライアントを乗り換えるなら、傭兵でもやってりゃいいんだ」
ふふ、とシシリが失笑に似た吐息を漏らした。鋭いリューイの視線を受けて「ごめん」と詫びつつも、彼女は口元を緩めたままだ。
「だって、リューイが変なこと言うから」
「変、だ?」
「わたしたちは
派手な衝突音がシシリの言葉を奪った。リューイの靴底が、ローテーブルの縁を踏みつけている。
『あれは』とエヴァンの声が床に直置きされた大きなスピーカから漂ってきた。場の緊張感など完全に無視したのんびりとした抑揚だ。『僕の提案だったんだよ。トールは四年前の、ご両親が撃たれた当時の記憶を失ってるんだろ?』
「……ボク?」
『四年前、〈プラント〉に連れて来られていたのは〈緑の虎〉の子供たちだ。そこに紛れていたトールを日本に帰したのが、シシリの初仕事だった』
そうだ、とボクは生唾を飲み下す。シシリがボクの両親を撃って、ジギィがボクらをヘリに乗せた。その事実にばかり注目していたけれど考えてみれば、あのころすでにエヴァンがオペレータとしてかかわっていた可能性もあったんだ。
冷や汗をかきそうになって、それを悟られるのが怖くて息を殺す。
『だから、〈緑の虎〉が君たちの記憶を取り戻す一助になれば好いと思ったんだよ。明日か明後日にはトールを日本大使館員に引き渡すんだ、チャンスは今日しかないだろう』
「そのために、ガキどもをテロリストに返して、結局撃ち合いになったってか」
リューイが舌打ちをした。でも、苛立ちよりも諦めに近い鈍さだ。彼は拳でエヴァンのスピーカを小突くとバツが悪そうに座り直す。
仲間の気遣いにか、シシリは照れたように左耳を弄った。その白すぎる耳朶に、過去の幻影が見えた気がした。でも、その正体をつかむ前に「リューイ」とジギィの呼び掛けが割り込む。
「あのシスターに加担したい事情があったのか?」
「あるわけないだろ。俺はあんたの、ときどきやらかす気紛れに腹が立ってんだ」
「気紛れ?」
「あんたは、エヴァンとシシリに甘い」
自覚があるのか、ジギィは唇を斜めにして肩を竦めた。
「あんたはきっと、エヴァンとシシリのためなら何人だって殺せるんだ。それが子供だって、あんたは躊躇しない」
「褒められたもんだな」
「我らがボスは仲間にお優しい」
電子レンジに熱せられたチーズの匂いがコンテナを溺れさせようとしていた。冷凍のピザかラザニアだろう。昨日、中華料理のデリバリーを食したときにシシリが教えてくれたことを思い出す。中華とイタリアンはどこの国でもそんなに不味くはない、と。
電子レンジの扉から庫内を覗き込んだジギィを、リューイが「あんた」と不貞腐れた調子で呼んだ。
「〈緑の虎〉から消えた四人をどこに連れてったんだ? 朝、ヘリに乗せた四人だろ?」
「訊くなよ」
そんなこと、と微苦笑で誤魔化すジギィの代りに、ロシナンテが「クウェートシティの」とあっさりと白状する。
「病院よ。健康診断を受けてから里親との面接をするんですって。まだ兵士としての反射が身についていない子は優先的にピックアップするみたいね」
「里親ビジネス、か」リューイが唾棄した。
「少年兵も〈プラント〉も里親も」ソファーの上に膝を引き寄せて、シシリが囁く。「あの子たちにとってはどちらもあまり変わらないよ」
「お前、あの当時の記憶もないって言ってなかったか? 〈プラント〉の内情、知ってるのか?」
「施設からトールを連れ出したのは覚えてるよ。でもあれが〈プラント〉かどうかは知らないし、覚えてない」
「ボクが連れ出されたあの施設が」ボクも静かな語調を意識する。「〈プラント〉だとするなら、単なる病院だよ。ボクの両親が勤めてたんだ」
『〈プラント〉って名前が偽装である可能性もあるよ。
「〈緑の虎〉はあれでも」リューイは憮然と髪を掻きあげた。「銀行口座を凍結される程度にゃ有名な反政府組織だぞ。それと同列って、なにやってる病院だよ」
「いつも思うんだけど」ロシナンテは嘲笑の抑揚だ。「〈ジョン・ドゥ〉だの〈リチャード・ロウ〉だのって、ひどいネーミングよね」
『ウチが他所をどうこう言えた義理じゃないと思うよ』
「なぁに」と眉を寄せたのはロシナンテだ。「あたしのセンスが悪いみたいじゃない」
『統一感を出し過ぎて
「あたしだって、元が〈タルト・タタン〉なんて名前じゃなかったら別のシリーズを考えたわよ」
「〈タルト・タタン〉はロシナンテが付けた名前じゃないの?」
「違うわよ」心外そうにボクを睨んで、ロシナンテは手首を翻す。「〈タルト・タタン〉はジギィとエヴァンと……シシリも一緒だったのかしら?」
「名付け親はジギィとエヴァンだよ。二人とも同じ子守唄で育ったんだって」
『子守唄というよりも童謡だね。トールも知ってるんじゃないかな』
――真っ黒黒のタルト・タタン。
エヴァンが少しばかり外れた音調で、懐かしい旋律を響かせた。
――魔女が作ったリンゴのタルト。
あの施設で出逢った車椅子の少女が歌っていた童謡だ。
――途中で魔女は考える。メインディッシュのお姫さま。
ジギィが低く、たぶん正しい音階を同調させていく。それなのに、シシリは黙って聞いているだけだ。
――ハーブを詰めての丸焼きか、ことこと煮込んでシチューにするか。
だからボクは、記憶の底から浮かび上がる歌詞をそっと喉から送り出す。
――迷っている間に焼き過ぎて、できたタルトは真っ黒焦げ。
ジギィがちらりとボクを上目に睨んだけれど、すぐに甘い声音で結びを紡いだ。
――真っ黒黒のタルト・タタン。
「坊やも知ってるの?」
「うん。シシリだって知ってるよね」
きょとん、とシシリが目を瞬かせた。
「え?」ボクだってきょとんとする。「だって、君がボクに教えてくれたんだよね。あの施設で、君が歌ってた」
「……どの施設のこと?」
「だから、君がボクを連れ出した、〈プラント〉かもしれない病院だよ」
「そんな歌は知らないし」シシリは左の耳朶を抓みながら生返事だ。「覚えてないよ。ひょっとしたら知ってるのかもしれないけど、君と同じで、わたしにはジギィに逢うより少し前からしか記憶がないんだ。君を助けた辺りは曖昧な部分も多いし、はっきりしてるのはここ数年だけだよ」
「それは……」
全然同じじゃないよ、とボクは数秒愕然とする。ボクの場合は十三歳の夏休みのたった数週間だ。それだって十分にボクを不安に陥れるに足る欠如なのに、どうしてシシリはこんなに平然としているんだろう。
「怖く、ないの?」
「どうして?」シシリは幼い仕種で首を傾げる。
「だって、記憶がないんだよ?」
「なくったって別に支障はないし」
それはそうかもしれないけれど、でも、そういうことじゃない。
咄嗟に反応できず、ボクはジギィを見る。ジギィは、ボクの視線を感じているはずなのに、無視している。
ああ、だからか、とボクはシシリとロシナンテに挟まれたリューイの仏頂面を見る。だからリューイは、ジギィがシシリの恋人じゃないと言ったんだ。そして同時に死ぬ理由だとも言った。
シシリの存在は、ジギィによって補完されている。ジギィを失うことは、彼女の自己を証明してくれる相手が誰もいなくなるってことと同意なんだ。
結論に辿りつけば至極簡単なことだった。あの白い施設で出逢ったときのまま、シシリは空っぽの過去にジギィの理想を植えつけられた、囚われのお姫さまだったわけだ。
なんて自分勝手な王子さまだろう。
ボクは順番に、一人ずつの顔を眺めていく。ここには自分勝手な人ばかりが集っている。ボクを含めて、みんな自分の欲望を満たすために誰かを傷付けることを厭わない、少年兵から卒業できていないような連中ばかりだ。
でも、とボクは自分の、人殺しの右腕を握る。あのときのボクと同じように、誰にだって他人の命と引き換えにしてでも叶えたい願いがあるはずだ。自分か他人。その選択を誤らないことが戦場で生き残る唯一の方法だと、霞んだ記憶の底から十三歳のボクが教えてくれていた。
食事ができたことを報せてくれる電子レンジが、ボクらの上っ面だけの人間らしさを嘲笑うように間延びしたメロディーを垂れ流す。
軽い食事を摂って、みんながそれぞれのコンテナへ引き上げたあと、ボクは怠惰にL字ソファーの長い辺に寝そべって明滅するDVDデッキの時刻表示を眺めている。まだ午後十時だった。体は疲労困憊しているはずなのに、眠気が全く訪れてくれない。
天井からぶら下がる電球に照らされて、コルクボードの写真が赤茶けた色合いになっていた。随分と古いものに見えてくる。その中の一枚がシミに浸食されていた。あれ? と身を乗り出してみる。
今よりも幼い顔立ちをしたシシリと男が肩を組んでいる写真だ。屈託なく笑うシシリの隣で、男の顔が黒くなっていた。
横たわった姿勢のまま、床でくたばっているバックパックから手探りでポラロイド写真を引きずり出す。昨日ホテルでリューイに撮られた、ボクとシシリとのツーショットだ。
間抜け面のボクと並ぶシシリがそうであるように、コルクボードでシシリと寄り添う男の顔もまた、潰されていた。
彼が、シシリの人生に必要ない人間だからだ。
あのときのシシリの台詞が、こんな形でシシリに跳ね返っていたなんて。写真に閉じ込められたシシリの幸せそうな顔が哀しくなって、ボクは目を伏せる。
柔らかすぎるソファーが酔い心地を運んできた。心音が鼓膜の内側で増幅されて脳を揺らす。
「真っ黒黒のタルト・タタン」
急に掠れ声が聞こえた。いつの間にか、ボクは真っ白い壁の前に立っている。きゅるきゅると白いスニーカーで床を鳴かせながら白衣を着たスタッフたちが行き交う、病院の廊下だ。病室の引き戸と室内を覗ける大きな窓が交互に並んでいて、室内には検査着姿の子供たちがたくさんいた。
ボクはといえば、至って普通のジーンズとシャツを身に纏っている。
十三歳の夏、マナナやレナードたちと一緒に〈緑の虎〉から買い取られたボクが過ごしたあの施設だ。
二人はどこだろう、と見廻したとき、神経質なくらい磨かれた窓の前にいる車椅子の少女に気が付いた。てるてる坊主みたいな白い長袖ワンピースに指先から足元までをすっぽりと覆って、大人用の車いすに埋もれている。乾燥してひび割れた少女の唇が、「魔女が作ったリンゴのタルト」と拙い音階を刻んでいく。
驚かせないように、窓の映り込み越しに彼女に並んでから「やあ」とボクの人生で一番穏やかな顔を作った。
「また逢ったね。まだ魔女に食べられていないみたいでよかったよ、お姫さま」
億劫そうに鏡像のボクを見上げた少女は、不貞腐れた声音で「王子さま」と呟いた。首に巻かれた分厚い包帯のせいで発音が妨げられているのかもしれない。
くだらない冗談を覚えていてくれたことが嬉しくて、ボクは現実の彼女の傍らに跪く。彼女が小さく震えたことには気付かないフリで、ボクは長い袖の上からその手を握る。
「さっきの歌、教えてくれないかな? いろんな国を回ったけれど、初めて聞くよ」
「……ママが」
「歌ってくれたんだ」
「うん。でも、わたしはお姫さまなんかじゃないの」
「じゃあ、ボクも王子さまなんかじゃないってことだね。残念」
彼女は袖の内からボクの手を握り返してくれる。そして指先がそっと、なにかを恐れる速度で布地から這い出した。
黒焦げだった。爪の下まで真っ黒に変色した指が、ボクの手首を擽る。
「わたしは、魔女に食べられるタルトのほうなの」
どん、と腹の底から破裂音が突き抜けて、飛び起きた。その拍子にソファーから掌が滑ってローテーブルに顎をぶつける。
〈タルト・タタン〉のコンテナの中だ。大きく世界が揺らいでいる。天井の電球が首吊り自殺を図った直後みたいに暴れていた。DVDデッキは日付が変わる十分前を表示している。
地震? と床に両手を衝いたまま隠れる場所を探したけれど、電球以外は静かなものだ。と思った瞬間にまた、ごっ、と物凄い爆発音とともに壁の上方、明り取りが朱色に染まった。握っていたポラロイド写真をスウェットに突っこんで立ち上がったところで、扉が蹴破られた。体が反射的に硬直する。
リューイが、グレネードランチャーが装着されたM4カービンを腰だめに構えて入ってくるところだった。
「なにが」
「お姫さま連中が王子さまの奪還に来たんだよ、くそったれ」
なにが起きたの? と問うより先にリューイは「来いよ」とボクの首根っこをつかんでコンテナから引きずり出す。頬がかっと熱くなった。砂漠の風のせいじゃない。夜の空気は寒いくらいだ。それなのに、やけに明るい。
ホームを護る高い壁の足元だ。朱色の炸裂が熱風と爆音となってボクらを襲う。
「……なに」
「敵襲だ」
端的な報告に背を押されて、塹壕に転がり落ちた。辛うじて肘を張って衝突を往なしたけれど、体中がひどく痛い。口の中がじゃりじゃりした。
「装備して」
熱くなった耳朶にシシリの冷えた吐息がかかった。闇に潰れた視界じゃ彼女を確認できない。がむしゃらに伸ばした指が温かくて柔らかいものに触れた。でも、すぐに硬くて冷たいものをつかまされる。
AK-47――カラシニコバだ。見えなくたってわかる。体が覚えている。
閃光が彼女を浮かび上がらせた。暗視ゴーグルをヘルメットの額に上げたシシリが、完全武装で塹壕の縁にしがみついている。
「敵襲って、あの壁を越えてきたの?」
「まさか。正面ゲートを開けて入ってきたんだよ。でも、どうせなら正々堂々と道を進めばよかったんだ。ない頭で下手に部隊を展開させるからこうなる。愚かだよ、〈緑の虎〉」
「え?」
ボクは早回りするシシリの唇を見詰める。咽喉マイクを通してリューイたちに指示を出しているんだろう。それはいい。そんなことは、どうでもいい。
彼女は今、なにが敵だと言った?
ボクは首を伸ばして壁を窺う。あちこちで地面から炎が上がっていた。その一瞬前に、人影が黒く焼き付けられる。その一つずつがとても小さい。
子供だ。子供たちが、地雷を踏んでいる。
マナナの真っ直ぐな眼差しを思い出す。マナナが『私の子供』と言った、ボクらが彼女の元に還した子供たちが、死んで逝く。
どうして、と呻いたボクの声を吹き飛ばして、また一つ地雷が爆ぜた。
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