二ドルの狂気 1

〈11〉


 ふっと傍らにあったシシリの相貌が消えた。コンテナハウスから漏れていた光が夜に沈んだせいだ。電力を断たれたのか、とぎょっとしたけれど、爆発音を縫って聞こえてくるシシリの声はひどく落ち着いていた。この暗闇は彼女たちの戦略の一部らしい。

 コンテナハウスのぐるりに掘られた複雑な塹壕にボクを突き落したリューイは結局、そのままどこかに走り去っている。恐らく、長大な爆弾除けの壁の根元が見渡せる位置を取りに行ったのだろう。

 一ヵ所に固まって攻め込んできた〈緑の虎〉の少年兵たちを迎撃するには、〈タルト・タタン〉の戦闘員はあまりにも少ない。多勢に無勢もいいところだ。

 乾いた破裂音が頭上の、それも地表より高い位置で一度だけ轟いた。狙撃手たるロシナンテは、コンテナハウスの天井に陣取っているらしい。

 ぱぱ、と閃光が走った。一メートルほどの深さの塹壕から頭と銃だけを出したシシリの発砲だ。銃口から迸る炸薬が、ボクの網膜に彼女の姿を刻んでいく。

「トール」とその唇が動いた。続く言葉はわからない。あちこちから押し寄せる騒音のなかで拾えるほど彼女の声は強くない。

 数発ずつを断続的に放ったシシリは塹壕に引っ込むと、身を屈めてボクの耳元へと口を寄せた。耳朶が温かい吐息に包まれて、こんなときなのにドキリとする。

「トール、流れ弾を食らいたくなきゃ、頭は出さないでね。塹壕の壁を右手で辿って往けば格納庫に着く。そこにジギィがいるから、護ってもらって」

「ジギィはボクなんか護ってくれないよ」と反論したかったけれど、まるきり拗ねた子供のセリフだったから別の話題を怒鳴り返す。

「格納庫って、ヘリを飛ばすの? 狙われるだけだよ。今度こそ墜ちる」

「墜ちないよ」失笑に近い一言の後に、シシリは真顔になる。「ジギィのヘリなんだから」

 根拠のない断言に、頭痛がした。だってシシリなら本気で、ジギィだから、が理由になると思っていそうだ。それに、と瞬きの間だけ、ジギィが乗るエレベータに手榴弾を抛り込んだ男の末路を思う。きっと彼女は、これまでずっと彼の敵を排除し続けてきたんだろう。だから彼は、墜ちない。

 束の間、シシリは自分の咽喉マイクに手を添えて沈黙した。ロシナンテたちからの通信が入ったのかもしれない。〈緑の虎〉の子供たちが起爆させた地雷の怒声とでたらめな発砲音だけを数秒聞いてから、ようやくシシリの囁きが吹き込まれる。

「実はエヴァンと連絡がつかないんだよ。君、ジギィと一緒になんとかしてきてよ」

 方便だ、とボクは瞬時に判断する。塀の内まで〈緑の虎〉に攻め入られている現状を鑑みればエヴァンとの連絡が断たれているのは本当かもしれない。でも復旧にボクが役立つとは思えない。

 ボクは血肉の蒸れを孕んだ夜気が淀む塹壕の底で膝を抱える。シシリの指示に従ったほうが好いことはわかっている。彼女たちの足を引っ張りたくはないし、まだ壁の足元をうろうろしている敵との距離を考えれば今のうちに空に逃げるのは正しいのだろう。

 でも、決心がつかない。ここでシシリと離れてもいいんだろうか。ジギィと合流するってことは、そのままヘリで日本大使館に送られる可能性があるってことだ。それはたぶん、あのに反する。

 テロリストに払い下げられる直前に、拘留されていた国境警備隊の取調室にかかってきた電話の内容を思い出す。じっくりと、あの部屋でボクが受話器越しに指示された一言一句を過たないように、注意深く考える。

 不意に頭頂部を殴られた。あまりの衝撃に声も出ない。目の前に星が散る。さらにシシリに押し退けられて、塹壕の壁を肩で削りながら尻餅をつく。

 ちょうど頭上を火柱が薙いだ。バラバラと土塊ともコンテナの残骸ともつかないものが襲ってくる。その明かりで、ボクの頭にぶち当たったものが見えた。

 シシリの靴先に、拳大の球体が転がっている。

 ――手榴弾だ。

 腰が砕けた。逃げなきゃ。猶予は何秒だ、いや投げ込まれたんだからもう爆発する。

 直近で起るはずの爆発に備えて体が硬直した。背筋が引き攣れて痛む。でもすぐにもっと激しい痛みがボクを無に帰す。

 そう覚悟したのに、シシリはなんでもない顔でそれを蹴りやった。ひょい、とまるで石ころを捨てるような気軽さだ。それきり手榴弾の行方には興味もなさそうに銃撃を再開する。何事かを指示する唇だけが凄まじい速度で開閉していた。

 ぽ、と塹壕の片隅で小さな炸裂が起きた。穴だ。塹壕の壁と床の狭間に掘られた縦穴が手榴弾の威力を極小に抑え込んだんだ。

 手榴弾を投げ込める距離まで敵が来ている。その事実に心拍数が跳ね上がった。

 その隙をついて、塹壕になにかが降ってきた。ボクとシシリの間に黒い影が立ち塞がる。

 地面から生み出されたのかと思った。暗色のシャツとパンツ、足元に靴はなく夜と同じ色の裸足だ。黒いビニルテープでカモフラージュを施したカラシニコバを提げている。

〈緑の虎〉の少年兵士だ!

 そう悟るのと、少年が悲鳴を上げたのとでは、どちらが早かっただろう。

 やけにくぐもった銃声が轟いた。シシリと、たぶんロシナンテかリューイのどちらかが、同時に撃ったのだ。重なり合った銃声が聞き分けられるはずもなく、ボクはただへたり込む。

 ボクの腹には、冷めたカラシニコバが圧し掛かっている。目の前に降ってきた少年に銃口を向けることはおろか、触れることさえできなかった。

 塹壕の底に叩き伏せられた少年は、唇を噛み締めて痛みに耐えていた。悲鳴を上げることが屈辱だ、と告げる眼光だけが白く、闇に浮かんでいる。

 血の滲む少年の肩を膝で踏みつけ、さらには額にM4カービンを突き付けて、シシリは優しく「こんばんはハバリ ザ ウシク」とスワヒリ語で挨拶をした。アフリカ大陸の中央部を活動拠点とする〈緑の虎〉に配慮したのだろう。

 戸惑ったように少年の眼差しが緩んだ。撃たれた挙句押さえつけられ、いつ殺されてもおかしくないこんな状況で挨拶をされるなんて、滅多にある経験じゃないだろう。

「いい? よく聴いて」シシリは殊更ゆっくりと、真剣な面持ちで英語に切り替えた。「トールは渡さない。四人の行方だって、探してやるつもりはない。これ以上争う気なら、わたしたちは〈緑の虎〉を壊滅させる。ここに展開する兵だけじゃない。アフリカで、世界で、活動する全ての〈緑の虎〉を、殺す。戻って、君たちの隊長にそう伝えて」

 感情を削いだ警告が、それ故本気の度合いを語っていた。

 けれど、少年は「なに言ってる」と不審顔だ。

「俺たちは、マナナを取り戻しにきたんだ。マナナを返せ!」

 今度はシシリが顔をしかめる番だった。

「マナナ? 飾り物めいていた、あの女? どうしてわたしたちが、わたしたちの荷物でもない女を所有してると思うの?」

「しらばっくれるな!」

「しらばっくれる必要なんて、どこにもないよ。あの女は、あそこで殺し損ねてそれっきりだよ」

 独り言を吐き捨てて、シシリは躊躇なく引き金を引いた。額を撃ち抜かれた少年が声もなく仰け反る。なにが起ったのか理解する間もなかったのだろう。少年は呆然と虚空を見詰めたまま、息絶えていた。

「生かし損だよ」シシリは再び塹壕の縁に張り付く。話しかけている相手は、咽喉マイクの向こうにいるリューイやロシナンテだろう。「なんだか妙なことになってる」

 断続的に塹壕の外を牽制したシシリが、今さらボクの存在に気が付いたような顔でボクを見下ろす。

 飾り物のカラシニコバに潰されているボクは、さぞ情けなく映ったのだろう。シシリの掌がボクの髪を崩す。そのついでとばかりに、彼女は額に上げた暗視装置ごとヘルメットをボクに被せてくれた。

「ほら、早くジギィと合流しないと巻き込まれるよ。右手を壁に、姿勢は低く」

 いい? と膝を折ったシシリに顔を覗き込まれて、頷いた。咽喉マイクもイヤホンも装着していないボクには、それしか応えようがない。下手に話題を振って彼女たちの通信を混乱させたくはない。

「イイコ」

 きっちりとシューティンググローブを嵌めた手で二度ボクの頭を軽く叩いて、シシリは闇に融けていった。

 熱っぽい暗視装置を下ろす。双眼鏡じみた装置が重たくて少し首が前にのめった。蛍光緑の濃淡で描き出される世界は思ったよりクリアだ。世界を照らす爆炎の明度にあわせて視界の端が白っぽく染まっても、ボクの足元は潰れない。

 五メートルくらい前方にシシリがいた。危な気なく砲火を放っては塹壕に沈んでを繰り返している。土壁に背を預けてM4カービンの弾倉を交換していたシシリがボクを一瞥して、手を払った。早く往け、ということらしい。

 彼女の暗視装置を取り上げてしまったことが気掛かりだったけれど、ボクは無防備な皮膚に食い込む小石の痛みに促されて力の入らない膝を叱咤する。びしびしと耳元で地面が跳ねていた。どっちの弾かはわからない。塹壕を挟んで爆弾除けの壁際に展開する〈緑の虎〉と、敷地の中央に位置するコンテナハウスを護る〈タルト・タタン〉。人数には圧倒的な差があるはずなのに、流星然とした美しい火線は優劣なく空を行き交っていた。

 右手をしっかりと土の壁に添わせて、中腰のまま一歩ずつを踏み締めて走る。肩から提げたカラシニコバが太腿に当たって邪魔だった。

 懐かしいもどかしさだ。ジャングルの腐葉土を嗅いだ気分にすらなってくる。硝煙と血と夜の湿度が、ボクを容易く四年前に――〈緑の虎〉の兵士へと戻してくれる。レナードたちと敵を撃滅していたときのボクが、カラシニコバを低く構えて呪詛を繰り返す。

死をウゥア、死を、死を」

 でも、誰に? 今攻めてきているのはマナナやレナードの子供たちだ。昔の仲間の死を望むほどボクはイカレてやしない。ならボクが死を与える相手は、両親を撃ったシシリなのだろうか?

 細い通路はすぐに行止りになった。手を離さず、壁に導かれる通り数メートル戻って角を曲がる。今度はきついカーブになっていた。発砲音が近くなって、でも昂揚とも恐怖ともつかない猛りを覚えるぎりぎりのところで遠退いていく。

 永遠にゴールなんてないんじゃないかと思ったのに、終りは意外と近くにあった。

 暗緑色の世界にぼんやりと梯子が伸びている。方向感覚なんてとうになくなっていたけれど、ここだと確信してステップの一段目に足を掛ける。こ、とヘルメットが鳴いた。銃弾にしては弱すぎるから爆風で飛ばされた小石だろう。

 首を伸ばして地表を確認してみる。鼻先に巨大な布が張られていた。格納庫代りのテントだ。ボクは両手と両膝でにじってテントの入口を潜る。突如、目の前に真っ白い光源が現れた。怯んだ眼を宥めるために短い瞬きを繰り返しながら、ヘルメットの額に暗視装置を押し上げる。

 携帯用のランタンが格納庫の隅に灯っていた。一つきりのそれが、暗視装置には眩しく映ったらしい。裸眼では三機のヘリの輪郭が朧に見えるのみだ。

 四年前のジャングルでは存在しなかったハイテク機器が、ボクを夢から現実へと引き戻した。急に構えていたカラシニコバの所在が覚束なくなる。殺意の矛先が鈍った。

 瞼を閉ざすついでに深呼吸をして、四年前のボクを眠らせる。布一枚を隔てただけでどこか現実感が薄れた銃声に耳を澄ませながら、十秒を数える。闇に慣れた瞳が、今度ははっきりと格納庫の様子を捉えた。

 ジギィがボクを見ていた。たじろいだことを悟られないように顎を引く。ランタンを挟んで、ボクらは初めて二人きりで対峙する。

「ジギィ」と紡いだボクの声に、彼は顔を伏せた。さも手元の端末が重要事案だと装うことで、これまで通りボクを無視するつもりだろう。

 ボクはジギィの真横まで歩んで、夜に馴染まない彼の枯れ草色の髪を見下ろす。カラシニコバのベルトの下で汗ばんだ首を拭う途中、彼の項から覗く咽喉マイクのコードに目が引き付けられた。自分の喉にそれがないことを強く自覚する。

 今のボクは〈タルト・タタン〉の誰ともつながっていない。今なら、訊ける。

 がごん、と天蓋が左右に割れた。テント造りだから油断していたけれど、ちゃんとヘリコプタの格納庫として最低限の機能は備えているらしい。

 ジギィは億劫そうに立ち上がるとボクを素通りして、ヘリの両脇で揺らぐ赤いリボンを目印に次々と武装の安全ピンを引き抜いていく。昼間、襲撃者を退け〈緑の虎〉からトラック移動手段を奪った絶対的な火力が、使用可能になっていく。

「その武装で〈緑の虎〉を、今朝助けたばかりの子供たちを、殺すの?」

 安全ピンの束が投げ捨てられた。

「四年前の夏、君はシシリと一緒にボクをあの白い施設から連れ出した。あのときも君は、これと同じような武装ヘリで来てた。その気になればボクの両親なんて簡単に殺せる武器があったのに、君はシシリに、あんな小さな銃でボクの両親を撃たせた。どうして? どうして君は、ボクの両親を殺さなかったの?」

 ジギィがコックピットの扉を開けて乗り込んだ。ボクも副操縦席側のステップに足をかけて、体を半分だけ機内に入れる。

「ねえ、どうして! 君には答える義務がある」

 ギチギチと不吉な騒音が降ってきた。ジギィがプロペラブレードだか動翼だかのチェックをしているのだろう。たくさん並んだ小さな計器たちが仄かに発光している。

「シシリは、君に逢う前の記憶がないって言ってた。君が、シシリにボクの両親を撃つように命じたんだろ!」

 ジギィの大きな手がボクの胸を押した。たたらを踏んだ靴底がステップを見失って尻から落ちる、寸前で襟をつかまれた。腹の辺りになにかが当たった。細いコードが腕に絡んでボクの抵抗を封じてくる。

「お前に」ジギィの吐息が唸る。「シシリのなにがわかる」

「わからないよ!」

「お前の両親を撃ったのは、シシリじゃない」

「え……」

「だが、お前の母親はあのとき、死んでおくべきだったんだ」

 唐突な告白に、頭がついていかない。ボクの両親を撃ったのはシシリじゃない。でもボクの母はあのとき死んでおくべきだった。

「母さんは……生きてるの?」

 日本で受け取ったメールのたった一文を、本当のところボクは信じ切れていなかった。それでも日本を出たのはただ、あのメールを理由にすれば進路の決まっていない現状から、居場所のない伯母の家から、逃げられると思ったからだ。

 けれど、本当に母が生きているのなら、どうしてボクに連絡をしてくれなかったんだろう。

 虚無感に呆然としたボクを手放して、ジギィはヘリの扉を閉ざした。縋るものを失ったボクは背中から倒れ込む。

 遮断されたコックピットの中で、彼の唇が言葉を形作るのが見えた。

 ――シシリを、頼む。

 自分の眼が捉えた台詞が信じられなくて、尻餅の痛みすら忘れて瞬いた。ヒステリックなサイレンが鼓膜を裂く。違う、ローターの始動音だ。プロペラが億劫そうに大気を掻いた。一回転目は重たく、二回、三回と羽ばたき重ねるごとに勢いを増していく。

 跳ね起きて窓を叩く。機体に内包されたジギィの顔は見えない。ヘルメットバイザで潰れている。コンテナハウスに貼ってあったポラロイド写真みたいだ。

「ジギィ!」

 叫んだボクの声は、滑らかに低音へと移行したローター音に呑まれていく。縋りつくボクの首を刎ねたそうに、プロペラがひんひんと威嚇してくる。

 ふわりと魂を吸い上げられるような浮遊感が半秒して、物凄い圧迫感に膝を砕かれた。数歩後退って座り込む。ヘルメットと耳朶の隙間で増幅された風がボクから平衡感覚を奪っていく。

 背中が地面に触れた、と思ったときにはごろごろと体ごと転がっていた。吹き荒ぶ砂塵で眼を開けていられない。携帯ランタンが倒れて消える。硬い大地にしがみつく手がコードに拘束されて動かし辛い。

 コード? 今のボクにはスウェットに暗視装置つきのヘルメット、あとは飾り物のカラシニコバしかない。両手でそれをつかんでみる。掌大の四角い箱がスウェットの裾に巻き込まれていた。周波数を調節するつまみと分岐コードを持った、通信機だ。ジギィがボクの襟をつかんだとき、腹に押し付けたものだろう。

 耳たぶを挟み込むような特徴的な形のイヤホンを指先で探り当てて、耳に入れる。

『観測手なしの野戦で』途端にロシナンテの軽口だ。『的が小さいなんて最悪だわ』

『腕の見せ所じゃない』シシリの声が直接ボクへ浸透してくる。『君、端から観測手なんていなくても平気でしょ?』

『何時だと思ってるのよ。時間外もいいところだわ、夜更かしはお肌の大敵なのよ。だいたいエヴァンがサボってて、あたしが勤労してるなんて理不尽極まりないわ』

『ジギィが時間外手当を弾んでくれるさ。ほら、真面目に援護しないとスポンサーが墜ちるぞ』

 リューイが、細切れの息遣いでロシナンテの不平を宥めていた。機関銃の反動を殺しているのだろう。

「シシリ!」と呼びかけてから、自分がまだマイクを装着していないことに気付いた。慌ててコードを引っ張る。イヤホンが外れた。固結びになっているところを解しながら、ボクは天を仰ぐ。バカみたいに晴れた星空が広がっている。ヘリの気配はもうない。

〈緑の虎〉が夜空に紛れるヘリを墜とせる兵器を有しているとは思えない。RPGの狙いだって定まらないはずだ。

 対するジギィは一方的に殺戮を注げる。宇宙からだって〈タルト・タタン〉を監視できるエヴァンの『眼』が利いていないとしても、地上には狙撃手鷹の眼たるロシナンテがいる。発砲時の小さな火花だけで容易に敵の位置を把握できるはずだ。

 格納テントの裾を潜って、我武者羅に走る。コンテナの上から走る、リューイだかロシナンテだかの火線がボクの行く先を教えてくれる。そっちに集中していたら、急に足場がなくなった。わ、と悲鳴を上げると同時に胸を強かに打ち付けた。呼吸が止まる。うまく息が入らなくて涙が滲んだ。

 すっかり塹壕の存在を失念していた。ずれたヘルメットの額から、暗視装置が自己主張するように下がってくる。喘ぎながらなんとかヘルメットと暗視装置を直して、塹壕から這い出た。蛍光緑の世界に黒く沈んだ大地が蠢いていた。子供たちだ。数を頼りに地雷原を越えるつもりらしい。噴き上がる土塊が小さな影から手足を奪っていく。

 カラシニコバの肩ベルトまで巻き込んだイヤホンコードは諦めて、マイクだけを喉に巻きつける。

「シシリ、待って! 撃たないで。話し合いをさせて。〈緑の虎〉はボクの仲間だったんだ、お願い、少しだけ時間をちょうだい!」

 イヤホンが怒声を発した気がしたけれど無視する。どうせ聞こえやしない。ボクの眼前を薙ぐ銃撃だって、どちら側からも緩まない。

 塹壕を飛び越しながら、両者の中間点を目指す。靴先が跳ねる。誰かの銃弾だ。髪先まで神経が通るような怖気は一瞬だけで、鼓膜を裂く風音になぜか腹の底から温もりが湧いてきた。防弾着を着て来るべきだったかな、と今さら冷静に後悔する。でも取りに戻るつもりはない。だってもうジギィは飛んでしまっている。いつあの容赦のない火力が生身の〈緑の虎〉を蹂躙したっておかしくない。

 でもボクは〈タルト・タタン〉の荷物だ。ならジギィにとっても、彼の仕事を成功させたいはずのシシリにとっても、ボクはまだ傷つけたくない荷物のはずだ。

 そんな楽観的な期待だけを頼りに銃撃戦のただ中に飛び込む。壁際からの射撃が鈍った。好機とばかりに〈タルト・タタン〉からの応射は激しくなる。

 それでもボクは足を止めず塀とコンテナとの中間地点、塹壕が終るところまで走る。

 壁を背に、地雷原を低姿勢で駆けてくる人影が見えた。白い肌と金の髪が、暗視装置越しに淡く発光するようだ。タクティカルベストの高襟にスカーフがわだかまっていて、右耳にはぞんざいにガーゼが張り付けられている。しっかりと保持されたボクとお揃いのカラシニコバが、ボクとは違って敵を求めている。

「レナード」

 安堵の吐息で呼んだ。途端に彼女が歯を剥いた。銃声に負けない怒声が届く。

「マナナは!」

「いないんだよ!」と答えるところを、後ろから肘を引かれてつんのめる。

 シシリが、ボクにヘルメットを与えたままの無防備さで立っていた。塹壕から飛び出してきたところなのか、走るレナードを牽制するM4カービンが動揺している。

「ジギィ!」敵を前にボクをつなぎ留めながら、なぜか彼女は地上にいない男を呼んだ。「応答して。トールを確保した。〈緑の虎〉の部隊長も、今なら殺せる。ジギィ、応えて。指示をちょうだい」

 お願い、と泣き出しそうなシシリの囁きに、レナードの咆哮が被さる。

「〈ヘレントルテ〉! いや、〈タルト・タタン〉、マナナはどこだ! 彼女を返せ!」

「だから、ここには来てないんだ。マナナが」

 どうかしたの? と問い返すボクの眼前で急停止したレナードが、カラシニコバを突きつけてくる。

 さっきまでの揺らぎを一蹴し、シシリの銃口が定まった。真っ直ぐにレナードを狙っている。それなのに、シシリの纏う殺気は気怠るく澱んでいた。

「しらばっくれるな! マナナの信号はここから出てる!」

 訝るようにシシリが顎を上げる。無言の促しに、レナードもまた昂然と同じ所作だ。

「アンタたちがマナナを連れ去ったことはわかってる」

 は、とシシリが失笑した。心底くだらない、と吐き捨てる息遣いに、レナードの銃口が吼えた。刹那の閃光に、けれどシシリは微動だにしなかった。

「大丈夫」と呟いたのは、恐らく咽喉マイク越しの仲間に対してだろう。シシリは左手でボクを、右でM4カービンを保持したまま嫣然と微笑んだ。

 レナードが居心地悪そうに身じろぐ。

「どうしてあんなモノを、一銭にもならないのに、わたしたちが連れて来なきゃならないの。あの女がここに来たというなら、トール欲しさに自分で」

 本能的にシシリの前に体を入れた。ボクの眉間にレナードの銃口がある。先ほどの発砲の余韻が額を熱した。

 自分の行動が信じられなくて眩暈がした。眼球が痙攣しているのか、極度の緊張で脳が麻痺しているのか、憤怒に染まったレナードがやけに揺らいでいる。

「マナナがアタシから離れるはずないだろ!」

 ボクの額にレナードの銃口が接した。その熱さに身を引くと、今度は背中にシシリの凶器が当たる。生きた心地がしない。だって二人ともが、いざとなればボクごと相手を撃ち抜く気でいる。本気の害意がびりびりと皮膚を刺激してくる。

「マナナ!」レナードは虚空に声を張る。「帰ろう、トールが要るなら、アタシが取り返して連れて行ってやるから!」

 はっ、とシシリが短く息を漏らした。

「連れて行ってやる? わたしたちから荷物を奪う気? バカにされたものだね」

「その男は、マナナのものだ」

「過去形だよ。現実を見るといい。今、トールはわたしたちが保護し、彼の国へと戻そうとしている。君たちは四年前と同様、ただの襲撃者に過ぎない」

「マナナのために人を殺した男は、アタシたちの仲間だ」

 肘の内側が痺れた。骨の芯が、ボクが初めて人を刺したときの衝撃を勝手に再生する。不快感と恐怖と、わずかな恍惚を自覚した。

 そんなボクの内心などにはお構いなしのシシリが、なぜか銃口を下げた。

「君の理論でいけば、あの子供たちを命懸けで運んだ〈タルト・タタンわたしたち〉も君たちの仲間ということになるね、〈緑の虎〉。君たちは、絶対に見捨てないと豪語するのホームに攻め込んでいる」

 レナードが短く大気を吸い込み、けれどシシリの「いいよ」という台詞に虚を衝かれたように解ける。

「生憎、君の殺害はまだ、許可されていないんだ。平和的に一時停戦としよう。あの女がここにいると言うのなら探せばいい。ただし人員は三名、三名の内に君は含まない。非武装の子供に限る。門から真っ直ぐに車一台分、堂々と進めば地雷は回避できる。ここから先、いもしない幻を探し回ってウチのトラップに掛かって死傷したとしても、そっちの責任だ」

「いるさ。マナナの信号はここから出てる」

「信号、ねぇ。その怪しい信号を止めてもらおうか。ウチの計器に干渉されても困るからね」

「あれはどんな操作も受け付けない。マナナの居場所を発信し続ける」

「君から離れるはずのない相手に発信機を仕込む矛盾に気が付かないの? 〈緑の虎〉。そんな頭で恥ずかしげもなく部隊を率いるから哀れな兵が無駄死にするんだ」

 急に体を引かれた。踏み止まれずに尻餅をつく。指先が塹壕の縁にかかった。無防備なところに力を加えられたせいで首筋が強張る。でもそれ以上に、髪を掠めた轟音が、痛い。

「無駄死になんかじゃない! 彼らはマナナを! 仲間を取り戻すために戦った!」

 レナードのカラシニコバから細く白煙が上がっていた。シシリの皮肉に、狙いも定めず感情のまま銃弾を放ったんだ。

「レナード」ボクは冷や汗を拭いながら平静を装う。「落ち着こう。まずは子供たちを地雷原から出して。マナナは本当にいないんだ」

 シシリは無表情にレナードの激昂を見据えている。イヤホンから送られてくるロシナンテやリューイの意見に耳を傾けているのかもしれない。

 そうこうしている内に、レナードの背後に三人の子供が湧いた。黒い肌が闇に溶けているせいで、夜から生れたように思える。一様に暗色のシャツと、同じ彩度のカモフラージュを施したカラシニコバを提げていた。

 そんな暗殺者めいた子供たちに、シシリは礼儀正しく「こんばんはハバリ ザ ウシク」とスワヒリ語で挨拶をする。

 子供たちは戸惑ったように互いに顔を見合わせてから、それでも「こんばんはサーナ」と不明瞭に返した。

 そんな子供たちを叱咤したレナードが短く、でも的確に指示を出す。怖じ気る様子もなくカラシニコバだのナイフだのを地面に置いた子供たちは、次いでシシリからゆっくりとした英語で発せられる死なないための説明を、真剣な面持ちで聞いている。

 レナードの銃口は相変わらず不安定にボクとシシリの間を彷徨っていた。爆弾除けの壁際やコンテナの付近では炎が燻ったままだ。

 せめて〈タルト・タタン〉との通信を、と絡まっていたコードを解いてイヤホンを装着する。

『わからないわ』ロシナンテの呆れ口調が飛び込んできた。『あたしたちがあの子たちを運んだときは、四人足りなくたってちゃんと諦めてくれたじゃない。それを今は、たった一人を取り戻すために二ドルの地雷で次々に吹き飛ばしてるなんて。狂気の沙汰よ』

『誰を犠牲にしたって、そいつさえ生きててくれりゃいいってこともあるだろ』

『あら、リューイにはいるの? そういう相手が』

『そういうお前こそ、いないのか? 寂しい奴だな』

 非武装とはいえ、さっきまで殺し合っていた相手が自分たちのホームに踏み込んでくるというのに、〈タルト・タタン〉は不気味なくらい陽気だった。

 ボクは星空の中にジギィが乗るヘリの気配を探す。たぶん無意味だ。子供たち相手にシシリが自慢していた『射程八キロメートル』というのを信じれば、見付けられるはずがない。

 でも、とボクは丸腰の子供たちを送り出したシシリの横顔を窺う。ジギィはシシリになにも告げずに発ったのだろうか。

 ――シシリを、頼む。

 格納テントで、ジギィにそう言われた気がした。見間違いかもしれない。そうであってほしいとも願う。

 だってジギィは、シシリがボクの両親に、少なからず好くない感情を抱いていたと言った。ボクの両親は殺されてしかるべきだったと。そんな彼女を、ボクに頼んでどうしようっていうんだ。シシリに、ボクの両親への償いをさせる気だとは到底思えない。そもそも、彼らはボクの両親を撃ったことに罪悪感なんて抱いていないはずだ。ボクの両親もあの施設で撃たれたマナナやレナードも、きっとジギィやシシリにとってはこれまで撃滅してきた敵と同列だろう。

 彼らはプロフェッショナルで、それ故に死者に対して冷徹なくらい平等だ。

 ジギィが見捨てた格納テントに向かって、小さな影が身軽に塹壕を飛び越えていく。

 四年前シシリに連れ出されなければ、両親が迎えてくれたあの白い施設にレナードやマナナたちと一緒に残っていれば、ここでシシリと銃を向け合っていたのはボクだったのかもしれない。

 そんなありもしない未来を妄想して、ボクはカラシニコバの銃身を撫でる。パカ、と呼びかけても、ボクの銃は役立たずのフリで壁の内に満ちる死臭を傍観していた。

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