二ドルの狂気 2
〈12〉
ボクとシシリ、そしてレナードの三人きりが遮蔽物もない戦場のど真ん中に突っ立っている。爆弾除けの壁際からは少年兵たちの殺意が漂ってくるし、背後のコンテナ群にはロシナンテとリューイが潜んでいるのを知っている。暗視装置越しに壁一帯を窺えば、地と同化した子供たちの蠢きが見えた。〈タルト・タタン〉からの攻撃を往なすために伏せているというよりは立ち上がれないようだ。先のない腕を天に突きだして助けを求め、芋虫のような匍匐をして呻いている。
対して、右耳に装着したイヤホンからはロシナンテとリューイの緊張感の欠片もない雑談が入ってくる。〈緑の虎〉など簡単に殲滅できるという自信と余裕の表れだろう。
壁からもコンテナからも平等に一〇〇メートル程離れた遮蔽物のない荒野に取り残されたボクらはただ黙って、レナードが派遣した子供たちが〈タルト・タタン〉の無実を証明してくれるのを待っていた。
昼間、ロシナンテの銃弾が掠めたレナードの右耳は、斑に暗色が滲むガーゼで潰れている。けれど、とても「大丈夫?」なんて問える雰囲気じゃなかったから、ボクは唇の内側を噛んでしじまに同化するしかない。
気まずい沈黙が数十分も続いただろうか。本当は十数分だったのかもしれないけれど、ボクには永遠にも等しく思えた。
闇夜と親和性の高い子供たちが塹壕を飛び越えながらコンテナ群から戻って来る。
それに気付いたのは暗視装置を着けているボクよりも、レナードの方が先だった。成果を問い質す早口のスワヒリ語の中で、ボクは辛うじて『マナナ』という名前だけを聞き取る。
いるわけがない。子供たちもそう報告したのだろう。レナードの顔が迷子みたいに歪んで、すぐに憤りを帯びる。白い頬を上気させたレナードがシシリを睨めつけた。そのとき。
壁の外から光の矢が突き刺さる。空の彼方から飛来した、ミサイルだ。蛇の威嚇じみた大気の擦過音を轟かせたミサイルが、立て続けに〈タルト・タタン〉のホームへ、コンテナ群のすぐ脇にある格納テントへと吸い込まれていく。細かい火花が美しく広がるのが見えた。轟く地鳴りに思わず膝を緩めながら、激しい爆発に明滅する暗視装置を額へ押しやる。
ああそうか、とボクはようやく全て、ボクが結んだ契約の相手を、悟る。
視界の端、随分と遠い空に一点の朱色が咲いた。ミサイルじゃない。星よりも大きいくらいの炎の塊が浮いている。
シシリの足が大地を薙ぎ払った。投げ出されていた三挺のカラシニコバが塹壕に蹴り落とされる。ほとんど同時に一人の子供がシシリの前に立ち塞がって、突き飛ばされるようにレナードの胸へと倒れ込んだ。
発砲音が迸る。
シシリが、片膝を突いた低い姿勢で乱射していた。三人の子供たちを躊躇なく貫き、さらに射撃軸をレナードへと移す。
子供の体を盾にしたレナードが、後退もできずに身を縮こまらせていた。すでに事切れた子供たちの執念が肉塊となってレナードを庇っている。
右耳のイヤホンからロシナンテの歓声が飛び込んできた。制止の叫びなのかもしれない、と思い至る前に、ボクはシシリに体当たりをしていた。
丁度塹壕の口が開いていた。シシリの放つ弾筋がボクの腕の際を掠めて夜空へ吸い込まれていく。
一メートルほどの落下に悶える間もなく、頬を蹴りつけられた。幸運にも、ずれていたヘルメットが防いでくれる。
素早く立ち上がったシシリが塹壕の縁から撃ちまくっていた。テロリストたちを相手にしていた折の冷静さなんかない。引き金が壊れたみたいなフルオートだ。
「シシリ!」彼女のタクティカルベストの裾を引っ張って、それを支えにボクも立ち上がる。「シシリ! なにしてるの! 落ち着いて」
「殺してやる!」
「誰を! なんで!」
全身を使ってなんとかシシリの射撃姿勢を崩す。ようやく引き金を戻してくれた、と思ったけれど単純に弾切れだったらしい。シシリは素早くタクティカルベストから引き抜いた予備弾倉をM4カービンに送っている。
「ちょっと! ちょっと待って! 冷静になろう、シシリ。落ち着いて」
「落ち着いてる!」
ひっくり返った絶叫だった。その残響に、シシリ自身が驚いたようだ。見開いた眼を瞬かせて、ぎこちない動きで空を仰ぐ。
炎は、まだ飛んでいた。ふらふらと危ういバランスで下降している。まだ墜ちてはいないけれど、時間の問題だろう。
「ジギィ」と祈りにも似た呻きで、シシリがそれを呼ぶ。
火球と化していたのは、彼のヘリだったらしい。〈タルト・タタン〉を援護するには遠過ぎる位置ではあるけれどシシリがジギィを、彼に付属するものを見誤るはずがない。
束の間の停戦はもう破られている。絶え間なく飛び交う銃弾が風を切っていた。
『シシリ』ロシナンテの、低い囁きだ。『後退しなさい』
「いやだ」
『するのよ。一度退いて、トールを連れてジギィを迎えに行ってちょうだい。ここはあたしとリューイが片付けるわ』
「君の実力を信じていないわけじゃない。でも」
『行けよ』とリューイも加勢する。『たかがテロリストだ。すぐに片付く』
『大丈夫よ』ロシナンテが、ようやくいつもの明るい声を寄越す。『あたしには、幸運の天使がついてるの。ジギィが癇癪を起す前に迎えに行ってちょうだい』
『俺たちが追い着くまでに、ジギィに戦闘報酬を約束させとけ。こんだけ撃たれてタダ働きなんて冗談じゃない』
シシリは唇を噛んでM4カービンを背中に回すと、ボクの手を握った。四年前、あの白い施設からボクを連れ出したときと同じだ。
複雑に入り組んだ塹壕の中を、シシリは暗視装置もなしに危なげなく抜けて往く。
どこをどう走っているのかなんてわからない。方向も把握できない。空にジギィのヘリを探すけれど、それだって見当たらない。縦横に走る閃光すら、どちらのものか判別できなかった。
でもシシリは迷わない。きっとこの先にジギィがいるからだ。そう思うと、急に足を止めたくなった。でもそれじゃ、ボクがこんなところまで来た意味がない。ボクは四年前の夏と同じようにシシリと手をつないで走る。
塹壕の終りは木板のスロープだった。シシリは周囲を警戒することもなく地上へ踏み出す。彼女に引き摺られて顔を出すと、ズタボロになった格納テントに燻る炎が眩しかった。優秀な暗視装置がコンテナ群を直撃する流れ弾の花火も見せてくれる。少し離れたところに鉄屑同然のタンドラとフロントガラスがヒビで曇ったオペル、さらに新品同然のピックアップトラックが二台も停まっていた。
シシリがその一台に駆け寄る。
夜に浮かび上がる白一色のシボレー・アバランチだ。荷台の後部には、やっぱり黒いリンゴタルトとそれを切り分ける物騒なナイフが描かれているけれど、機関銃は載っていない。
ボクも急いで助手席に上る。予想より車高が高くて躓きながらの乗車になった。
扉を閉める間もなくエンジンが始動した。暖機不足の異音を無視したシシリが、乱暴にアクセルを踏み込んだんだ。砂を噛んだらしいタイヤがやや横滑りしてから、猛烈な勢いで加速する。首を後ろに持っていかれるようなショックを感じた。
『シシリ、安全運転でね』
ロシナンテの忠告に、強烈な白が視界を染める。シシリのパッシングだ。
暗視装置をヘルメットの額へ追いやると、待ちかねたように前照灯が世界を両断した。現実味のない平坦な地面がボクらの前に伸びる。
コンテナを回り込んだ途端に、そこに黒々と蛇が這っていた。塹壕だ。その間を走る一本道を、シシリの駆るアバランチは猛然と直進する。
びびっ、と車体が怯えた。扉が小刻みに叩かれる。〈緑の虎〉からの銃撃だ。防弾仕様の窓だの装甲板だのにめげず、逃がすまいと次々と撃ち込まれる。
シシリの手がボクの頭を押さえ付けた。膝の間に顔を挟んでダッシュボードに腕を突っ張る対ショック姿勢をとらされる。
柔らかい布が頬にあたって、ボクはようやく自分がひどく場違いな恰好をしていることを思い出した。スウェットにヘルメットとカラシニコバだなんて、殺し合いの仲裁を企てるには甘すぎる装備だ。
どっと大きく車体が跳ねた。シートベルトのない体からカラシニコバが逃げそうになってひやりとする。銃口がシシリに向いていないことを確認したら、ちょうど窓の外を防弾壁が横切るところだった。
シートに膝立ちになって、リアウィンドから壁の周囲を確認する。暗視装置を下げて目を凝らしても、ミニバンが三台付けてあるだけだった。どれもシシリを追うには馬力不足だろう。
「トール、リアシートに移って。シートベルトを締めたら、荷物のフリをしてて」
シシリに命じられてアバランチの車内を四つん這いで移動しながら、ボクはどこか冷静だった。
なんとなく、こうなるんじゃないかって予感がしていた。〈緑の虎〉が襲撃してきたことに対してじゃない。ボクとシシリが、エヴァンの監視がない状態で二人きりになれるときがくると予想していたんだ。
ボクは後部座席を占領している軽機関銃の下からシートベルトのバックルを救出して、大人しく席に着く。邪魔なカラシニコバも機関銃に添わせて置いた。
漆黒の砂漠のなにを指針にシシリが進路をとっているのかわからなかったけれど、すぐに舗装された道に出た。北行車線を逆走するアバランチは滑らかな走行のわりにエンジン音ばかりが大きくて、不安になってくる。
「国境を越えるの?」
「あの方角と高度なら、国境の向こうに不時着する」
不時着、と口の中で繰り返す。火を噴いたヘリが無事に着陸できる確率はどのくらいだろう? よたよたと空を彷徨っていた高度は軽く四〇〇メートルを超えていたはずだ。でもシシリはきっと認めない。もし一直線に地面に激突していたとしても、シシリはジギィの死を受け入れはしないだろう。
ボクは逃げ出したばかりの〈タルト・タタン〉のホームを振り返る。暗視装置のレンズがぼんやりと窓ガラスに映り込んでいた。
シシリにとってはあそこで戦っているリューイやロシナンテよりも、ジギィのほうが大切なんだ。二人の命よりも生死不明の男一人が大事だなんて、非情だ。それなのに少しだけ、羨ましくなった。シシリに慕われているジギィが、じゃない。そこまで直情的に誰かを大切にできるシシリが、だ。だってボクには、それほど信じられる相手がいない。母の生死を確かめるためにこんなところまで来たのだって、たぶん母への思慕というよりは自分の裡に生じた矛盾の正体を知りたいだけだ。
だって、ボクをずっと蔑ろにしてきた母に逢いたいなんて、おかしいじゃないか。
そう自嘲したとき、アバランチの速度ががくっと落ちた。フロンドウィンドの向こうに有刺鉄線の渦が見えた。土嚢を積んで作った簡易の砲台が機関銃を載せて道の両側に佇んでいる。強烈なライトを照射してくる白い塔は監視台だろう。
国境検問所だ。M16アサルトライフルを携えた兵士が胡乱な顔で近付いて来る。
「スマホリヤ ラバース」
シシリが運転席だけでなくすべてのパワーウィンドを下げながら呪文を叫ぶ。消去法で考えればアラビア語の挨拶だ。そのくせ、続いたのは英語だった。
「ヘリが降りた場所を教えてほしい」
「ああ」と兵士の一人がシシリを認めた途端に緊張状態を解いた。「なんだ、お前たちのだったのか。珍しくヘマしたな。ありゃ、降りたってより墜ちただろ」
「不時着だよ!」
「南東に一キロくらい、クウェートとの緩衝地帯のどっかだろ。ヤバいもんを引き上げに行くのか? 地雷踏んでも知らねぇぞ」
「ご忠告、どうも」
助手席からも別の兵士が覗きこむ。こちらは顔だけでなく銃口まで一緒だったから、ボクはドアのロックが外れていないことを確認してシートベルトを握り締める。そんなボクの様子を怯えていると理解したらしい兵士が、へらっと口元をゆるめて何事かを囁いてくれた。まったく聞き取れなかったけれど、『大丈夫』という意味合いだろうと見当をつけて頷いておく。
「トール、AKと
「エルペカーって?」
「それだよ」
シシリは自らのM4カービンを運転席の窓から兵士に渡しながら、顎先でボクの膝に台尻を預けて寝転がっている軽機関銃を示す。
「ここから先はクウェートだから、武装して国境は越えられない」
「そうなの?」
イラクもクウェートもボクの中では大して変わらない印象だから、ここからは武装できない、と言われてもピンとこなかった。だってRPGの着弾痕があった〈タルト・タタン〉のホームとここは、一キロメートルも離れていない。
釈然としないままカラシニコバを兵士に渡してから、重たい機関銃に苦戦しながら窓から出す。すぐに後部座席の窓が閉められた。兵士が驚いたように抗議の声を上げたけれど、窓は運転席のシシリが管理しているからボクとしてはどうしようもない。
唯一の窓口となった運転席の窓越しに、シシリと隊長らしき男との間で二、三言が交わされる。シシリが札束を一つ提供したところで、ようやく兵士たちが有刺鉄線で構成された車止めを左右に割ってくれた。遮断機が上がる。
レースのスタートダッシュじみた加速でシシリがアクセルを踏み込んだ。アバランチのタイヤを受けた道が、コォーと猛る。それもわずかの間だった。
シシリはすぐにハンドルを切る。路肩を噛んだ車体が跳ねた。やけに長い浮遊の後、物凄い衝撃が尻から突き抜けた。優秀なサスペンションが最大に性能を発揮してなお、ボクは内臓を乱される不快感に吐き気を覚える。
シシリがダッシュボードの上に据えられたカーナビの電源を入れた。生き返った画面は、真っ青だ。『No Signal』と無情な文字が点滅している。
舌打ちをしたシシリが手当たり次第にボタンを連打し始めた。石だの低木の枝だのを撥ねながらの走行中だから、ひどい蛇行運転になる。
「シシリ、落ち着こうよ」
「落ち着いてる」
「嘘だよ」
「トール!」八つ当たり気味の怒声だった。「どうしてジギィと往かなかったの!」
「それは……」
彼が乗せてくれなかったんだよ、と暴露してみようかと考えてから、方針を切り替えて冗談めかした口調を作る。
「ボクも一緒に墜ちればよかったってこと?」
「そんなこと……」数秒言い淀んだシシリは、自らの苛立ちを振り払うように首を振った。「違う、ごめん」
「いいよ、大丈夫」
「ヘリのところで
スウェットで出歩くには物騒な夜だから、ボクは素直にシートの下からボストンバッグを引きずり出して物色する。カーゴパンツとサイズの大きな長袖シャツ、ついでにウエストホルスターを装備して最後にタクティカルベストを着けた。
バッグの底で眠っていた拳銃に弾が装填されていることを確認しながら、ボクは「ねえ」とシシリの項に呼びかける。
「ジギィのことは残念だったけど、もうそろそろ話してくれてもいいんじゃない?」
「……なにを?」
「二人きりだよ。エヴァンの聞き耳も、リューイの銃口もない」
「だから、なに?」
「だからもう、知らないフリをする必要はないんじゃないかな。エヴァンとの通信が切れたなんて、嘘なんだろ?」
勢いよくシシリが振り返った。でもアクセルは全開だ。いくら砂漠とはいえ、危険極まりない。さらに国境にいた兵士の口振りでは地雷だって埋まっているらしい。
でもボクは拳銃から抜いたマガジンの弾数を確認することに集中しているように装う。全部で十五発、たぶんシシリの拳銃も同じ弾数だ。
「さっき、ホームで格納テントが攻撃されたのを見て気付いたんだ。あれはロシナンテとリューイがボクらを追って来られなくするために、ジギィが撃ったんだろ? そのせいで彼自身が墜とされたのは不幸な偶然だったけど、ボクとの契約はもうそろそろ終盤じゃないかな?」
シシリは、応えてくれなかった。まだ早いってことかな、と顔を上げたら、運転席のシシリはまだボクを見ていた。唇を半開きにして、絶句、という単語をそのまま形にして固めたような表情をしている。
あれ? と首を傾げる。
「君と、契約したよね?」
「なに、を……」
「ボクがテロリストに払い下げられる直前、国境検問所の取調室に電話をかけてきてくれたのは、君なんだろ?」
「……電話?」
シシリらしくない愚鈍な問い返しの連続だった。それでも片手は腰に回っている。ボクと揃いの拳銃を握っているんだろう。ひょっとしたら、役に立ちそうもないあの掌大の銃かもしれない。どちらにしろ、今抜くのは賢明な判断じゃない。
どっと車体がなにかに乗り上げて、地面に叩きつけられた。慌てた様子でシシリがハンドルに取り付く。
ボクはわざと緩慢な動作で、握っている拳銃をウエストホルスターに納める。タクティカルベストのポーチには拳銃の予備弾倉も入るだけ詰めておく。シシリの視線がボクの肌に刺さるのが、心地好かった。
ボクはヘルメットの額から暗視装置を下げて、夜の奥に広がる荒野へ顔を向ける。
国境を越えたって大差はない。砂漠と点在する木々、かなり遠くの街並みが電光を散らしているけれど、基本的にさっきまでいた戦場と同じ光景だ。
緑色の濃淡で描かれる世界に狼煙が上がっていた。その根元が仄白くなっている。
ボクが教えてあげるまでもなく、シシリは即座にハンドルを操った。どれだけボクが不審でも、ジギィの安否の前じゃ無に等しいらしい。
腹の底に湧き立つ寂寞感に任せて、ボクは子守唄に似た抑揚を意識して「ボクが」と語りかける。
「ボクを助けに来るチームと行動をともにするなら、ボクの母さんの居場所を教えてくれるって。女の人がそう、ボクに持ちかけたんだ」
「君の母親は!」シシリの余裕のない声を初めて聴く。「わたしが殺した。そう言ったのは君自身だ」
「言ってないよ。君が、ボクの両親を撃った。でも殺したとは一度だって言ってない」
それも、ジギィは否定したけれど、そのことは教えてあげない。
沈黙が数秒。過去を思い出したのか、思い出すのを諦めたのか、アバランチのエンジンが一呼吸だけ金切声を上げる。
「シシリ、あの契約の相手は、本当に君じゃないの?」
「……〈緑の虎〉の襲撃も君の仕込みだったの」
「それは誤解だよ。ボクは、本当に彼女たちを忘れていたんだ」
「君のせいで、ジギィが」
呪詛をぶち切って、シシリが急ブレーキを踏んだ。つんのめったボクが体勢を立て直す前に車を降りてしまう。
もうもうと煙を吹くヘリの残骸がすぐ前にあった。虫の死骸を見付けた蟻のように五、六台の普通車がその巨体を取り囲み、ハイビームを浴びせている。
テイルローターがなくてメインのプロペラブレードが直角に曲がっていることを除けば、ヘリ自体にはなんの問題もなさそうだった。窓ガラスさえ健在な胴体には現地人らしき何人もの男たちが詰めかけ、ガンケースを運び出そうとしている。機内に充満する煙を気に掛ける素振りもなく、彼らはヘリの内部を漁ることに夢中になっていた。シシリが乗りつけたアバランチを一瞥した男も、すぐにヘリへと顔を戻す。ひょっとしたら強盗仲間が増えたと勘違いしたのかもしれない。
素早く荷台に回ったシシリが、防水シートの下から
AK-47を構えたシシリがヘリに近付きながら、あっさりと撃った。燻されたヘリのキャビンから顔を覗かせた男が、予備動作もなく頽れる。
事態が呑み込めないのか、男たちは不思議そうに動きを止めた仲間を窺っている。
そしてまた、ガンケースを抱えていた男が首から血を噴き上げる。今度の発砲音は、男たちの悲鳴に呑み込まれた。シシリの凶行を理解した男たちが我先にと荷物を投げ出して車に飛び乗り、土煙を上げて逃げ去って往く。
シシリがヘリに駆け寄った。男の死体を踏み台にして操縦席を確認するようだ。
ボクの暗視装置からは、空っぽの操縦席とキャビンが鮮明に見通せた。
そしてただ一台、シシリの威嚇にも動じずライトを消してひっそりと停まっている車も見えていた。黒いハッチバックタイプのオペルだ。ボンネットには大きなオレンジ色の蝶のステッカーが貼られている。
一歩を踏み出したボクに、シシリが反応した。
「トール!」
「大丈夫だよ」
「動くな!」
本気の警告だった。振り返れば、銃口が真っ直ぐにボクへ向けられている。
「トール、どういうことか説明して」
「さっき、したよ」
「……君は、なに? ただの人質じゃないことはわかった、でも……」
「君とボクは共犯だと思ってたんだ。結果的に担ぐことになったのは謝るよ、ごめん」
「どうしてジギィを」
「ジギィのことは知らないよ。本当に、彼の墜落については、無関係だ」
「信じろ、って?」
「言える立場じゃないとはわかってるけど……信じてくれると嬉しい」
はっ、とシシリは短く唾棄した。
当たり前の反応だ。それなのにボクは一抹の寂しさを感じる。
「本当だ」
男の声が、オペルの傍らからした。幽鬼じみた怪しさで立ち上がったのは、ジギィだ。砂漠を踏み締めているブーツもボタンがいくつかとんだシャツも、砂漠の風を受けて灰色に移ろっていた。アバランチの前照灯が濃い影でジギィの表情を隠している。
「俺は、自分の意思でヘリを墜とした」
「……帰ろう」囁き声で、シシリはAK‐47を右手で保持したまま左手を伸ばした。「ジギィ、無事でよかった。それだけで、いい。だから、帰ろう」
はは、と女の声が、嗤った。
ジギィの隣に、細身の女がいた。シシリとお揃いのAK‐47を構えて、柔らかく波打つ縮れ毛を靡かせている。その右の瞳が、金と緑が絡み合う美しい虹彩を輝かせていた。対照的に左の瞼は閉ざされたまま落ち窪んでいる。
その色が信じられなくて、ボクは暗視装置ごとヘルメットを投げ捨てて女の名を、つい数時間前に別れた仲間を、呆然と呼ぶ。
「……マナナ? どうして、君が来るの。だってレナードが、君の信号は〈タルト・タタン〉のホームにあるって……だから攻めてきたって言ってたのに」
応えは、いつも通りの柔らかな微笑だった。
シシリの銃が、今度こそボクの眉間に滑る。呼応してマナナの照準もシシリを捉える。
「トール」シシリの問いが、懇願みたいな弱さを帯びている。「これが君の、わたしたちへの復讐なの」
「違うよ」戸惑いながらも、はっきりと否定する。「こんなこと、ボクにだって想定外だ」
「ああ、そうか」
緩慢に頷いたシシリが、無表情に引き金を引いた。銃声が二重に轟いて、火薬の仄甘い香りが鼻腔に届くころには静かな夜に戻っている。オペルの前輪がゴボンと音を立てて凹んだかと思うと車体が沈んでいく。
マナナの銃も、細い煙を吐いていた。でもシシリもアバランチも無傷だ。もっともアバランチに施された装甲と防弾タイヤなら、一発くらい中ってもどうということはないだろう。
「二度もわたしにかかわってきた時点で怪しむべきだった。失敗したよ。大失敗だ。そもそも君は、〈緑の虎〉だった」
「違う!」と反駁するために吸った空気を、苦く解く。
代りに口を開いたのは、マナナだった。カラシニコバの台尻を肩に押し付けて、狙いをつけ直している。
「私はすでに虎ではありません。私たちは……そうですね、今のあなたには〈プラント〉と名乗りましょうか」
「じゃあ、〈プラント〉。ここで死ね」
夜の風と同じ速度で、ジギィが腕を挙げた。その先に、大きな拳銃が握られている。銃口が捉えているのは、シシリだ。
わずかにシシリの眼が見開かれた。それもすぐに自嘲に変わる。
「君になら、撃たれてもいいよ、ジギィ」
「同行しろ」
「どうして? 君はわたしを捨てて、その女と〈プラント〉に寝返るんでしょう? ならもう、わたしは要らないってことだ。撃てばいい」
「正直、お前が来なければよかったと思っていた」
「それは」マナナがなぜか、ボクへと手を伸べる。「私たちを裏切る発言でしょう、ジギィ」
シシリを包む殺気が膨れた。それを無視して、ジギィがアバランチへと近付く。
シシリの銃口はマナナに据えられたまま動かない。マナナもシシリを狙っている。
四年前、あの白い施設で〈緑の虎〉と別たれたボク、ボクの両親を撃ったというシシリ。そしてボクを日本に還してくれた〈タルト・タタン〉のボスたるジギィ。今さらボクらは、明確に対立していた。
指先に湿った温もりが宿った。マナナの手だ。優しい笑みに促されて、ボクはアバランチへと戻る。ジギィが悪趣味な執事ごっこのように扉を開いてくれた。
運転席にはジギィが座った。助手席にマナナが、後部座席にボクが納まる。
シシリだけが砂漠に立ち尽くしていた。そのまま発進しそうに、アバランチのエンジンが吼える。
乗らないのか? と誘うようにパッシングが一度。
シシリは夢遊病者のようにAK‐47を垂れて、アバランチに足をかけた。後部座席にブーツの片方を載せて、片膝立てでボクの隣で唇を噛み締める。
重たい音を連れて、シシリが扉を閉ざした。つん、と耳が詰まるような沈黙がボクらを押し潰そうと質量を増していく。
ボクの結んだ契約が、予想もしていなかった事態を次々と招いていた。得体の知れないなにかに呑まれた気分になって、ボクはウエストホルスターに納めた拳銃に縋る。
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