五〇〇ドル分の欠品 1
〈8〉
あのレナードの眼を知っていた。ボクから欠落した十三歳の夏に、見ている。そう、確か彼女たちがボクの名を呼んだ最初の日だ。ボクから失われていた時間が、ひどい眩暈の底から浮かび上がってくる。
あの日はいつも寄越される大人からの罵声じゃなくて、喧騒が目覚まし代りだった。
十三歳のボクは、すっかり一人部屋になってしまった木箱の隙間から差すジャングルの光と腐葉土の匂いに目を眇める。数週間前まで、この二メートル四方の木箱にはボクを含めて四人の子供が詰められていた。現地の小学校へ向かうスクールバスに同乗していた、逆立ちしたってこの国の人たちとは似ていない外見の中高生たちだ。
けれどもう、今はボク一人だった。みんな逃げようとして、ボクの前で死体になった。ボクにしてみれば大人も子供もなんらかの武器を持って闊歩している村から、どうして逃げられると判断したのかがわからない。
だから、いち早く自分の立場を理解して生き延びたボクは、その日も大人しく膝を抱えて木箱の蓋が開かれるのを待っていた。
めりめりと音を立てて木箱に打ち付けられた釘ごと蓋が剥がされていく。この村に連れて来られた当初こそ毎晩丁寧に固定されていた蓋も、最近じゃあまりに大人しいボクを相手にやる気をなくしているのか、四隅の釘が緩むのを待たずに仕事を放棄していた。
ボクを覗き込んだ太陽があまりにも眩しくて、ぽかんと口を開ける。
少女だった。アフリカの陽光で溶け出しそうな白い肌と、それ自体が光で構成されているんじゃないかと思うほどの金髪とを黒いスカーフからこぼした少女だ。
年少部隊の、隊長だ。ぞっと背筋が冷えた。黒人ばかりのこの集落で臆することなく少年兵を率いる彼女と、こんなに近くで遭ったことがなかったから気付くのが遅れてしまったんだ。そうじゃなきゃ、ボクはすぐにでも直立不動で敬意を示していた。
ボクと一緒に誘拐されてきた三人のうち二人が、この金色の少女に殺されていた。
立ち上がるタイミングを逸したボクの襟首をつかんで、少女が腕を一閃させた。華奢に見えたのに、ボクはあっさりと木箱ごと地面に倒れ込む。湿った土と落葉が口に入った。頬の高いところが熱くなったから、擦りむいたのかもしれない。そんなことにはお構いなしで、少女は容赦なくボクを引きずって村の中を抜けて往く。いつもならそこここから轟いている射撃訓練の音が、今日はなかった。大人たちは努めてボクらの存在を、いや、金色の少女の行動を無視している。
少女の腰の辺りで二挺の
すぐにボクらは村外れの広場に辿りついた。いつもは見張りの大人が立っているだけなのに、今日は子供たちが犇いている。たぶん、村中の子供たちが集められているのだろう。その中心に黒い柱が立てられていた。いや、テレビや無線のアンテナが括りつけられている木の支柱だった。そこに縛られた男のせいで黒く見えただけだ。
男は顔のあちこちが腫れて、どこが目でどこが鼻なのかも判然としない有り様だ。顎先から絶え間なく血が滴っている。ボクらをバスから誘拐した男かもしれない。銃の覚えが悪いとボクの仲間を嬲っていた男にも、ボクらの食事を嗤って地面に撒いた男にも見える。誰にしろ、この村の大人であることは確かだ。
「この男は」と金色の少女が美しい英語で言ったので、ボクは心底驚いた。
村の誰もが、それこそボクより小さい子供たちも含めて英語を話せてはいたけれど、みんな奇妙な訛を有していて聞き取り辛かった。でも、この少女は違う。ボクの耳を震わせるのはネイティブな発音だ。
遠ざかっていた耳触りに、安堵感と恐怖が押し寄せた。後頭部が痺れる。
ボクがこの村に誘拐されてきて何日が経ったんだろう。最初に殺された仲間が夕暮れごとに木箱に刻んでいた線は、八本で途切れてしまっている。それからさらに二人が殺された。残っているのはボクだけだ。どうしてまだボクはこの村にいるんだろう。どうして誰も助けに来ないんだろう。両親は、ボクを仲間として扱ってくれた医療団の人たちは、ボクを助ける気なんてないんだろうか。そういえば母は、常々ボクが父に似ていると言っていた。ひょっとして母さんは、父さんさえいればボクなんて要らないのかもしれない。
ボクを押し潰そうとする絶望を見透かしたタイミングで、少女は淡々と滑らかな英語を続ける。
「子供に暴力を振った。護るべき、仲間であるはずの、同じ村の子供に、だ」
「……仲間」
鸚鵡返しの英語は拙い発音になった。ボクの最後の仲間が殺されてからの空白期間は数日しかないはずなのに、ボクの舌はすっかり怠け者になっていたらしい。
勿論、この村じゃ暴力なんて珍しいことじゃない。ボクに限らずこの村の子供たちは平等に、そして日常的に大人たちから虐げられていた。だから、金色の少女がいう『暴力』が性的なものだとすぐに理解できた。
男の傍に、薄黄色く変色したスカーフで顔を隠した少女が佇んでいた。彼女が、被害者なんだろう。この土地に相応しい黒い肌と砂で彩られた短い爪が、きつく組み合わされた両手の間に大きなナイフを鞘ごと挟んで震えている。そのくせ、体のあちこちに返り血らしき飛沫を散らしていた。
ここに集っている他の子供たちの大半が、少女と似たり寄ったりの恰好だった。きっと村の全員がスカーフをとっていたとしても、ボクに判別できるのは金色の少女だけだろう。
金色の少女が一歩を踏み出すと、半死半生の男を囲んでいた子供たちの輪が割れた。少女は救世主みたいに子供たちの間を歩んで、男の前からボクを振り返る。
「アンタの国じゃ、こういう男はどう裁かれるんだい?」
なにか、この武装集団にはとても不釣り合いな言葉が入っていた気がした。じっくりと数秒前の記憶を反芻しつつ自分の聴覚を疑う。
裁く? こんな無法地帯で、ボクを拉致し仲間を殺した連中が、なにをどう裁くつもりでいるんだろう。
ボクの戸惑いに金色の少女は苛立たし気に眼光を強めた。
「アンタは銃も持ち歩けない、完全無欠の法治国家の出身なんだろう? こういう男にはどんな罰が下されるんだい?」
「……さあ」
「さあ?」
わざとらしく語尾を跳ね上げて、少女は鼻を鳴らす。ついでに二挺のカラシニコバまでがボクを嘲笑った。それなのに少女の瞳は重装備の敵と対峙しているような光を宿している。
「アンタは自分の国のことも知らないのかい?」
「ごめん……。でも、本当に知らないんだ。確か、裁判とか法律とかで刑務所に入る期間が決まったはずだけど……」
「そう、裁判だ」少女は急に真顔になった。「今、アタシたちは裁判を開いてる。でもここはアンタの国じゃない。参照できる法律なんてありゃしない。決めるのは、アンタだよ。アンタなら、仲間を暴行した男をどう裁くんだい?」
ああ、とボクは緩やかに確信する。これはテストなんだ。金色の少女が背負う銃で撃ち殺されるか、その片方をもらえるかの、分水嶺だ。
ボクは男の隣に佇む被害者の少女に一歩を踏み出す。金色の少女が小脇の銃を引き寄せてボクを狙う。だからボクは足を進める代りに、被害者に囁き声を投げた。
「怪我は、大丈夫?」
ボクよりも細くて小さな手でスカーフの裾を弄って、被害者の少女は俯きを深くする。
「えっと……ボク、英語しか話せないんだけど……わかる?」
今度はスカーフに包まれた頭が上下した。
「ボクは……」自己紹介をしようとして、やめた。半呼吸の間で別の話題に切り替える。「君が望むようにするのが一番だと思うよ。君がこの男をどうしたいのか。赦すのも裁くのも、君の気持が一番大事だし、それこそが尊重されるべきものだ」
少女の肩がさらに小さく縮んで、背後では金色の少女の殺気が膨れていく。いささか焦りながら、それを悟られないように声をもう一段低めることにする。
「ここにいるみんなは、君の仲間なんだよね? だからここにいる。君が傷つけられたから、そのことに怒って、集まって来てくれたんだよね? みんな、君の気持を知りたいんだ」
スカーフの下から風音がした。英語だったのかもしれないし、彼らの言語だったのかもしれない。どちらにしろボクの耳は正しく捉えられていなかった。それでもボクは「うん」と無責任に、優しく頷く。
「ボクも、参加していいかな? 君のために、怒ってもいい?」
薄汚れたスカーフが風にそよいだ。わずかばかり上がった少女の顔が覗く。ひび割れて白くなった唇が薄く開いて、腫れた頬に邪魔されたのか閉ざされる。そして眼が――闇夜を渡る黒猫を思わせる虹彩が、ボクを映した。あまりの輝きにボクは息を呑んで、致命的な一瞬で思考を止めてしまう。
完全な空白だった。はっと我に返ったときにはもう遅い。ボクの手はしっかりとナイフを受け取ってしまっていた。少女が内包する憎悪の大きさを反映したハンティングナイフが、ボクの腕にずっしりとした重みを伝えてくる。
至近距離で瞬く少女の瞳が、鞘を脱いだ刃とともにボクを照らしていた。さあ、早く。そう急かされる。
生臭さが鼻を衝いた。ナイフの根元にこびりついたタール状の、たぶん血だか脂肪だかが劣化したものの臭いだ。誘拐された仲間の一人を死体にしたのと同じ、凶器だ。
この男も、とぼんやりと霞のかかった頭で考える。ボクが刺せばナイフの一部になれる。こうしてまた、誰かの手に握ってもらえる。ボクが手を下さなきゃ金色の少女がボクごと撃ち抜いて、ただ血肉を地面に垂れ流すだけだ。
ぞうぞうと淀んだ水音雑じりの呼吸が、男の口らしきところから漏れていた。目隠しをされている。額から流れた血を吸って黒く肌と同化していたから、腫れて潰れているように見えていたらしい。
ボクはナイフを持っていないほうの手で男の目隠しをつかむ。引き下げようとしたけれど、存外きつく縛ってあったから鼻が通らなかった。仕方なく額へとずり上げる。ぱっくりと割れた皮膚の谷間からクリーム色の骨が覗いていた。
ボクはナイフを両手で握り直す。男の血走った眼に滲む涙が心地好かった。ボクの怯弱さが吸い取られていくのを感じる。ゆっくりと、間違って急所を衝いてしまわないように慎重に、この村の大人たちに教わったことを思い出しながら刃の行方を定める。
これは、テストだ。そう口の中で唱える。何度もなんども、繰り返す。生きるか死ぬかの、殺すか殺されるかの、境界なんだ。
はっ、と笑いの欠片が飛び出した。男の喘ぎだったのかもしれない。どっちでもいい、どうでもいい。
ボクはそっと腕を進める。ナイフが黒い皮膚を圧迫して、耐えきれなくなった薄皮が弾けて、硬い筋肉が侵入を拒んで、それを断った白刃が柔らかい内臓に辿りついて、骨に当たって、止まる。
生々しい感触に骨の芯がむず痒くなった。勢いよく跳ねる男の体にナイフごと肘関節を捩じられて、柄を放してしまう。吐き気を覚える悲鳴が迸っている。うるさいなぁ、とわざと呟いて、男に刺さったままのナイフを無造作に引き抜いた。
吹き出した血がハーフパンツごとボクの足を汚していく。火照った体には冷たいくらいの、死にかけた人間の温度だ。
わっと成行きを見守っていた子供たちが駆け寄ってきた。我先にと男に殺到する。
銘々に棍棒だのナイフだのを振り下ろす子供たちの波に追われて輪の外に出たボクの前に、金色の少女がいた。二挺のカラシニコバの片方を、ボクへと差し出している。
「これからは自分で手入れするんだ」
ボクは素直に頷いて、受け取る。ここ数週間ですっかり使い方は覚えていた。夜になると取り上げられていたその武器と、今日からはずっと一緒に過ごせるらしい。それはつまり、殺される側から殺す側に入れたってことだ。
「アタシはレナード。おめでとう、今日からアンタは仲間だよ、トール」
日本で呼ばれていた一本調子の発音じゃなかった。トにアクセントをつけられただけで他人の名前みたいだ。新しい名前をもらって生れ変ったんだ、と妙に昂揚した。
「……トール」
新しい名前を呼ばれて振り返った先には、被害者の少女が佇んでいた。
「私、嬉しかった」少女の英語はたどたどしい。「怒ってくれて、私のために怒ってくれて、ありがとう」
少女は欠けた前歯をきらめかせて微笑むと、金色の少女に寄り添って彼女の銃に手を添えた。
「私はマナナ。レナードの銃は『チュイ』っていうの。私が名前をプレゼントしたの。だから」さっきまで震えていた少女の指がボクの胸を、ボクだけの銃を示す。「トールのは『パカ』。チュイは豹って意味でね、パカは猫なの。そして私たちは、チュイムクブワ。色は、緑」
――緑の虎。
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