やり直しに三〇〇〇ドル 3

〈15〉


 撃ち崩された戸板の破片やマナナの血と悲鳴、踏み込んでくる少年たちとリューイの横目に、それでもシシリは、まだ両腕を垂れていた。照準する先を迷っているのかもしれない。

 そしてボクも、ウエストホルスターに納めた冷たい重みに触れることができずにいた。

「シシリ!」

 リューイの怒声に、ようやくシシリが腕を上げる。握り慣れているはずの拳銃をひどく重たそうに擡げて、それでも空しく揺れる蝶のモビールの間を彷徨うようだ。

 その隙に、ジギィが薄桃色のシーツごとエヴァンを抱き寄せた。

 条件反射の速度でカラシニコバを全方位へと向けた二人の少年は、どうしてマナナがリューイに押さえつけられているのかわからない、とばかりに唇を薄く開くばかりだ。ひょっとしたら、誰に何語で「マナナを解放しろ」と要求すればいいのかの判断がつかず、戸惑っているのかもしれない。

「マナナ」とカラシニコバから外した左手を伸べて、侵入者たるレナードは戸板とリューイの下敷きとなったマナナに硬い声音を押し出した。

「帰ろう。迎えに来たんだ。子供たちが、待ってる」

 マナナが『私の子供たち』と形容していた〈緑の虎〉の少年兵だ。つまり、〈タルト・タタン〉のホームへ攻め入った彼らは、生きている。そしてマナナを取り戻すために結託した。その事実を、ボクは強く意識する。

 けれど、当のマナナはその報告を他人事のように聞き流した。苦痛の呻きともため息ともつかぬ声が、硝煙を退ける。

「レナードまで〈タルト・タタン〉に絆されるなんて……」

「アンタを取り戻すための、一時的な休戦だよ」

「取り戻す?」

「アタシたち〈緑の虎〉は仲間を見捨てない。絶対に、絶対に、絶対に、だ」

 仲間、と不明瞭な発音を口にしたマナナが、吹き出した。ころころと甘えた仔猫のように喉を鳴らして、嗤う。

 気圧されたように、リューイが戸板から退く。

「私を取り戻す? 仲間を見捨てない、ですって?」

「マナナ?」

「あなたは逃げ出した自分の愛玩動物を捕えに来ただけよ。仲間を見捨てないだなんて、笑わせないでちょうだい」

 両腕を突っ張って上半身を起したマナナの表情が、語気の鋭さを裏切って、和らいでいく。柩から甦った死者のような顔色で身体に圧し掛かる戸板を滑り落とし、撃ち崩された足を引き寄せ、カラシニコバを断罪の杖に見立てるように床に立てた。

「私たちの父さんババを殺したあなたが、いったい誰を見捨てないと言うのかしら? レナード」

 父さん、とはあの村に君臨していた隊長のことだ。血のつながりの有無にかかわらず、あの村の少年兵たちはみんな隊長を『父』と呼んでいた。常にカラシニコバを体に張り付けて、役立たずだと断じた相手には容赦なく銃弾を撃ち込んでいたにもかかわらず、だ。崇拝にも近しい態度で慕っていたのは単純に恐怖からくる洗脳状態かと思っていたのに、マナナは今でもあの男を『父』と呼ぶらしい。

「父さんは……」バツが悪そうにレナードが唇を噛む。「人権団体に買い取られたアタシたちを迎えに来なかったじゃないか。父さんはアタシたちを捨てたんだ。アタシたちより武器と金を選んだんだ。だから制裁を加えた。その代り、アタシは絶対に仲間を見捨てない、好い隊長になっただろ?」

「今の〈緑の虎〉はあなたの、あなただけの所有物ですものね」

「なにを……」

 言ってるんだ? と怪訝そうに顎を上げたレナードが、頽れた。え? と目を瞬かせて、レナードは自らの腹に咲いた深紅に触れる。

 マナナのカラシニコバが、淑やかな陽炎を放っていた。銃声がやけに遅れて上がる。

 リューイがM4カービンをマナナに照準しけかけて、けれど、それよりも早く二人の少年たちがカラシニコバをマナナに据えた。

 けれどマナナは頓着する様子もない。発砲の反動を殺すためか体をやや前のめりにして、膝でレナードへとにじる。

「あなたが、私から父さんを奪ったのよ。白いだけの使い捨てが! 私の父さんを殺して、私の家族を横取りしたの!」激昂に高まった声音は、すぐに諭す抑揚へと収縮していく。「ねえ、レナード。知っていたかしら。村の外から連れて来られた子供たちはみんな、銃の使い方を教えられ、人を殺し、その罪悪感や恐怖から逃れるために麻薬漬けになるのよ。いいえ、そうしていたの。そしてみんな、従順な兵士として死んで逝くのよ。あなたが来るまでは、私たちのように村で生まれた子供たちだけが人間でいることを許されていたの。それが……いつの間にか子供たちの全てが平等になってしまった。あなたのせいで、村の秩序が壊れたのよ。挙句に、どこから拾われてきたかもわからない白い子供が、私たちの隊長として振る舞うようになるなんて」

 慈愛に満ちた笑みを浮かべたまま、マナナはまた一発をレナードの肩口へと撃ち込んだ。びくりと震えたレナードは、黙って凶弾を享受している。

 止めなきゃ、と思うのに、体が動かなかった。ボクの知るマナナは、銃を握ることよりも誰かのために食事を作ることを好む女の子だった。誰かを傷付けるくらいなら自分が虐げられることを選ぶような、優しい子だった。それなのに、マナナは今、レナードの銃創にカラシニコバの先を突っ込んで笑っている。

 こんなマナナは知らない。こんなのはボクの知るマナナじゃない。でも、父のことも母のこともわかっていなかったボクが、マナナのなにを知っていると言えるんだろう。

 しゃらしゃらと、天井から吊るされた蝶のモビールが囁めいている。立ち籠める硝煙と血霧が部屋の全てを朱色に照らしているようだ。

 シシリやリューイはともかく、シシリと同じ顔をした少女も――ジギィの腕に抱かれたエヴァンすらも、二人の間に割って入ろうとはせず薄桃色のベッドから事態を睥睨している。

 ボクを今でも仲間だと言ってくれたマナナと、マナナを取り戻しに来たレナード。

 それなのにボクは動くこともできなかった。

 レナードは主従のようにマナナの膝先で蹲り自らを苛む凶行に、耐えている。二人ともがお揃いのカラシニコバを携えているにもかかわらず、その引き金を絞るのはマナナだけだ。

「マナナ……」少年の片方が、カラシニコバの引き金をぎりぎりまで絞る。「やめてよ。どうして、こんなこと……」

 ふふ、と上品に微笑んだマナナがまた、一発をレナードへ撃ち込む。

 悲鳴の欠片を吐くレナードのあちこちから血が溢れていた。その銃創を丁寧に銃口で抉りながら、マナナはひどく上機嫌に自らの落ち窪んだ左瞼を指先で撫でる。

「どうして?」少年の言葉を鸚鵡返しにして、マナナは噛み締めるように「どうして、ね」と繰り返した。「その疑問が湧くことこそ、私の〈緑の虎〉ではないという証拠よ」

 それが当たり前だという様子で、マナナがカラシニコバの銃口を廻らせた。「どうして?」と問うた少年へ。

「え」と惚けた声が、撃ち抜かれる。ぼんやりと胸を押えた少年の手から血が溢れた。「え?」と再び少年がマナナへ顔を向けた瞬間、二発目が額を穿った。

 止める間もなかった。全員が虚を衝かれた顔で固まっている。

 真っ先に我に返ったのは、もう一人の少年だった。意味のない叫びとともにカラシニコバをフルオートで乱射する。

 強い力に足を払われた。ボクを押し倒したシシリが、上にいる。ボクを庇ってくれたらしい。拳銃を握ったままのシシリの手が、ボクの頭を抱き込んだせいで頬のすぐ横にある。

 弾切れまでは、バカみたいにあっけなかった。ひとしきり撃ち尽くされたカラシニコバが、床に落ちる。

どうしてクワ ニニっ!」少年のスワヒリ語が、嗚咽に潰れた。「どうしてマナナが、こんなこと……仲間を、見捨てないって、助けるって……」

 少年の銃弾は、マナナから程遠い壁を縦断して天井に達していた。誰も捉えていない、悲しい軌跡だ。

「もちろん助けるわ」マナナがぺたりと尻をつけて座り直す。「父さんの子はみんな、助けてあげる」

「なら、どうしてチャールズを撃ったんだ!」

「どうして、どうして、どうして」熱に浮かされた顔で、マナナは少年を真似た。「理由はね、この眼よ」

 マナナは左の、昼間はガラス玉を嵌めていた眼窩をなぞる。

「四年前、トールと一緒に連れて行かれた〈プラント〉で、私はエヴァと出逢ったわ。エヴァはね、私の瞳をきれいだと言ってくれたの。虎みたいだ、って。私こそが〈緑の虎〉に相応しいって。だから分けてあげたの。エヴァも〈虎〉になれるように。私も〈ヒューゴ〉の一員として世界を変える手伝いができるように」

「〈ヒューゴ〉?」リューイが訝る顔だ。「〈プラント〉じゃなく?」

「〈プラント〉は〈ヒューゴ〉社がもつ施設の一つよ。私はエヴァに、私の子供たちの中から新しい手足となる子を提供することにしたの。そしてエヴァは、私に正しい〈緑の虎〉を与えてくれる」

 マナナはカーゴパンツのポケットからぬらりと光るガラス玉を取り出す。金色の、瞳を模した半球ガラスだ。昼のマナナが左の眼窩に納めていたものだろう。それが今、マナナの掌からこぼれ落ち、硬質な音とともにレナードの顎先で跳ねる。

「ねえ、レナード。四年前、父さんを殺して〈緑の虎〉を乗っ取ったあなたは、私にこれを与えたわね。GPS付きの、ガラスの眼。あなたはこれで、私の首に縄をつないだ気でいたのかしら?」

 反論したそうにレナードは身じろいだ。けれど血の泡と一緒に彼女の口から出たのは、切れぎれの風音だけだった。

「GPS」ふふ、とマナナは口元に手を当て、上品に笑う。「あなた、これを私の国で買ったでしょう? 偽物ばかりのあの国で、正常に作動する精密機器があるなんて本気で信じていたの? その愚かな思考こそ、あなたが私たちとは別世界の人間である証なのよ、白き子供」

 マナナ指先が眼球を部屋の片隅へと払いやり、ついでとばかりにカラシニコバの台尻でレナードの頬を殴りつけた。

「けれど、あなたのその愚かさには感謝もしているのよ。おかげで、労せずあなたと〈タルト・タタン〉を争わせることが叶ったのだから」

 マナナは脂汗で束になったレナードの前髪を掴むと、柔和な面からは程遠い手荒さで床に叩き下ろした。鈍い音がレナードの呻きを呑み込んだ。

 パニックを起こす寸前の迷子のように洟を啜って、少年はマナナとボクを交互に睨める。

「あら、シアカ」躊躇の欠片も見せず、マナナは微笑みさえ浮かべてカラシニコバを構えに乗せた。「あなたも私を裏切るの?」

 肩を震わせた少年が、それでも気丈に「ボクらは」と紡ぐ。

「ボクらは、ずっとマナナが好きだった……」

「私も、あなたが大好きよ、シアカ」

 さようなら、とマナナが嫣然と笑む。

 さようなら、と少年が俯いた。そしてハーフパンツのポケットに突っ込んだ手を無造作に突き出す。

 鉛色の塊が握られていた。パイナップル型の、手榴弾だ。安全ピンはもう抜かれている。

 マナナの顔が強張った。連続した発砲が彼女の驚愕を細切れにして、少年を撃ち崩す。

 力なく垂れた少年の手から、安全レバーの上がった手榴弾が転がり出る。

 全員が顔色を変えた。少年の手を離れた手榴弾が、部屋の中央へと転がっていく。

 ジギィが即座に、全体重を掛けてエヴァンごとベッドを倒した。即席遮蔽壁となったベッドが、ボクの母を手榴弾側へ取り残す。

 廊下へ身を翻しつつリューイが「伏せろ!」と叫んだ。シシリがボクの頭を一際強く抱えてくれる。

 右耳を床に、左をシシリのタクティカルベストの硬さに潰されても、ボクは手榴弾の行方から眼を逸らせなかった。

 母が横転したベッドの猫脚に縋る。でも、乗り越えられず手榴弾と対峙する。逃げ場なんてない。マナナもカラシニコバを顔の前に掲げて尻で後退るだけだ。

 物凄く長い時間だった。

 レナードが、自らの血溜りから飛び出す。マナナの肉片と化した足先まで進んだ手榴弾を抱き込んで、体を丸める。その口元が、笑んでいたのはボクの見間違いだろうか。

 横腹に激痛が走った。内臓が飛び出ている様を想像して手を当てた。感覚がない。手を顔の前にもたげてみたけれど血もついていない。

 あれ? と思ったとき、背筋に直接抜ける地響きがした。脳の底が痺れる。やけに鉄臭いから舌を噛んだのかもしれない。口の中がざらついていた。

 耳鳴りと悲鳴に潜む誰かの言葉を聞き取れるようになるまで十数秒もかかる。

 兵士らしい速度でシシリとリューイが跳ね起きた。シシリの拳銃とリューイのM4カービンが、けれど誰を狙う相手を見失って部屋を舐める。

 ボクはタクティカルベストの脇から手を入れて腹に触れてみる。ぬるりと滑ったけれど、引き出した掌はいつも通りの色だ。汗をかいていただけらしい。痛んだのは、極度の緊張で筋肉が引き攣れたせいだろう。

 体を起こしたボクを迎えたのは、蝶の雨だった。モビールが散り散りなって落ちてくる。壁に煤が散っている他は、手榴弾の影響なんて感じられない。

 ただ一ヶ所だけ、もがくマナナの足先にどす黒いクレーターができていた。

 その中央にスニーカーの靴底が行儀よく並び、カーゴパンツに包まれた丸い尻が乗っている。なだらかな曲線を描く腰は、途中から大きく凹んで形を失っていた。

 ――レナードの残骸が、そこにあった。

 沸騰した血と肉でその白く美しい肌を引き裂かれたレナードが、蹲っている。

「レナード!」

 四つ這いになったマナナが手探りで床を探っていた。顎先から絶え間なく血が滴っている。左の瞼が隠されていた生々しい肉を垣間見せている。そして彼女に唯一残されていた右眼が、どろりとした粘液になって流れ出していた。四散したレナードの骨片が直撃したのだろう。

 マナナは赤い手形を転々とつなげ、ようやく求める相手に辿りつく。

「レナード! レナード、どうして!」

 レナードの肩をつかんで、マナナは手探りの頬を寄せた。

 内臓をかき回されるような粘着質な音を連れて、マナナがレナードの顔を、顔だけを、筋肉だか腱だかを引き延ばしながら胸に抱く。

「あなたはもう、私を庇わなくていいのよ! 庇われたくもないの! 次は、私があなたから全てを奪う番なのだから! 私は、私一人の力で、あなたが損ねた〈緑の虎〉を建て直すの。あなたはそれを、全てを失った状態で、ちゃんと、見て……くれなきゃ」

 マナナの怒号が弱々しく収束していく。レナードの金髪をつかんでいた手が、そろりと耳朶へと下りた。支えを失ったレナードがマナナの膝に落ちる。その衝撃に竦んだのかマナナは両手を胸の前で握り締め、ややして意を決したように開いた手で転がる金髪を梳く。血に染まったチョコレート色の指がレナードの髪から首筋へと撫でる、はずが、繊維状に引き裂かれた筋肉ばかりを絡め取る。

「……レナード? どうしたの?」

 不思議そうに呟いたマナナは、やおら餌を求める犬のように顔を床に擦りつけて「レナード」と繰り返す。

 大丈夫だよ、と答える声は、ない。四年前のあの夏、少年兵たちとともに暮らしたジャングルの村で、清潔に保たれた施設に保護されてからも、レナードはいつだってマナナに応えてきた。マナナにだけは、応えてきた。

 でももう、彼女がマナナのためにできることはなにもないんだ。レナードは最期までマナナのためだけに動いていた。

 羨ましい、と刹那だけ、思う。思ってしまう。ボクは、そんなボクを心の底から嫌悪して、同時に恐怖する。

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