やり直しに三〇〇〇ドル 2

〈14〉


 ――わたしは魔女に食べられるタルトのほうなの。

 車椅子の少女が、十三歳のボクにそう告げた。古い幻影だ。それを、電子ノイズが変異したような音が紡いだ「やあ」という一言がかき消す。こっちが、現実だ。

「あまり久し振りって感じじゃないんだけど……」

 発言者を求めて見回せば、ベッドの少女が口を開閉させている。ひび割れた、ひどく聞き取り辛い肉声だった。

「そうだね、顔を合わせて話すのは久し振りかもしれないね、トール」

「……君、は……誰?」

「忘れるなんてひどいなぁ、王子さま」

 王子さま? その悪趣味な冗談はなんだ、と顔をしかめた瞬間に、思い至った。

 四年前、両親と再会した代りにマナナやレナードたちと引き離されたボクが暇に任せて彷徨っていたあの白い施設で、確かにボクは王子さまだと自称したことがあった。車椅子に埋もれるように座っていた少女に、だ。真っ黒焦げのタルト・タタンの童謡を教えてくれたのも彼女だった。でも。

「あれは、シシリだった。ボクが護ってあげると言ったのは、シシリに、だ」

「違うよ」

 完璧な調和で、二人分の否定が滑り込んだ。あまりにも綻びのない同調だったから、どちらか一人だけの声かと思ったくらいだ。

 ボクは首を廻らせてシシリを見る。そしてベッドの少女を、確認する。二人ともがもう口を噤んでいる。けれど、間違いなく二人同時の発言だった。

「君は」

「わたしは」

「僕を護るって言ったんだ」

「君を護る側だ」

 喉の傷痕に似合わないシシリの澱みなさと、電子ブザーを彷彿させる少女の声が、なぜか聞き分けられない。髪の長さと瞳の色が違うだけの、まったく同じ顔の二人がボクを見据えて正反対のことを言う。

「……ボクがあのとき逢ったのは、どっちのシシリなの?」

「どっち?」少女は、げふっ、と大きな空気の塊を吐いた。笑ったのかもしれない。「僕とシシリはまったく別の人間だよ。君はシシリじゃなく僕を、護ると言ってくれたんだ。君自身の意思で、僕を選んでくれたんだよ。覚えてるだろう? 僕は魔女に食べられるタルトのほうなんだって」

「君は、シシリのなに?」

「ジギィ」シシリの懇願が割り込む。「説明、して。これは、なに? この女は、わたしの、なんなの?」

「冷たいね」少女は微笑んだまま一本調子に続ける。「僕が誰か、覚えてないの? 思い出せないの? 君は、本当に僕を忘れてるの? まだ思い出さない? 僕が、君に自由をあげたのに」

「自由? わたしに自由をくれたのはジギィだ。ジギィが、わたしをあの檻から連れ出してくれた」

「彼にそう命じたのは、僕だよ」

「……お前は、誰だ」

「イヴァンジェリン・A・プラント」

 少女の即答に、シシリは舌打ちだ。

 そんなシシリの反応を楽しむように、イヴァンジェリンと名乗った少女はぐふぐふと喉を鳴らす。

「名前なんかどうでもいいって顔だ。でも、そのくせ君は僕の答えに安堵してる。わかるよ。君のことはなんでもわかる、知ってる。君は、僕が何者なのか、知るのが怖いんだ。君は昔からそうだった。いつもママの裾をつかんで、怖い話には耳を塞いで、目を瞑って、誰かが無難な解答を用意してくれるのを待ってる。君はそういう、ズルい子供だった。なにも変わらないね。セシリア」

「セシ、リア? わたしは、シシリだ」

「それは愛称だよ。君は、本当に子供のころの記憶を失っているんだね」

「……それが、わたしの本名だと?」

「セシリア・C・プラント」イヴァンジェリンは目元を淋しそうに緩める。「君が都合よく忘れた名には僕と同じ、そして君が仕事を請けている〈プラント〉の音が含まれている」

「それが……それがわたしの名だとして、君がわたしの過去を知る者だったとして、今のわたしにとってはただの、敵だ」

「敵? 敵だって」ごぼごぼと喉を鳴らして、少女は仔猫じみた仕種でジギィを仰ぐ。「僕がシシリの敵なら、シシリこそが〈タルト・タタン〉にとっての敵ってことになるね、ジギィ」

「……なにを、言ってるの?」

「君が言ったんじゃないか。君は、僕の敵なんだろ? ならジギィにとっても敵だ。〈タルト・タタン〉は全力で君を排除しなきゃならない。だってそうだろ? 〈タルト・タタン〉は僕とジギィが作った組織なんだから」

 まさか、とボクは無数のモニタと少女を見交わす。だって、全然想像と違う。スピーカを通してボクに語りかけてくれた声は、確かに機械変換されたような不自然さはあったけれど、男だった。それが、まさか、シシリと同じ顔をした少女だったなんて。

「……エヴァン?」

 ボクの喘ぎに、シシリの銃口が下がった。拳ひとつ分だけ。

 見計らったように薄暗い廊下の奥、玄関扉の開閉音が響いた。

 シシリが大袈裟なくらい飛び退いて、体を捩じる。即座に拳銃を構え直して、半瞬だけ照準する相手を迷ってから廊下の足音を狙った。

 軽快に廊下を進んでいた人影が、たたらを踏んで立ち止まる。

 空白が一呼吸。そんな中で、ジギィだけがいつも通りだった。くたびれた開襟シャツのポケットから煙草を出して火を点けるわけでもなく咥えると、「大丈夫だ」と廊下の人影を促す。

「シシリは、撃たない」

 明確な、命令だった。シシリは構えをそのままに、引き金から外した人差し指を伸ばした。

 廊下の人物が、まだ戸惑う速度でそろりと部屋から漏れる明かりの下へと歩んで来る。

 白いタイルを踏むスニーカーが顕わになった。ストッキングで包まれた脚と紺色のスカートと、やっぱり白衣が膝から上を包んでいる。

 母、だった。ボクの、死んだはずの、母だ。

 記憶通りの、母がそこにいた。四年前、〈緑の虎〉の少年兵たちと一緒くたに施設へ連れて来られたときと同じ色彩だ。皺と白髪が増えたかもしれない。でもきっと、あのころのボクが母の老いを意識していなかっただけで、然程変わっていないのだろう。

 母さん、と日本語で呼んだつもりだったのに、鼓膜に届いたのは嗚咽だった。息苦しい。胸に閊えた言葉と想いとを吐き出したくて手を伸ばす。その爪先が、赤く汚れている。幻だ。四年前に兵士だったボクが殺した、そして今、ここに辿りつくまでにボクの行動の犠牲になった、たくさんの人たちの憎悪が見せる、在りもしない幻影だ。

 途端にウエストホルスターに納めた拳銃が重みを増した。それを扱える事実を、知られたくなかった。ボクは体を捻って母からホルスターを隠す。丸腰なんだ、と主張したくて、でも握った掌を開けない。開いてしまえば、ボクを振り切った腕が母を抱きしめてしまいそうだったから。伸びた爪の痛みに集中して母を――このロクでもない旅の始点である相手を、「母さん」と呼ぶ。より先に。

「と、おる……」

 母がタブレット端末を取り落とした。両目に涙を溜めて、四年前の再会と同じように両腕を広げて駆け寄ってくる。

 乱暴なくらい力強く腕をつかまれて、引き寄せられた。顎先を母の頭にぶつける。四年前にすっぽりとボクを包んでくれた母は、もうボクよりも小さくて頼りなかった。母の背に回した両腕に力を込めることすら躊躇われる。

「徹!」

 日本語の、一本調子のイントネーションに息が止まった。心臓がバクバクと煩い。こめかみに汗が浮いて、眩暈がする。ひどい渇きを自覚した。

 母に頬を擦りつける。その寸前で、母が消えた。ボクも突き飛ばされて尻餅をつく。

 シシリの背が、眼前を塞いでいた。母に圧し掛かって、母の眉間に銃口を食い込ませている。

「ドクター……、ドクター・リック」獣じみたシシリの唸りが、母の愛称を形作った。「覚えてる、知ってる。わたしはお前を、知ってる! わたしをずっと、あの檻に閉じ込めていた張本人だ」

 シシリの呪詛を、銃声が切り裂いた。

 血の気が引いた。シシリが母を撃たれたのかと、思った。

 でも、誰も倒れなかった。母もマナナも、シシリだって無事だ。緊張しすぎて痛む首を廻らせて甘苦い硝煙の臭いを辿れば、ジギィの拳銃が控えめな白煙を隠すところだった。

「彼女を離せ」

 シシリにとってジギィの命令は絶対だ。少なくとも、数時間前まではそうだった。だからたぶん、シシリが拳銃ごと両手を肩の上に上げたのは条件反射だろう。彼女はホールドアップ状態で一歩、ボクからも母からも距離をとる。今にも銃弾を放とうとしていた指すら、関節が伸ばされて引き金から外れていた。

 その隙にマナナが母の肩を抱いてベッドの傍、エヴァンらしき少女を挟んでジギィとは反対側に陣取る。顔を上気させた母はマナナの陰で膝を突くと、薄桃色のベッドに縋って爪を立てた。突然シシリから向けられた殺意に腰が抜けたのかもしれない。

「物騒だね」ベッドの少女が、黒い指で母の髪を弄ぶ。「でも、思い出せたようで安心したよ。リックは君にとっても命の恩人だろう?」

「……恩人?」

「そう、トールの母は僕らの恩人だ。彼女がいなければ僕も君も、とっくに死んでいたんだから」

「今ここで」シシリがゆっくりと銃を構えに乗せていく。声は、上ずったままだ。「お前を殺してやる」

「できる?」

 小首を傾げた少女の隣で、ジギィの銃が真っ直ぐにシシリを照準していた。シシリとお揃いの、〈タルト・タタン〉のメンバーが持つ拳銃だ。

 シシジの吐息が「ジギィ」と喘ぐ。

「説明、して」

「ホームに〈緑の虎〉を引きいれたのは、俺だ」

「どうして?」

「ホームにミサイルを撃ちこんだのも、俺の意思によるものだ」

「理由が、ない」

「お前は、必ず俺を追ってくると信じてた」

 ジギィの囁きに打たれたように、シシリは体を硬直させる。

「俺は、エヴァを裏切れない」

 シシリは力なく腕を垂れる。

「俺の任務は、お前をエヴァの下に連れてくることだ」

 勝ち誇ったように少女の、肘の辺りまで変色した腕がジギィの首筋に回った。従順なジギィの頭を引き寄せて、胸に掻き抱いて見せる。火のないジギィの煙草が恥じらい色のシーツへ落ちた。

 シシリは唇の隙間から弱く空気を追い出して、ゆるりと白い歯を食いしばる。

「ねえ、シシリ」ベッドの右側にボクの母を左にジギィを跪かせた少女が、嘲笑を滲ませる。「いや、せっかく顔を見られたんだからセシリアと呼ぼうか。君との傭兵ごっこは、子供のころに戻ったみたいで本当に楽しかったよ。本当に……」

「君がエヴァンだとして」

「エヴァンは〈タルト・タタン〉用の愛称だよ。昔の君は僕を、エヴァと呼んでくれて」

「君が!」悲鳴に近しい鋭さで、シシリが少女の名乗りを妨害した。「わたしの知る〈タルト・タタン〉の電子オペレータだとして、それを証明する方法はあるの? 君がエヴァンを自称するなら知ってるはずだ。わたしはジギィに逢うまでの過去を、一切持っていない。それから先だって、トールを助けた辺りまではあやふやだ。その空白につけこんだ君の主張に、どんな正当性があるというの? 君のその顔を見ればわたしの関係者だろうと見当がつく。でも、だからって、それが今のわたしとジギィにどんな関係があるっていうの!」

「君は記憶を失い、僕は体を失った」

 エヴァンが表情を消した。掻き抱いていたジギィを突き離すと、シーツを不器用に託し上げていく。

 その間も、ジギィの照準がブレることはない。彼の銃口はいつでもシシリを殺せる位置を滑っていく。

 薄桃色のシーツの下から、エヴァンの両足が出た。どす黒く血管が浮き出た白い左足と、艶を帯びた黒い右足。

 ちぐはぐだった。エヴァンの瞳と同様、彼女の足も左右が全く噛み合っていない。

「今朝、届いたばかりの足だから、しばらくはもつよ」

 腰の辺りでわだかまったシーツ越しに自らの太腿を撫でて、エヴァンは悪戯を思い付いた子供に似た角度で唇を綻ばせた。

「マナナが厳選してくれたこの足の持ち主を今朝、君たちが僕に届けてくれたんだ」

 四人足りない、〈緑の虎〉の子供たちだ。雷に打たれたように、悟る。ホテルの裏手にあった空港から、ジギィのヘリでクウェートの病院に連れて行かれた子供たち。

 それを、マナナが選んだ?

「どうして……」

 エヴァンは恍惚と、黄金色の眼が嵌った左の瞼に触れる。

「でももう、部品を挿げ替えるのは終りだ。ようやく、終る。この瞳をマナナから得たように、今度はセシリアから体の全部をもらうんだ」

「それが、マナナの眼……」

 愕然とした呟きが、虚言だと自覚していた。ボクは衝撃を受けたフリをしたかっただけだ。本当は、一目見たときからわかっていた。理性よりもっと深いところで理解していた。獲物を狙う黒猫に似た、光の加減によっては緑にもなる黄金色の瞳。あれは、マナナのものだ。四年前、〈緑の虎〉にいたマナナが両眼に有していた輝きだ。

 シシリとジギィによって施設から連れ出されたときにはガーゼに塞がれていたマナナの左眼が、昼間に再会した彼女がガラス玉で補っていたそれが、エヴァンに嵌っている。

 息苦しくなって、ボクは自らの喉に爪を立てる。傷痕もスカーフもない無防備な皮膚を掻きむしりながら、ボクはボクの母を睨む。

「母さんが、やったの」

 確信を込めた詰りに、けれど母はきょとんと幼い仕種で首を傾げた。

「四年前、あの施設には母さんがいた。母さんが、マナナから眼を奪って、彼女に埋め込んだの? その脚も! 母さんが子供たちから斬ったっていうの」

「そうしなきゃ、エヴァが死んでしまうのよ?」

 母は心底戸惑った表情を浮かべる。本当に、どうしてボクが母を責めるのか、わからない様子だった。

 ボクは全てを諦める。憤ることも詰ることも、嘆くことだって今の母には通じない。完全に狂っている。だからボクは、「君は」と矛先をマナナへと転ずることにした。

「どうして〈緑の虎〉を裏切ったの?」

 手持無沙汰そうにカラシニコバの射撃軸を彷徨わせていたマナナは、虚を衝かれたように瞬いた。

「どうして君から眼を奪った相手に、どうして仲間を売ったの? 君はあの子たちを、自分の子だって言ってたじゃないか」

「トールだって、私やリックたちを撃った相手と行動していたじゃない」

「それは……」

 シシリのことだ。四年前、両親やマナナたちと別れるとき、シシリがみんなに向けて発砲したことは覚えている。でも、テロリストから救出されるまでシシリのことなんて忘れていたし、彼女と行動したのはボクが結んだ契約のためだ。

 死んだはずの母と再会するための、契約。

 不意に、ボクはその契約を持ち掛けてきた相手に、正しい相手に、思い至る。ボクが拘束されていた国境警備隊の取調室で受けた電話は、女の声だった。

 目の前に、シシリと同じ顔をした少女がいる。彼女はボクの母が生きていることを知っていた。そしてなにより、ボクを救出してくれた〈タルト・タタン〉の電子オペレータにして、創設者の一人だ。

「君は……なんなの?〈プラント〉って、なに! いったいなにがしたいの?」

「僕らを護ってくれるんだろ、王子さま」いつかの冗談を蒸し返したエヴァンは、従えたジギィと母に両腕を広げながら厳かに宣言する。「僕は生きたいだけだよ。できれば自由に、動ける体がほしい。贅沢な望みかな?」

「子供たちを犠牲にして叶える望みが、慎ましいと思ってるの?」

「人殺しの本能を植え付けられた子供たちだ。少年兵としての本能を捨てて更生できる子供たちは、里親の下で暮らしてる。社会復帰もできない人殺しだけを、僕らは出荷してる」

 拘束衣に包まれて涙を浮かべていた患者が脳裏を過る。ついさっき廊下ですれ違った男が、娘にキスをしたい、と言っていた声まで甦る。

「僕らは子供たちを正しく更生させている。でも慈善事業じゃない。彼らの更生には常に莫大な費用が掛かる。保護した彼らの衣食住、最低限の教育や職業訓練、医療費やメンタルケア。たった一人を更生させるのに三〇〇〇ドルはかかるんだ」

 三〇〇〇ドル、とボクは愕然と繰り返す。たった、三〇〇〇ドル。ボクがこの旅に出るきっかけは五〇〇〇ドルの予備校費用だった。車の下敷きになって死んでしまった〈緑の虎〉の女の子の命はたった五〇〇ドルだった。リューイは、たった一月で七〇〇〇ドルを稼いだこともあると言っていた。

 きっとエヴァンは、本当に何人もの子供たちを更生させてきたのだろう。一人が三〇〇〇ドルで済んでも、人数が多ければ費用もかさむ。それは理解できる。

 けれどもう、今のボクにはわからなかった。人生をやり直すのに三〇〇〇ドルというのが、適切な金額かがわからない。いや、子供たちの人生に、命に値段をつけることのぜひが、わからなくなっていた。たぶん、正しくない。そう思うのに、エヴァンを糾弾する言葉がなに一つ浮かばない。

「ただの人殺しである少年兵を人間に戻すための費用を、少年兵たちに賄ってもらうのは自然なことだろう?」

『ご立派な主張ね』

 唐突に、本当に突然、ロシナンテの声が割り込んだ。

 ジギィが素早く銃口を廊下へ向ける。ボクを突き飛ばさんばかりに駆けだしたマナナが、体ごと扉にぶつかって廊下を遮断した。

 でも扉は静かに佇立したままだ。玄関扉が破られる気配もない。ロシナンテの声が幻聴だったかのように、静かだ。

 エヴァンが勢いよく壁のモニタ群を仰いだ。地下駐車場や白い廊下は平和だ。暗緑色で映し出される〈タルト・タタン〉のホームも銃撃戦の真っ最中だ。到底この建物に危害を加えられるはずがない。

「……どうして」

『〈ヒューゴ〉社は先端医療、それも移植の分野で突出した成果を遺していたわね。ずっと疑問だったのよ。あれだけの臓器ビジネスを、どうやって成り立たせているのか。まさか民間軍事会社PMSCsとして少年兵の身柄を集めていたなんてね』

 ジギィは天井にある丸いスピーカに「ロシナンテ」と呼びかけるでもない声量だ。

 胸の前で両手を握り合わせたマナナが、ほう、と柔らかい吐息を漏らす。

「〈緑の虎〉は、私の子供たちは、負けたのね」

『ようやく辿りついたわ。初めまして、と言うべきなのかしら、エヴァン。それともいつも監視してくれてありがとうと言えば好いかしら』

 乾いた破裂音がした。スピーカに集中していたボクは咄嗟に誰かの死を覚悟する。でも、発砲音じゃなかった。

 エヴァンの掌が宙で停滞している。ジギィの頬を張ったらしい。でもジギィはダメージなんて負っていない。横目にエヴァンの腐った血色の細腕を見下ろして、素直に「悪い」と詫びる。

「裏切る気?」

「気付かなかったんだ」

「嘘だ! 君が気付かないはずないだろ! わざと見逃したんだ!」

「違う。本当に気付けなかったんだ。悪かった」

 ボクはもう一度モニタに眼を移す。〈タルト・タタン〉のホーム交わされる閃光の感覚を、注意深く観察する。発砲が三度、連続した射撃が二秒とちょっと、大きな爆発が一度、そしてまた三度の発砲。同じパターンを繰り返していた。ボクでさえ少し眺めていればわかるくらいの単調な細工だ。

『あら、仲間割れ? 好くないわ。仲間は大切にしなきゃ。ねえ、そうでしょ?』

 ばんっ、と圧縮された重たい衝突音が轟いた。扉を護るマナナが身を竦ませる。ジギィがエヴァンを引き寄せて、母がベッドの下に頭を潜らせる。ボクだって肩が痛むくらいに体を緊張させる。

 立て続けに二度、三度と衝突音がして、ブラインドの下にガラス片が降り注いだ。

 ぎょっとエヴァンが窓脇へ身を寄せる。壁を遮蔽物にしてチルトポールを回してブラインドを完全に閉ざした。

「残念だね、ロシナンテ」シーツを握り締めたエヴァンが、嗤う。「僕が君の狙撃を想定していないはずもないだろう。七.六二ミリじゃ抜けないよ」

『そうね。でも、安心してちょうだい。まだ十六発あるわ』

 また部屋を衝撃が襲って、ガラスが騒いだ。ブラインドは無傷だ。幾重にも圧着された防弾ガラスの、内側何枚かだけが弾けているのだろう。

 でもロシナンテの狙撃精度を考えれば、貫通は近い。

「これで残りは十五発……困るなぁ。ねえ、ロシナンテ。考え直してくれないかな。君は〈タルト・タタン〉の警備員であって、シシリの私兵ではないだろう?」

『そうね、それもいいかもしれないわ。ねえジギィ、〈タルト・タタン〉のボス。この状況で、あたしはどちらに付くべきかしら』

 マナナが吹き飛んだ。蝶番ごと外れた扉が、白煙を引きながら倒れ込む。アーミーブーツの底が扉ごとマナナを踏みつけて、ついでとばかりに戸板越しに足先辺りにアサルトカービンの銃弾を撒き散らした。濁音だらけの悲鳴が迸る。

 それを飛び越えて、さらにもう一人が踊り込んだ。

 咄嗟に反応したマナナのカラシニコバが、けれど引き金が落ちなかったように膠着した。後頭部に当てられたアサルトカービンのせいではないだろう。マナナは痛みに乱れる呼吸で、乱入者の名を、呼んだ。

「レナード……」

 マナナと揃いのカラシニコバを構えたレナードが、素早く振り返る。

 破られた扉ごとマナナを踏みつけているのは、リューイだ。さらに黒い肌と鋭い眼光を有した二人の少年が、ハーフパンツにカラシニコバというアンバランスな恰好で入って来る。

『ほら、ね』ロシナンテの軽薄にも聞こえる語調が満ちていく。『仲間を大切にしないと好くないことが起るのよ、ボス』

 細切れの悲鳴に塗れるマナナを足場にしたリューイが、M4カービンを廻らせた。真っ直ぐに、ジギィとリューイの銃口が交錯する。

「神さま」と床を掻いて、マナナが虚ろに祈った。

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