命の値段
〈18〉
応接室を「牧草の匂いだ」と言ったのは、シシリだった。確かに応接室は畳敷きで、その上に外国産の絨毯を広げている。ボクにはほとんど感じられない匂いも、畳に馴染みのないシシリには刺激が強かったらしい。
もっとも、今となってはとろけたチーズと油の匂いでかき消されていた。
大きなテーブルには所狭しとピザの箱が口を開けている。ついさっき届いたばかりのそれを所望したのは、ロシナンテだ。
テーブルの左右には三人掛けの黒革ソファーが配されていて、一番上座には一人掛けのそれが据えられている。
上座の一人掛けソファーは空だった。上座に近い方からリューイとシシリが左側の三人掛けに、ボクとロシナンテが右側に、それぞれ座っていた。
そして空の一人掛けソファーの対岸、テーブルを挟んだところにある戸口に背を向けて絨毯の上に直接、ボクの伯母と伯母の息子が座っていた。二人とも、ボクらが話す英語は理解できるはずなのに、会話に入ってくることもなく黙りこくっている。
六歳からずっとこの伯母の家で暮らしていたのに、応接室に入ったのは初めてだった。重厚な家具が、見栄っ張りな伯父の性格をよく表している。蓄音機を模したオーディオセットには、これ見よがしにクラシックレコードが立てかけてあった。壁の高いところには額縁に入った賞状だの資格証だのがずらっと並べられている。そのどれもが伯父と伯母と二人の両親にかんするものだ。
紙皿なんて上品なものを使うでもなく、シシリもリューイも千切ったピザ箱の蓋に自分の分の一切れを確保している。ロシナンテだけは、彼女用に注文した野菜のピザを丸一枚膝の上に載せて独占していた。
「ベジタリアンだったの?」
意外に思って訊いたボクに、なぜかリューイが「ただの偏食だろ」と応じてくれる。
「人の頭を撃ってるくせに肉は食わないなんて、ナンセンスだ」
「うるさいわね。それであなたたちに迷惑はかけてないでしょう」
「なら、俺の皿に避けた肉をいれるなよ」
「愛情よ。ジギィだって、シシリに野菜をあげてたでしょ」
ここにはいない相手の名前を出して、ロシナンテは鼻を鳴らした。
「ありゃ、愛情っていうより、野菜嫌いだろ」
「ジギィって、野菜食べないの?」
「子供みたいよね」
「ジギィは」シシリが、リューイのピザから輪切りのピーマンを抓み上げながら目を細める。「子供のころ、たくさん野菜を食べてるから大丈夫だって」
ピーマンの代りだ、というようにシシリからベーコンを奪ったリューイが呆れ顔だ。
「それ、ゴミ箱からクズ野菜を拾い集めて食いつないでたっていう、悲惨な幼少期の話だろ」
「だから今は肉をたくさん食べて、子供のころ足りてなかった分を補うんだって」
「お前、いろいろ騙されているよ」
冗談とも本気ともつかないシシリの弁護を憐れんだのか、ロシナンテは自らのピザから、数秒迷った末にナスを抓んでシシリの口に直接ほうり込んであげている。油できらきら輝く彼女の爪は、赤と白のツートンカラーだ。せっかく日本に行くのだから気合を入れたのだ、と言っていたのは、数日前に受けた国際電話でのことだった。
ボクはレースのカーテンの隙間から、薄紅色に揺らぐ空を仰ぐ。もう夜の七時に近いのに太陽の気配はいまだ健在だった。耳を澄ませば眠るタイミングを逸した蝉の声が聞こえる。
シシリに助けられ、マナナやレナードとの過去を思い出し、母と再会したあの旅を終えたのは、春だった。日本に戻ったボクはずっと、ロシナンテと連絡をとりながら様々な手続きを済ませていた。
それが今日、実を結ぶ。
唐突に、応接室の扉が開かれた。くたびれたワイシャツにノーネクタイという姿で、伯父がいた。驚いたように眼を瞬かせ、けれどすぐに狡猾さの滲む笑顔になる。
「やあ、いらっしゃい。コウスケの友達かな」
コウスケ、と浩輔と変換するまでにボクは数秒かかる。それが伯母の息子の名前だと理解するのにさらに半秒を費やした。
「どうも、お邪魔してます」無難に会釈したリューイは、口の端からチーズを引きながら訛のない日本語を話す。「せっかくピザをとったので、よければご一緒にいかがですか」
「そうかい? 邪魔じゃないかな。オジサンの話なんて聞いてもつまらないだろう」
照れたようにだらしなく頬を緩めて、そのくせ伯父は当たり前のように上座の、一人掛けソファーにふんぞり返った。
その瞬間、さっと伯父の顔色がかわった。伯父の腰が浮く。
即座に、リューイのアーミーブーツの靴底が、伯父の肩をソファーに縫い留めた。
「ああ、失礼」平然とピザの続きを口に入れながら、リューイが嘯く。「日本では、靴を脱いで家にあがるんだった。海外生活が長いもんで、忘れてたよ。でもまあ、あんたの返答次第じゃもっと汚れるんだから、土足くらいで怒るなよ」
口を無為に開閉させた伯父は、頓狂な声で「お前たち」と囁いた。ひょっとしたら叫びたかったのかもしれない。
伯父の真正面、ピザで賑わうテーブル越しに、伯母と浩輔が大人しく項垂れていた。両腕を後ろ手に縛られ、その紐の先を両足首につながれた状態で座っている。猿轡はない。必要ないからだ。
この家にシシリとリューイを招き入れたのは、ボクだ。
「着いた」
「今行く」
ボクの携帯電話に残るたった三秒の通話記録が、ことの始りだった。
ボクが自分の部屋から玄関扉を開けるまでに十秒と少し。アーミーブーツとジーンズという恰好で、歳の離れた仲の良い兄妹みたいな装いをしたシシリとリューイが土足で踏み込むのに二秒。
異変を察した伯母はキッチンから顔を出した瞬間に、シシリが引き倒していた。リビングで医学書を読んでいた浩輔には、リューイが対応した。
ボクが玄関の鍵を閉めてリビングに行ったときにはもう、二人ともが縛り上げられていた。その凶行の間、悲鳴は一度も上がらなかった。
引き倒されて縛り上げられるまでの十数秒で、伯母と浩輔は正しくシシリとリューイがプロフェッショナルであることを悟ったのだ。プロは、残酷なくらい冷静だ。場合によっては、悲鳴一つと相手の命とを等号で結んでいる。
けれど伯父にはそれがわからないらしい。
「どういうことだ!」一度声が出ればあとはもう、自分を鼓舞するような怒声が伯父の喉を震わせる。「徹! お前の差し金か! 育ててやった恩を忘れて家出したかと思えば!」
「うるさいわねぇ」
のんびりと言ったロシナンテに、シシリが応じた。
素早く立ち上がったシシリは浩輔の髪を掴んで顔を上げさせると、隠し持っていたナイフを反らせた喉へと添える。ピザを切り分けるにはいささか小ぶりな、それでも〈タルト・タタン〉に似合いのファイティングナイフだ。
「医者になるのに」シシリが切っ先を浩輔の喉から頬へ、瞼から耳朶へ這わせる。「絶対に必要な部分は、眼と指くらいかな?」
焦った顔で、伯父は「やめてくれ」と急に弱気な懇願だ。
「君が」シシリの声音は、伯父とは対照的に冷めている。「おとなしくトールの話を聞いていれば、彼を傷つけたりはしない」
「なにが望みだ。こんなマネまでして……」
「伯父さん」ボクはゆっくりと、言葉を英語に切り替える。シシリたちにもわかるように、だ。「これは脅しじゃないんです。もちろん、相談でもない。ボクたちはただ、業務提携の申し込みをしに来たんですよ。いや、承諾してもらいに来た、かな? 手続きは済んでるんです。明後日には伯父さんの病院に新しい機材が届く」
「機材……?」伯父の顔が困惑と恐怖に歪む。「なんの、機材だ」
「ボクは」体を乗り出して、両手を膝の間で組む。「母さんの跡を継ぐんだ」
不吉な死神を前にしたように伯父が青褪め、視線が泳ぐ。
ボクは、ソファーに縫い留められた伯父に顔を近付けて、下から覗きこむ。伯父の動揺が呼吸となってボクへ伝わってくる。
「日本は高度な移植技術を持つにもかかわらず、臓器が少な過ぎる。だから他国へ渡って、その国の人々が受け取るべき臓器を金で横取りする。そういうのって、好くないと思うんだ」
「あ、ああ、そう、だな。でも、病気の本人やその家族にしたら、どんな手を使ってでも健康になりたいし元気にしてやりたいと思うものだろう」
「ボクたちは、少年兵士をこの世界から狩るんだ。もう、誰も人を殺さなくてすむように、適切な教育を受けさせて社会に戻す活動をするんだ。それが、母さんが望んだことだから」
「い、いいことだな」引きつった声で、伯父が上辺だけの同意を示す。
「でもね、どうしても更生できない兵士が出てくる。ボクらは、それを伯父さんにあげる」
そうしてボクは、一枚の書類を掲げる。
林檎のマークが入った、〈ヒューゴ〉からの投資計画表だ。伯父が運営する病院の見取り図から経営状態までを調べ尽くし、不足している設備とそれを整えるための費用が算出されている。
「伯父さんだって医者なんだから、人殺しを続ける子供たちより、人を殺さない人たちを生かしたいと思うだろう?」
伯父は一呼吸だけ、それでも確かに恍惚と瞳を解かした。その瞬間を見逃さず、ボクは畳み掛ける。
「大丈夫。必要な設備投資は〈
世界を、平和にしよう。
そう囁いたボクを横目に、伯父は壁を見ていた。壁に並んだ数々の額縁だ。伯父自身の称号と、両親や祖父母の功績が、絨毯に惨めに座る彼の妻や息子の存在を欠き消している。
ボクは片手を挙げて、リューイに「十分だよ」と伝える。
リューイの足が下りても、伯父は抵抗らしい行動の一切を見せなかった。両手を顔の前で擦り合わせて、うっとりと眼を眇めている。
シシリはナイフを翻すと、ジーンズの裾を捲りあげてそこに固定したスツールに刃を治める。出番のなかったナイフが不満そうにきらめいていた。
ボクのハーフパンツの腰、シャツに隠れたホルスターに眠る拳銃も、退屈そうだ。
ボクはひどくつまらない気分で「そういえば」と伯母に顔を向ける。
「伯母さんは、ボクの母さんが、好き?」
「え……」
真っ赤な口紅に染まった伯母の声から、干乾びた声が出た。
「ボクの母さんだよ。好き?」
「え、ええ。妹だもの。でも……」
「助けたい?」
「縁子は、死んだのよ」
シシリが億劫そうに襟元を寛げた。ピザの油に胸やけを起こしたのかもしれない。
白くしなやかな彼女の首を、一文字の傷痕が蹂躙している。彼女が、ボクの母によって死の淵から生還した証だ。
きっとボクの母にも、あれが似合う。そうなれば、片足で不自由をさせることもない。
「母さんを、助けてよ」
姉妹なんでしょう? と問うて、ボクは後ろ手に〈タルト・タタン〉のみんなとお揃いの拳銃を握り締める。
了
ガンメタル・グレイエリア 藍内 友紀 @s_skula
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