五〇〇〇ドルで死の旅へ 1
〈1〉
自分の息がひどく熱かった。目の粗い麻布越しに、チラついては遮られる光が危うい意識を刺激する。頭に被せられた麻袋は隅にへばりついた埃だか粉塵だかと相まって、過呼吸気味の今のボクには拷問じみていた。
硬い床に突かされた両膝の感覚はもうない。いや、この部屋に連れて来られる前からなかったのかもしれない。もう随分と長い間、自分の足で歩いていない気がした。今のボクを支配しているのはうるさいボク自身の心音だけだ。緊張と恐怖に逆上せた顔が熱く
――あのときとは、違う。
そう思ってから、あのときっていつだ? とも思う。こんなバカ気た状況にいつ遭遇したっていうんだ、と笑いそうになって、結局喉をせり上がった胃酸を飲み下す音に変換された。
小学校に入るまでは両親とずっと海外を回っていたし、一人きりで日本に戻されてからも夏休みごとに出国していた。両親は毎年違う国にいたけれど、そのどれもが治安の悪い最貧国と呼ばれる場所だった。だから大丈夫だと過信してしまったんだ。
急に耳元で男の声が響いて、体が跳ね上がった。誰かが強張ったボクの両肩を手荒に押さえつける。抵抗するつもりだと誤解させたのかもしれない。男の声は全方位から朗朗とボクを呪うようだ。意味はわからない。ときどき英語らしき発音も聞こえたけれど、すぐに知らない言語に攫われていく。両親の葬式でスピーカから流されていたお経にも似ていたけれど、きっとそんな平穏な文言ではないのだろう。もっとも四年前、あそこに並べられた両親の棺は空っぽだった。
過去の幻が白く潰れる。髪の幾筋かとともに手荒く麻袋を剥がれたんだ。明度の変化に動揺した眼球が痛む。
てろんとした長い上衣を着た男が眼前に立っていた。濁った白一色の服に巻きついた金の弾帯と黒い肩ベルトに吊られたアサルトライフルのコントラストが、どこか非現実的な彩度だ。頭に載った布製の鐔なし帽が落ちないことが不思議なくらいの身振り手振りを交えつつ、男はボクに背を曝して必死になにかを語っている。
ボクを押さえつけている男たちが、ボクの頭をつかんだ。
無理やり顔を上向けられて首の後ろが痛む。視界の端に銃口がちらついた。急激に自分の呼気が冷えるのがわかった。自分の状況を理解しようと、脳が極限まで活動を高めていく。
人質を軟禁する部屋にしては驚くほど凡庸で、整った部屋だった。壁際には頭からつま先までを布に秘めた女性たちが装飾品じみた静謐さで三人も佇んでいるし、その内の一人の裾には五歳くらいの男の子が縋りついている。テーブルでは髯面の青年たち四人が肩を寄せて談笑するようだ。
揚々と演説をぶっていた男が不意に体ごと振り返った。ボクはようやく男の話し相手を知る。
ビデオカメラだった。三脚の上に納まった黒いレンズが無表情にボクを見据えている。その傍らにビデオとケーブルでつながれたノートパソコンが置かれていた。
別の男が、脇でスケッチブックを掲げている。黒くのたくった落書きが文字だと気付くのに一拍かかった。そこに書かれている文句を読めと言われているんだとは理解できる。英語らしいということも、わかる。英語は得意科目だ。伊達に六歳まで両親とともに地球のあちこちを旅していたわけじゃない。両親が所属していた医療団での会話は概ね英語だった。
口を開いた。パキと唇がひび割れたのを感じながら一単語目を音にする。はずだったのに、頭が真っ白になった。脳はきちんと文言を捉えているのに、それが喉より深いところで凍りついている。
演説男が銃口をボクの右目に押し付けた。急速にボクの意識は漆黒の穴底に集中する。あんなに克明に捉えていた周囲の人々も、掲げられた文句もビデオカメラも、ボクを拘束する男たちすら遠く感じる。
演説男の指一本で、この穴から送り出される銃弾がボクを殺す。そんな当たり前の可能性が、唐突に現実味を帯びた。
だって、あの女はそんなこと教えてくれなかった。ただ大人しくテロリストたちの人質になっていれば命の危険はないって、そういう話だった。そういう、契約だった。話が違う! と喚きたくて、それなのに呼吸ひとつ満足に紡げない。
そんなボクの代弁者を気取ったのか、演説男は首を捩じってカメラを怒鳴りつける。うっかり力加減を間違われたら最後ボクの頭が吹き飛ぶというのに、男は銃をつかんだのとは逆の手で手帳のようなものを振りかざした。
ボクのパスポートだ。男はカメラとノートパソコンを介したインターネットの向こうにボクの素性を明かして、ボクが彼らの要求に足る人間かどうかを試しているんだ。
左肩を圧していた男が屈みこんだ。バシッ、と窓の木板までが同情じみて鳴いた。その妙な親切具合にぎょっと腰を引く。その反動で、今度は右肩の男がふらついた。
ターン、とやけに間延びした音が遠くからして、ほとんど同時に右の男が受け身もとらずに顔から倒れた。
驚いた様子で演説男が振り返る。
その瞬間、テーブルの向こうで扉が爆発した。違う、扉を蹴破って飛び込んできた影のあまりの素早さに、そう見えただけだ。
突入者たちが雷鳴じみた発砲音を轟かせた。皿が弾け、抉られた壁と硝煙が世界を霞ませていく。演説男が一番に、次いでノートパソコンの男が体を捻ったところで、女たちに至っては身を竦ませたまま壁に背を擦って、崩れ落ちる。子供の大きな瞳が、無反応に床からボクを映していた。
時間にして六秒もかかっていない。
ゆうらり、と突入者がボクへ歩み寄る。二人だ。たった、二人。転がる死体は、十にも上るのに。
突入者の小柄なほうがボクの前で屈んだ。ポーチがたくさんついた砂色のタクティカルベストとヘルメットに、銃口から白煙を吐く軍人仕様のアサルトカービンを装備している。黒い覆面で隠した口元をボクの耳元に寄せて、兵士が囁いた。
「Hey, It’s been ages.」
女、だった。まだ若い、幼いとすら表せる声が、ボクを嘲笑う抑揚で『久し振り』と言う。
「二回目だね」
二回目? なにが? この状況が? それともボクと君が? いろんな疑問が胸に湧いて、結局喉から出てきたのは噯気が一つきりだった。
ふっ、と呼吸を緩めた女が、腕の縛めを切断してくれる。擦り傷だらけの手首を眼前にかざして、それが自分の意思で動かせることが信じられなくて、拳を握ったり開いたりを繰り返す。
その手を、もう一人の突入者にとられた。女と同じアサルトカービンの下に、こちらは筒状の
整えられた突入者の爪と散乱する死体と、絨毯に投げ出されたビデオカメラの前に屈む女兵士の背中を見比べて、吐いた。いや、吐こうとして失敗する。出てくるものなんてもうなにもない。酸っぱい胃酸が舌の付け根を痺れさせるだけだ。
「立てよ」ともう一人の突入者が、若い男の声でボクを促す。「せっかく助けに来てやったんだ。次が来る前に出るぞ」
次? と首を捻ったボクを、男はアサルトカービンを構えていない左腕一本で吊り上げた。膝が砕けて靴底が遊ぶ。「なにやってんだ」と呆れ口調の男に支えられて、ボクはようやく床を踏み締める。
カメラの傍らに屈んだ女が血溜りからスケッチブックを拾って、鼻を鳴らした。
「テロ組織指定と銀行口座の凍結を解除しろ、だって。ついでに身代金も四〇万ドル」
「安いなぁ。まあ、テロリストか聖戦士かって話は信仰してるモンに依存するからな」
嘆息した男に肩を竦めて、女は綻びだらけのデイバッグを持って戻ってくる。ボクの旅の唯一の同行者だ。死体の手からもぎ取ったパスポートをバッグに捻じ込んで、女は自分のヘルメットをボクに被せてくれた。白い額に黒髪の艶やかさが映える。
「前に逢ったときは名乗らなかったかな? わたしたちは〈タルト・タタン〉。
彼女たちがテロリストじゃないこととボクを助けてくれるつもりであること以外わからなかったけれど、それだけわかれば十分だったからボクは必死に首を上下させる。
大きく頷き返してくれた女はどこか幼い子供を相手にする顔付きのまま、声だけを低めた。
「わたし、パッケージ、リューイの順で出る」
「了解」
女の指示に、リューイと呼ばれた男は面倒臭そうに応じる。でも銃を抱え直す気配はどこまでも砥がれていた。
リューイに押されて、デイバッグを背負ったボクは扉の隙間から外を窺う女の後につく。胃酸で
「パッケージを回収」と呟いた女の横顔を見る。消去法で考えれば『パッケージ』とはボクのことだ。それなのに、彼女の言葉はボクに対するものじゃなかった。彼女は明るい外界へ含み笑いを向けて、右耳に入れたイヤホンからの指示に応じているらしい。怯えなんて欠片もない、むしろ、出掛けていいよ、と言われた家猫のように生きいきとしている。
「エヴァン、ロシナンテ、頼りにしてる」
肩から吊るしたアサルトカービンを右手で構えて左手で喉に巻きついた咽喉マイクを押えた彼女の首に、目を瞠る。
――傷痕が、あった。切断された首を無理やりつなげたような、大きくて長くて生白い、古い痕だ。
これを、ボクは知っている。
そう直感してから、理性で否定する。知っているはずがない。こんな傷痕を忘れるはずがない。彼女とは、確かに初対面だ。
女はボクを一瞥して、無造作に扉を潜った。ボクの襟首をつかんで、リューイも続く。
視線の高さにたたらを踏んだ。てっきり地上だと思っていたのに、二階だった。転落防止の白い土壁がボクらの首の高さまで作られている。その向こうは雑然とした四角い建物群だ。はためく洗濯物に交じってターバン姿の男たちが見えた。
頭上から怒声が降ってきた。テロリストの仲間だろう。先を行く女が体を捻りざまに発砲した。数秒して重たい落下音がしたけれど、音源を振り返るより先に階段へと連れ込まれる。
また、破裂音がした。今度は彼女じゃない。リューイでもない。垂直に空気が切り裂かれている。上階から撃ち下ろされているのか、はたまた地上でボクらを待ち構えている敵がいるのか。
転げ落ちるように階段の踊り場に出た。はずが、宙に投げ出されていた。首が絞まってえずく。階段の一段ずつを丁寧に跳ねる黒い塊が、落下する瞬きの間だけ見えた。と同時に腹の底が震えた。着地の衝撃じゃない。朱色の閃光が階段を焼いて、すぐに黒煙に変わる。
ぽかん、と口を開けたボクの横に、女の険悪な顔があった。なにかを叫んでいる。でも聞き取れなかった。だって、それどころじゃない。
――爆弾だ。手榴弾を、投げられた。人を殺すための武器が、ボクらに向けられている。
腹を圧せられて、我に返る。リューイの腕だ。ボクのベルトをつかんで立たせてくれた彼は、その手でアサルトカービンの肩ベルトのたわみも直す。
そそり立つ建物が弾けて砂埃になる。砕かれた粉っぽい地面を吸い込んで咽た。
女もリューイも、当たり前の顔をして応戦している。細切れの閃光を撒き散らしながら、二人は足手まといのボクを連れて建物の陰から細い路地へと走る。リューイに至っては脚を縺れさせたボクの体重を引き受けてなお、頭上の敵を撃ち落としていた。
数メートル前を往く女が急反転した。一歩でボクとの距離を詰めて、二歩目でボクの足を払う。つんのめって顔から地面に激突する、寸前で乱暴に引き留められた。ボクを転倒から護りながら、彼女は地を這うほどの姿勢から腕を廻らせてボクの背後を撃つ。応じて男も前方に乱射している。
敵なのか巻き込まれた哀れな一般人なのかわからない死体が路地の入口と出口に平等に築かれていく。
「立って」と女に言われて膝を伸ばしたけれど、ボクにはもう自分が立っているのか倒れているのかも判然としない。眩暈がひどくて世界が陽炎のように不確かだ。
導かれるまま大通りに出た。車と人が無秩序に入り乱れる両側には露店が並んでいる。
ボクらを認めて驚いたように顔を引きつらせた一人の男が、頽れた。噴き上がった血を潜るころにターンと軽い破裂音が届いて、ようやく理解する。
二人が突入してくる直前に響いた音だ。狙撃手がいるんだろう。
大通りの左右にひしめく群衆はとばっちりを恐れてか、慌てた様子で路地や店へと引っ込んでいく。銃を持った二人連れが薄汚れた男を引きずっているのだから当然だろう。それなのに、やけに静かだった。みんな迷惑そうな顔でボクらを睨むばかりで通報する様子もない。携帯電話を片手に見物している者までいる。
「あぁ、待って」と緊張感のない調子で女が身を翻した。「そのサイズはマズい」
女はボクを抱き寄せた勢いのまま、ボクの体を硬い道に叩き伏せる。息が詰まった。隣ではリューイも這いつくばっている。
通りの対岸で、男がなにかを振りかぶっていた。愚鈍なモーションから四角い箱が放たれる。緩んだ放物線を描いているのは、電気コードが巻きついた――爆弾だ。
彼女が発砲した。連射の反動が彼女の胸からボクへと直接抜ける。
男が力なく腕を垂れた。膝を突いて座り込む。でも宙を舞う爆弾はそのままだ。
彼女が体を反らして銃を向けるのがわかった。
その射撃軸から、爆弾が弾き飛ばされた。軽く一〇メートルほどを滑ったそれが、炎を生む。爆風に炙られた人々からようやく悲鳴が迸った。
吹き荒ぶ土くれや布地に紛れて、直近でボールが跳ねた。いや、頭、だ。虚ろに目を開いたまま、顎をぐずぐずに崩した男の首から上だけが寝惚けた速度でシーソーみたいに振れている。
強烈な眩暈に意識が遠退いた。心の底からこれがボク自身の夢であることを願う。そして数日前に結んだ軽率な契約を、これまでの人生で一番後悔した。
「さすが、ロシナンテ」とリューイが恍惚と呻く。「愛してる」
ロシナンテ――狙撃手の愛称なのだろう。滞空する爆弾を撃ち飛ばせる腕なのに元駄馬なんてひどい名だ。
傍観していた住民たちの視線に殺意が宿った。怒号が辺りを浸食し始める。
二人がボクを抱き上げた。死体を運ぶようにリューイがボクの腕を肩にかけて、彼女が逆の腕に潜り込む。二人が走るのに合わせて靴先が冗談みたいに跳ねた。地面や建物の破片だけじゃなく、爆散した死体の一部を引っかけているのかもしれない。
いつの間にか音が消えていた。脳が目に映る光景を理解していない。
通りの先に白いピックアップトラックが横付けされていた。漆黒の機関銃が、焦げた円盤状のステッカーが貼られた荷台からボクらを狙っている。
あれに引き裂かれるのか、とぼんやりと思う。無数の弾で千切れるボクらの体を想像する。きっと数秒でそうなる。せっかく助けてもらったのに、同じ死ぬならさっきの部屋で
そんな最低な妄想に苦笑したら、二人に手離されて舌を噛んだ。
ピックアップトラックの側面が迫っていた。緩い山型にプレスされた装甲板がボクの体を受け止めてくれる。
リューイが機関銃付きの荷台に飛び込んだ。女は観音開きに設置された後部ドアを開けてボクを押し込む。
申し訳程度の狭い座席だった。すかさず乗り込んできた彼女の尻がボクの足を潰す。ナイフだか拳銃だかの硬さに骨を抉られて、呻いた。それを呼び水に、ボクは声の出し方を思い出す。ああ、あう、と喘いだ呼吸が嗚咽になった。意味もなく髪を掻きむしって喚き散らす。
そんなボクに構うことなく、彼女は急発進に逆らって体を伸ばした。ハンドルを握る男に両腕を絡める。男の茶色い短髪をかき乱して、男を包む無防備な白シャツを砂埃で汚して、彼女は甘えた声で彼を「ジギィ」と呼ぶ。
仔猫のように頭を押し付ける彼女の首筋に男の――ジギィの手が回った。首が落ちていないことを確認するように傷痕をくすぐる。
バラバラとヘリコプタのローター音の幻聴がした。不安定に揺らぐキャビンにへたり込んでいる錯覚を、消し去り損ねる。
ボクは、この二人を知っている。こんな風に彼女が彼に甘える様を、見たことがある。
ジギィの指先が彼女の覆面を引き下げて、綻んだ唇に触れた。彼は返すその指を自らの唇に押し当てて、優しく笑う。
彼女の、幼さの残る横顔がこれまでの凶行に不釣り合いなくらい幸せそうだった。黒髪と白い肌と唇の赤さの調和までもが童話に出てくるお姫さまに似ている。
男はあのときと同じようにボクを無視して、あのときと同じ背筋が粟立つような熱っぽい声で、彼女の名前を音にする。
「シシリ」と。
ボク自身の泣き声に埋没したその名を、ボクは確かにずっと前から知っていた。
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