ガンメタル・グレイエリア
藍内 友紀
母の遺産
〈0〉
白濁のただ中に、ボクは立ち尽くしていた。寝惚けた風に乱されて濃度を移ろわせる朝靄は永遠にも似た深度で広がっている。湿気た生温さがジャングル特有の濃い土の匂いを際立たせていた。泥だらけの服と肌が密着してひどく不快だ。
靴底が落ち葉を踏み拉いて小さな音を立てた。その一瞬だけ、ボクの左右に連なる子供たちが体を硬直させる。ボクを含めたみんなが、ボロボロの服とくたびれたスニーカーと、しっかりと抱えたアサルトライフルを装備している。
不意に渦が生まれた。ボクの本能が引き金を引き絞る。肩に押し当てたアサルトライフルの台尻が強烈な反動を寄越した。ぱっと銃口から閃光が走って、飛び出した銃弾が螺旋状に霧の尾を引きながら獲物に食らいつく。
それを合図に、全員が撃ち始めた。火線がどんどん朝靄を切り裂いて退けていく。代りに仄甘い硝煙の白が制圧していく。
ボクらは濁った世界で全てのものを打ち崩していく。人だったり犬だったり、動いていれば洗濯物だって撃った。硝煙だか霧だかが薄紅色に染まって粘度を上げていた。指先にまとわりついて引き金を滑らせようとしてくる。
だってそうしないと、食事にありつけない。また、殴られる。下手をすると殺されてしまう。ボクらは村のみんなのために、食料や洋服を確保しなきゃならない。従順そうな生き残りは労働力や兵士として連れて帰る。それがボクらが生きていくために与えられた任務だ。
ボクは足元に転がっていた女性のシャツの裾で手を拭う。腹の辺りから溢れる血はまだ止まっていなくて微かに脈動している。腹圧に負けた内臓が傷口から生み出されようとしているのかもしれない。苦しいのかな、と考えて、親切なボクはその女性の顔に銃口を向けてあげる。
でも――。
「とおる!」
耳元で絶叫された。生々しい指がボクの肩をつかみ締めて揺さぶっている。
伯母だった。神経質な細さの眉を吊り上げて、高価なばかりで全然似合っていない口紅に亀裂を入れて喚いている。
冷えた空気に鼻がつんと痛んだ。なにが起っているのかわからなくて、ボクは伯母越しに周囲を見回す。
いつもの、見飽きたボクの部屋だった。床に直接座り込んで、ベッドに頬を預けたまま眠ってしまっていたらしい。絨毯からはみ出した畳が、廊下へ続く襖の足元に顔を出している。小学生の時から使い続けている勉強机には、当時子供たちの間で流行していたらしいアニメキャラクタがデザインされた時間割表が入ったままだ。
電灯をつけていないせいで逆光になった伯母の表情は見えない。だから部屋の戸口に佇む大柄な男の――伯母の息子の、恐らくは不機嫌そのものであろうそれも知らずに済んだ。
「徹」いつになく真剣な伯母の声だ。「夢をみてたの? うなされてたよ」
「うるさいんだよ、お前」
顔が見えなくても、男の尖った抑揚はボクへの敵意を如実に語ってくれる。
「……ごめん。でも、覚えてない」
「姉さんの……あなたのお母さんの、夢?」
「……わからない」
本当に、覚えていなかった。ねっとりと汗が滲む首筋を撫でながら、ボクはもう一度「覚えてないんだ」と繰り返す。
舌打ちが応えた。「お前」と話題を切り替えるらしい男の気配を察したのか、伯母が素早くボクから距離をとる。
「大学落ちたんだってな」
黙って俯く。
「予備校行くってホントか」
ボクは首の角度を深めてだんまりを通す。彼にはなにを言っても無意味だと、小学校への入学を機にこの家に預けられてからの十二年間で学んでいた。彼はずっとボクを、自分と両親だけの城に紛れ込んだ
「お前、予備校がいくらかかるか知ってんのかよ。居候のくせに」
「でも」ボクは歪んでいる口元を悟られないように、顔を床に向けて反論する。「ボクの両親の遺産から毎月、ボクの養育費が振り込まれてるの、知ってるよ」
慌てたように伯母が立ち上がる。逃げ場を奪うように戸口を塞ぐ彼女の息子に縋るように細い両手を男の胸に当てて追い出しを画策するようだ。
「それが君への仕送りに使われてるのも、知ってる」
「はぁ?」
「いいのよ」伯母が甲走った声で男を宥める。「徹の学費は姉さんたちの遺産なんだから行かせてあげるのが当然なの」
「ずっと黙って見逃してきたんだ」
腹の底で物凄く凶悪な感情が暴れていて、うまく制御できない。いつもなら、こんなこと言わないのに、なぜかすらすらと伯母たちを糾弾する言葉が出てきた。内容も忘れてしまった夢のせいかもしれない。
「大丈夫、この家に置いてもらってることには感謝してるんだ。訴えたりしないよ。君たちにあげる。君が分不相応に医大に入れたのだって、伯母さんの口紅だって、ボクの母さんたちが死んだおかげでボクの保護者たる君たちに母さんの遺産が振りこまれているからだ」
今度は伯母が黙り込む番だった。いつものヒステリーを予期していたボクは拍子抜けして顔を上げる。
廊下の電光に彩られた二人が、寄り添っていた。漆黒の影で構成されてなお、ボクには存在しない肉親の絆ってものが絡んでいる。
「……ごめん、なさい」
ぶちまけた誹りの全てが本心だったのに、ボクは無意識に謝っていた。我に返ったように伯母が荒い呼吸を繰り返す。
なに言ってんだ、と独り言じみた低音で吐き捨てて男が足音荒く去って往く。それを追う伯母は、もう一瞥だってボクにはくれなかった。
廊下に取り残されたお盆の上で、一汁三菜の完璧な夕食が湯気を立てていた。四年前、母が死んだときかされた日からずっと、ボクの食事は部屋に運ばれてくる。家に置いてやっているのだから分を弁えて引っ込んでいろ、という伯母一家の主張なのだろう。
ボクは汗を吸って湿っぽいベッドに額を押し付ける。
どんな夢をみていたんだろう。とても嫌な夢だった気がする。でも母に逢えたような気もする。曖昧で輪郭のない願望だけがボクの後頭部にわだかまっていた。
ヴヴヴ、と急に勉強机が振動した。天板に投げ出していた携帯電話だ。連続した呼び出しが二回だけして、途切れる。メールだ。
億劫に感じながらもボクは床を這って携帯電話を引き寄せる。通知ランプが急かすように明滅している。二つ折りの筐体を振り開ければ強烈なバックライトが眼底を射た。送り主の確認もせず決定ボタンを連打する。
そして浮かび上がった文面に、ボクは瞠目する。
あまりにもバカ気た一文だった。
ボクはそっと携帯電話を閉ざして部屋を見回す。誰にもこのメールが覗かれていないことを確かめてから、もう一度画面を開く。指先で、冷たいパネル越しに文面を辿る。
――
母が、生きている? そんなはずはない。もし母が生きているならボクがこうして、こんな監獄じみた薄暗い部屋で食事を摂っているはずがないんだ。もし母が生きているなら、決して今のボクを
抛っておいたりはしない? とボクはバックライトを鈍らせた携帯電話に眉をひそめる。どうして母がボクを迎えにくるなんて思ったんだろう。物心ついたころから一度だって、母とまともに時間を共有したことすらないのに。
「逢いたくなんて、ない」
胸にすとんと納まる馴染みのある拒絶感だ。それなのに、手が汗ばんでいた。服の裾で拭う。息苦しかった。骨の芯から湧いてくる感情を制御できない。
「ボクは……」
母に逢いたい、とは言わなかった。怖くて、言えなかった。だって、母は死んだはずで、母はボクを愛してはいなくて、逢いたいと願えるような相手じゃない。ずっとそうだった。それなのに、メール一通で動揺するボクがいる。
きっと、知らないからだ。両親がどうして死んだのか、本当に死んでいるのか、確信がないせいだ。だからこんなにも怖くて、渇望する。
ボクには両親が死んだときの記憶が――十三歳の夏の記憶が、ない。
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