第9話
それからは慌ただしく物事が過ぎていった。
百合音の両親の説得、監督への報告、百合音の退学……。
結婚と言っても式を挙げることは無く、ふたりは籍だけを入れた。
企業の方は突然既婚になった卓に驚きはしたものの、ありがたいことに“ますますうちで頑張ってもらわなければ”と好意的に受け入れてくれた。
そんな中、6月下旬に10月開催の全日本大学駅伝の予選会に参加する。
俺は結局4年間で一度も箱根にはエントリーされなかったが、前年度とこの年の全日本のランナーとしてエントリーがかかった。
卓も最後の年ということでエントリーされた。
卓と駅伝メンバーとして一緒に走るのは、コレが最初で最後だった。
俺は2区、卓は8区のアンカーを任された。
お互いランナーだからサポートは他の人間に任せるべきなのだろうけれど、走り終えた俺はすぐにゴール地点の伊勢神宮に駆けつけた。
1年の箱根以来、走り込んでくる卓を迎えるのは、俺の役目と他の部員も認識しているようだった。
この頃、俺はほんのわずか、心に引っかかるものを感じていた。
卓は結婚後、ますます陸上にのめり込んでいた。
もちろん、この駅伝と箱根を抱えて肉体的にも精神的にもいっぱいいっぱいだった状況は理解できる。
しかし、毎週のように会っていた百合音とは2週に一度になっていて、会いに行く時も何故か俺を連れて行こうとする。
勘弁してくれよ、夫婦で過ごせよ、と俺は無理やり追い出そうとするのだけど、結局いつも根負けして一緒に連れていかれた。
百合音は実家で過ごしていて、卓の卒業を待って新居に移る予定になっていた。
と言っても、百合音の母方の実家が空き家になってしまっているから、そこを手入れするんだと、大きくなってきたお腹を擦りながら百合音は話していた。
俺が見る限り、卓は百合音を慈しんでいたとは思う。
でも、何となく何かが違うような気がしてならなかった。
それに、その場にどうして俺?と思ってはいたが、この奇妙な構図は結局槙が生まれるまでずっと続いた。
「いつ生まれる予定なんだ?」
「それがね、1月2日なの」
「へぇ。箱根の日じゃねえか」
「そう。お父さんが頑張ってるとき、あたしもこの子も頑張るってことになるかな」
静かに微笑む百合音は、もうすでに母親の顔になっていた。
それに引き換え、卓は相変わらずだった。
10月に入るとますます百合音に会いに行く機会は減り、12月はとうとう一度も行かなかった。
二人の間でどんな話になっていたのか分からない。
しかし、出産を間近に控えた百合音はさぞかし寂しかっただろうと思う。
箱根前夜、大手町のホテルから俺は百合音に電話を掛けた。
「調子、どうだ?明日、生まれそう?」
電話の向こうからは、ホッとしたような百合音の声が響いた。
「ん、どうかな。まだ全然な感じ。それより、卓、どんな様子?」
「ん?いつもと変わらない感じだけど……っていうか、卓と話してないのかよ」
この本番間際に会いに行くことは無理でも、電話の一本くらいとっくに掛けてると思っていた。
「うん……、話したいけど、こっちから電話するのも……、精神統一中だったら悪いし……」
それにしたって、百合音だって人生初の大仕事なのだ。
卓のヤロウ……。
「言っとく。あとで必ず電話かけさせるから」
「……大丈夫だよ、ありがとうね」
「頑張れよ。生まれたら、すぐ連絡くれよな。俺、ずっと電話持ち歩くから」
なんか、まるで俺の方が百合音の旦那みたいだな。
苦笑しながら携帯を耳に押し当てる。
「……優。卓を、よろしくお願いします」
突然、電話の向こうで百合音の改まった声が聴こえた。
「ああ、オマエの分も、しっかり見届けてやるよ」
俺は軽く笑って、電話を切った。
この、何気なく受け止めた百合音の言葉が、大きな意味を持っていることに、この時の俺はまだ気づいていなかった。
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