第1話

秋分の日が過ぎて、ようやく暑さが和らいできた9月下旬、多田は久しぶりに須藤家に足を運んだ。

インターハイが終わり夏休みも明けて、村上の大学推薦も無事決まり、ようやく気持ちに余裕ができたのだ。


「あ、コーチ、いらしてたんですか」


ダイニングで百合音と談笑しながらコーヒーを飲んでいるところに、2階の自室から槙が下りてきた。


「家に帰ってきてまで“コーチ”は止せよな」


ニヤリと笑って、多田は槙の頭を軽く小突いた。

百合音もマグカップを両手で包み込みながら、フフッと笑っている。


「優さん、今日はご飯食べてくでしょ?」


途端に、槙はプライベートの顔になる。

学校では見せない、甘えるような笑顔だ。

高校に入ってから顔つきも大人びてきて、最近はグッと背も伸びた。

それでも、赤ん坊の時から可愛がってきた槙は、ずっと俺の中では小さな子供みたいなものだ。


「母さん、今日のご飯、何?」


もうおなか空いちゃったよ、と槙は右手で腹を擦っている。

こういう仕草も、遠い昔を思い出させる。

卓も、よくこうして腹を撫でてたよな……。

俺と百合音は隣近所の幼馴染みだ。

中学でお互い陸上を始めた。

高校は別々になったけど、大学でまた一緒になった。

俺たちはいつも、会えば陸上の話をしていた。

特に二人の興味を引いていたのは、年始に行われる箱根駅伝だ。

百合音はしょっちゅう「いいなあ、男は。女は箱根は走れないもんね。」とぶうたれていた。

そんな百合音に、じゃあ俺が箱根を走るから支えてくれよな、なんていつも話していたっけ。

大学も、箱根駅伝の常連校に一緒に行こう、と約束していた。

俺たちの学力でも何とか入れそうなところを選び、それでもレベルが高かったから必死に勉強して、ふたりで一緒の大学に入ることができた。

入学式の日、早速俺は迷わず陸上部のドアを叩いたが、百合音は女子陸上部のドアを叩くことはしなかった。

その代わり、俺と一緒に男子陸上部に飛び込んできた。

「アタシ、マネージャーになるから」と。

オマエ、自分は陸上やらなくていいのかよ?って聞いたら、箱根の風を一番近くで感じたいからって言ったっけ。

俺たちは新入生の中で一番最初に入部を決めた。

そして、卓……、俺たちを歓迎するムードの中、オマエが来たんだよな。

俺はあの時心底驚いたよ。

インターハイ長距離常連の須藤卓が現れたんだもんな。

出場種目では、ことごとく優勝をかっさらっていってた奴。

卓はもっと強豪大学に行ったと思っていた。

後で分かったことだけど、実際卓は4校からオファーが来ていて、そのうちの2校が強豪チームだった。

俺たちの大学はなかなかシード権が取れず、いつも予選会で出場権を獲得していた。

予選会では必ずと言っていいほど出場権が取れるのだから、決して弱いわけじゃない。

しかし、やはりシードで安定しながら練習に臨めるのと、予選会を勝ち抜くための練習をプログラムしなくてはならないのとでは、精神的プレッシャーの度合いが違う。

出来ればいつもシード権を持っている大学に入った方が、楽だろうって思う。

それでも卓は、俺たちと同じ大学を選んできた。

部室はさらに歓声に沸いたよな。

特待で入ってきた卓に、多大な期待が寄せられていたのは一目瞭然だった。

戸惑っている俺に向かって言った一番最初の言葉、今でも忘れてないぜ。


「一緒に箱根、行こうな」


切れ長の目にシャープな顎のライン、ひし形の耳たぶの形。

精悍な顔立ちの卓の声は、意外にもおっとりしていて包み込むような柔らかさがあった。

話すスピードもゆったりしていて、この声の持ち主があんな成績を残してきたのか……と、そのギャップに戸惑ったっけ。

実際、性格もずいぶんのんびりした奴で、陸上以外のことに対しては、何から何まで間延びしたようなイメージの人間だった。

卓は俺を気に入ってくれたようだ。

学科が違うから授業で会うことは無かったが、外で俺の姿を見掛ければ寄ってきて他愛もない話をし始める。

自分で言ったことに自分でウケたり、かと思えば何も話さずボンヤリとただ一緒にいることも多かった。

独特の雰囲気を纏った卓だったけれど、その空気感は人を和ませる力を持っていた。

走っているときはあんなにキリリっとして人を寄せ付けないほどの気迫を感じるのに、一旦コースから下りてしまえば、途端に猫のようにすり寄ってきて屈託なく笑う。

その人懐こさと天然ぶりで、いつの間にか卓は部の人気者になっていた。

これだけすごい実力があれば嫉妬に駆られる輩も出てくるはずだろうに、卓に妬みの目を向ける者は一人もいなかった。

俺たちの同期は、全部で32人。

毎年箱根に出場しているこの部は、卓のように特待で入ってくる選手もいるけれど、俺たちのように“ここ”を目指して一般入試で入ってくる奴がほとんどだ。

みんな箱根に憧れて、箱根を夢見て来る奴らばかりだ。

先輩たちは2~4年合わせて68人、総部員は100人いる。

その中で箱根を走れるのはたった10人。

4年間在籍して、一度も夢の舞台に立てない者の方が多い。

それでも、厳しい練習に励みながら高みを目指す。

部員の中でも卓は、殊更練習に熱心だった。

誰よりも早くグランドに出てきて、ストレッチを始める。

みんなが出てくる頃には、すでに軽く足慣らしのジョギングをしている。

雨の日には部室に籠って、トレーナーに身体のメンテナンスをじっくりやってもらったり、監督に自分の弱点を積極的に聞きに行ったりしていた。

そのストイックな一面を見て、俺も一緒に頑張ろうとするうちに、部の中では自然にふたりで居ることが多くなった。


「優~、なんか腹減った。コンビニ付き合えよ」


部活後、卓はいつもこんな風に言っては、腹を擦りながら俺の腕を掴んで走りだす。

おい、待てよ、俺財布持ってない!

焦る俺に、大丈夫、貸すからと笑ってたっけ。

大学前のコンビニの常連で、ジャムパンと牛乳の組み合わせが奴の定番だった。

俺はその時の気分で、カレーパンだったりクリームパンだったり。

それを部室前のベンチで並んで食う。

金はその都度ちゃんと返していた……よな、確か。

部員たちが口々に“お疲れ”と言いあいながら帰宅していくのを眺めながら、俺たちは無言でパンをかじる。

夕日に照らし出される卓の横顔は、いつも満ち足りたように穏やかだった。

あの時、卓は何を考えていたんだろう。

どんなに過酷なトレーニングの後でもその表情は変わることは無かったし、そもそも卓が弱音を吐いている場面を見たことが無かった。

そろそろ日が暮れるか……という時間になって、ようやく俺たちは腰を上げる。

横浜に自宅がある俺と違って、卓は広島の出身だ。

学校の近くにある、陸上部の寮に奴は下宿していた。

本来その寮は、通常は2年からの入所だ。

1年の時は各々自分で下宿先を用意し、1年間の練習に耐えて部を続けることができたものだけが、今度は強制的に入所する。

特待で入学が決まった卓は、4年間の継続を約束されていたからか、すでに2・3年生と共に生活していた。

1年でそこにいるのは卓一人だったからさぞかし窮屈な思いをしているかと思いきや、毎日そんな風に俺と過ごしていたものだから、決まった夕食の時間ギリギリで食堂に入るというマイペース振りだったらしい。

ベンチを立つときのお決まりのセリフは、こうだったな。


「優も早く、寮に入れればいいのに。そしたらわざわざここで過ごすことも無いんだ」


腹が減ったというのは口実で、卓は優と過ごす時間を持ちたくて、そうしていたんだよ。

俺たちと一緒に帰るため、いつも笑顔で待っていてくれた百合音が、卓が亡くなった後に教えてくれた。

特に何をしゃべったという記憶もない。

だけど、俺にとってもその時間は、今でも煌めく思い出のひとつだ。

ただ、隣に卓がいた。それだけで、良かったんだ。


  

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