第11話

本番当日。

いつものように読売新聞社前で一旦集合したのち、各自持ち場に分かれていく。

俺と卓は無言で鶴見中継所に向かった。

卓はいつもと変わらない表情だが、若干空気感が違う。

緊張というわけでもなさそうだが、どことなく固い印象を受けた。


「体調、良くないのか?」


 鶴見に入って二人きりになったのを見計らって、俺は卓に尋ねた。


「いや、全然。むしろ、良すぎるくらいだよ。なんで?」

「いや、思い過ごしならいいんだ。何となく、いつもと違う感じがしたから」


卓は一瞬揺れる瞳で俺を見た。

しかしそれはすぐに影を潜めて、代わりにいつもの無邪気な笑顔を向けてくる。

もっとゆっくり話をしたいのに、時間は刻々と迫ってきて俺は戸塚に向かわなければならなかった。


「頑張れよ、卓」


俺は上手い言葉が見つからないまま、いつものようにハイタッチをしてその場を後にした。

給水地点のサポーターたちと車に乗り込んですぐ、ポケットの中の携帯が振動した。

狭い車内で電話を取るのは気が引けたが、相手は百合音だ。

そっと取り出して、窓に向いて通話ボタンを押す。


「優くん?」


てっきり百合音がかけてくると思っていたが、電話の主は百合音のお母さんだった。


「今、生まれたわ。男の子。百合音も子供も元気だから安心して。卓くんにも、伝えてくれる?」


あともう少し早かったら、鶴見で卓に知らせることも出来ただろうに。


「おめでとうございます。もう鶴見を離れてしまっているので、卓が戸塚に着いたら一番に伝えます」


俺はヒソヒソと話す。

車内の部員に聞かれても良かったが、やはり子供の誕生は父親に真っ先に伝えてやりたかった。

幸い他の連中は互いに話をしていて、こっちを気にする様子は無かった。

生まれたんだ……。

卓の血を受け継ぐ子。

百合音との子なら、きっと可愛いに違いない。

俺は自然に頬が緩むのを感じた。

戸塚に着いて様子を伺う。

ちょうど1区から2区に引き継がれ始めたらしく、画面は2位で入って来るランナーを映し出していた。


「今、何位?」

「あと1km地点では12位だった」


次々に中継所に入って来るランナーを見遣る。

画面の端に、卓がチラッと映った。

12位のままで来てくれるなら、もうスタンバイだ。

なのに11位が通過した後に見えたのは他の大学選手だった。


「……大学、あ……っと、故障でしょうか?あと300mというところで、足を引きずっています!」


えっ!!

1区のランナーは今年初めて箱根を走る3年生だった。

画面に、痛々しく顔を歪めながら、それでも懸命に走る後輩の姿が映し出されていた。

その横を、後ろから来たランナーが一人、また一人と抜かしていく。

そのたびに、悔しそうな表情で前を向く後輩の様子に、胸が潰れそうだった。


「頑張れっ!あともう少しだっ!!」


沿道からも大きな声援が送られている。

順位はどんどん下がって、それでも何とか鶴見の中継所に入ってきた。

スタンバイした卓が、しっかり襷を受け取る。

18位。

トップとの差は7分2秒。

……いくら何でも、この差は大きすぎる。

Bチームの部員に抱えられながら、、地面に突っ伏して泣いている3年生の様子が映し出される。

カメラが切り替わり、今度は走り出した卓を映し出した。


「去年、一昨年と、戸塚にトップで襷を持ってきた須藤、今年も期待しています……が、かなり差がついていますね」


解説者も、このタイム差を深刻に捉えているようだ。

それでも、過去2年間の卓の逆転劇は、多くの観客を魅了していたようだ。

沿道から大きな声援が飛んでいる。

早く、戸塚に入ってこい。

オマエ、子供生まれたんだぞ。

早く伝えたいよ。

俺は祈るような気持ちでレースの成り行きを見守った。

スタート8km地点で、最初の12位の順位まで追いついた。

そこまではランナーとランナーの間が開いていて、次々に抜いたイメージではなかったが、ここからは第3集団・第2集団、そしてトップ集団に一気に食い込んでいくドラマが展開されるはずだ。

タイム計測担当が、地点ごとのタイムから、卓のペースを割り出している。


「かなり早いペースで進んでるぞ。この調子で行けば、区間新記録も夢じゃない」


トップとの差は4分を切っていた。

カメラが12km地点の保土ヶ谷橋で、第3集団を捉えたのを映し出す。

そこで固まっていた3人としばらく団子状になった後、一人抜け出した卓は、その前方100mあたりを走っていたランナーをも瞬く間に抜き去っていった。

目の前で繰り広げられる攻防に、沿道の観客は沸いた。


「須藤、期待を裏切りません!素晴らしい走りです!」


ますますペースを上げているように見える卓は、相変わらず涼しい顔をしている。

15・3km地点の権太坂で第2集団の4人を捉えた卓は、一気に坂を駆け上がりながら、その脇を通り過ぎていく。


「須藤、トップを目指しています!このままのペースだと、区間新記録は確実でしょう!」


戸塚まであと5km。

トップ集団の3人は、僅差のタイムでそこを通過していく。

そこから遅れること1分2秒、卓が風の様に通り過ぎた。

追いつけるのか、あと5kmで。

いや、きっと追いつくだろう。

襷を受け取ってから、きっかり6分タイム差を縮めてきたんだ。

これから迎える戸塚の壁が、きっと卓の味方をするだろう。

思惑通り、トップ集団は連続する上り坂で少しばらけた。

ずっと集団の中で並走してきた一人のペースが急速に落ちていく。

その背中を捉えて、一気に抜き去る。

あと2kmの地点でついに、トップを争う2校の背後に卓の姿が見え始めた。


「大丈夫だ、頑張れ……っ」


戸塚のメンバーたちは、食い入るようにワンセグを見ていた。

どんどん卓の輪郭がハッキリしてきて、あと1km地点で卓はトップ集団に肩を並べた。

二人はギョッとした顔で卓を見ると、更にペースを上げようと躍起になってくる。

そんな二人をチラッと横目で見て、卓はグッと一人抜きん出た。

そのまま二人を引き離しにかかる。

しかしさすがトップを走ってきた二人は、そこを譲るまいと食いついてくる。

最後の最後で激しく順位を入れ替えながら、戸塚の中継所が目前に迫った。

3校一度にスタンバイする。

卓が襷に手を掛けた。

その瞬間、再び奴のペースがグッと上がる。

あと100mの所で卓が独走態勢に入った。

全速力だろう、どこにそんな力が残っていたのか、短距離ランナーのように腕を振って奴は戸塚に飛び込んできた。

3年の後輩に襷が受け継がれる。

俺はタオルで卓を受け止めた後、すぐ背後から入ってくる2、3位のランナーの邪魔にならないように横の方に退いた。


「よく頑張った!卓!」


全体重をかけてくる卓を抱えながら、俺は興奮しながら叫んだ。

卓は呼吸を整えようとしているのか、ずっと無言でうつむいている。

今までなら笑顔で応えていたのに、今日はさすがにこの差を縮めるのは大変だったのだろう。


「卓、あっちで休もう」


奴を待機場所に連れて行こうとした、その時。


「待って、優」


卓が俺に思いっきり抱き着いてきた。

あまりに突然で、俺はよろめいた足を辛うじて踏ん張った。


「……っ、危ねえよっ!」


倒れ込んでしまったら、お互い怪我するところだ。

何やってんだよ、オマエ……。

言いかけて、ハッとした。

卓、泣いてる……?

俺の肩に顔をうずめたまま、力任せに抱き着いてくる卓の肩が微かに震えていた。

他の部員が近づいて来ようとするのを片手で制して、俺は卓を抱き着かせたまま人気の少ない場所に移動した。


「卓、顔上げろよ。子供、生まれたぞ」

「そうか……」

「ふたりとも元気だって。よかったな、おめでとう」


卓がゆっくり顔を上げる。

間近で見合う瞳は、やはり潤んでいた。


「優……、終わっちゃったな」

「え?」

「こうしてオマエに受け止めてもらうこと、もう無いんだな」


グスッと鼻をすすって、空を見上げる。

子供が生まれたって言ってるのに、卓の気持ちはそこには向いていないようだ。


「4年間、オマエに早く会いたくて箱根を走った」

「…………」


何だよ、ソレは冗談じゃなかったのかよ。


「今日もそう思いながら……。でも、それも今日までか……」


新しい涙が、卓の頬を伝った。

昨日のセンチメンタルな想いが、俺の胸に帰ってくる。


「大げさだな……。箱根は最後だけど、俺たちはこれからだってずっと付き合っていくだろう?」


言いながら、多分これからは二人とも変わっていくだろうと思っていた。

きっと卓もそれを感じているだろう。

すでに俺と違うところ、コイツはもう立派な父親なんだ。


「もう一回言うぞ。子供が生まれたんだよ。な、オマエ。ここは嬉し泣きの場面だろ?」


俺は苦笑いしながら、奴の肩を小突いた。

切ない表情で、卓は俺を見る。


「優、もう少し……」


再び卓がギュッと抱き着いてくる。

仕方ねえなあ……。

俺はその汗ばんだ身体を抱き返した。

背中をポンポンと叩く。

更に力を込めて抱き着きながら、卓はグスグスと泣き続けている。

こんなに感情を露わにするコイツは初めて見るかもな……。

4年間の重責から解放されてホッとしたのか。

それならコイツの気が済むまでこうしていよう。

俺は自分の方が卓の父親にでもなったような気分で、ずっと卓を抱きしめていた。


 

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