第12話

その夜の芦ノ湖は、殊更静かだった。

みんな消灯と同時にグッスリ寝入ってしまったからだ。

往路順位を3位で終えた俺たちは、歴代最高順位に誰もが喜びに満ち溢れていた。

その興奮で疲れたのか、9時の消灯を待たずに寝入ってしまう奴もいるくらいだった。

そんな中。

こうしてこの場所で、大舞台の幕間(まくあい)のような時間を過ごすのもこれが最後だなと思うと、俺は却って眠れずにいた。

消灯時間を過ぎてしばらくは大人しく布団に納まっていたが、どうしても目が冴えて仕方がなく、俺はそっと部屋を抜け出した。

1年の時、卓と語り合ったソファにそっと座る。

ギシッという音がして、座席のスプリングが深く沈んだ。

ふうっとため息をついて、窓を見上げる。

この時間は、月はまだ窓枠の中に入っていない。

俺はぼんやりと、この4年間のことを思い返していた。

箱根を走りたい、と思って入った大学。

卓との出会い。

擦り切れるような、毎日のトレーニング。

全日本大会に、箱根駅伝……。

結局俺は箱根を走ることは無かった。

でも、それが悔しいとか悲しいとか、そういう気持ちには全くならなかった。

闘争心が無かったと言えば嘘になる。

けれど、俺は卓が走っている姿を見るだけで満たされている自分を感じていた。

そして、その卓が俺を頼ってくれていることが、俺の自信にもつながっていた。

誰かに必要とされることが、こんなにも心を満たしてくれるものなのだと、俺は卓に出会って初めて知ったんだ。

ふと間近に誰かの気配を感じた。

ゆっくり横を向くと、いつの間に来ていたのか、半纏の合わせをしっかり押さえながら卓が立っていた。


「何やってんの、優」

「そういうオマエこそ……」


今日のオマエは力のすべてを遣い尽して、グッスリ眠りこけていると思っていた。


「目ぇ覚めたら布団に優がいなくて、どこ行ったのかと思って……」


探しに来てくれたのか。

ゴメンな、疲れているのに気を遣わせちまったな。


「ちょっと眠れなくてな」

「そこ、座っていい?」


俺は無言で頷く。

卓は音もなく近寄ってきて、ソファに浅く腰かけた。


「オマエ、百合音と話したか?」

「ああ、さっき電話してみた。後ろで赤ん坊の泣き声がしたよ。母子同室なんだ」


穏やかな表情で目を細めながら話をする卓を、俺は眩しく見つめた。

やっと父親らしい顔を見せたな。


「槙……。槙って名づけようと思うんだ」

「マキ、か。どんな漢字を書くんだ?」

「木に真だよ。しっかり大地に根を張って、真実の人になってほしい」

「……いい名前だ」


俺は口の中で小さく“槙”と繰り返してみる。


「明日、一緒に会いに行こうよ。百合音も優にはさんざん世話になったし」

「俺も一緒に行っていいのか?」


あたりまえだろ?

フフッと笑って卓は背中から倒れ込むようにソファに寄り掛かった。

そのまま目を閉じて黙りこくる。

おいおい、眠ってしまうんじゃないだろうな?

俺は起こすように卓の左手首を掴んだ。


「寝るなよ?」


俺のその手に、卓の右掌が重なった。

相変わらず冷たい手だ。

ゆっくりと目を開けて、卓は俺をじっと見た。


「寒いのか?」


卓は小さく頷く。


「じゃあ、布団に戻れ。ここじゃ冷える一方だ」


俺は卓の右手をそっと外して、掴んでいた左手首を離した。

卓の瞳が揺れる。


「優、寒いんだ。……分かるだろう?」


……温めて欲しいのか。

相変わらず人間カイロだな。仕方ねえな。

俺は卓の両手を掌で包み込んだ。


「そうじゃなくて……」


急に卓は包み込まれた手を振り払って、ギュッと抱き着いてきた。

俺はギョッとして一瞬息を呑んだ。


「おい、卓……」

「あったかい……」


頬を俺の肩に摺り寄せながら、卓はますます両腕に力を込める。

自分の心臓の音が鼓膜に直接響いているような、焦りにも似た感覚が俺の身体を襲っていた。

いくら人懐こいと言えど、コレは少々やりすぎだろ……。


「卓、分かった、分かったから、ちょっと離れろ」


何が分かったのか分からないまま、俺は卓を引きはがしにかかる。

しかし益々卓は力任せに抱き着いてきて、ちっとも離れてくれない。

俺は深いため息をついて、引き離そうとする腕から力を抜いた。

しばらくなされるがままに抱き着かせておく。

卓は体重を俺に預けながら、どんどん体温を奪っていった。


「優も、抱きしめてよ」


耳元で小さく囁いてくる奴の声が、どことなく震えていた。

……ったく、“仕方ねえなあ。”

さっきから何度このセリフを心の中で呟いたことだろう。

そう思いながら俺は、結局奴の言うとおりにしてしまう。

そっと肩を抱き寄せる。

ホッとしたように、卓の身体からほんの少し力が抜けた。


「昨日の夜、髪の毛に触っただろ?あれ、あっためてくれようとしてたのか?」


……なんだ、あの時起きてたのか。

俺は小さくため息をついて頷いた。


「寂しくなるな、卒業したら」


俺は窓の外を見遣る。

月が窓枠に入ってきていた。冴える光が、ガラス越しに俺たちの足元に届いている。

卓も頭を擦り寄せたまま、窓を見上げた。


「卒業したくないなあ……。ずっとこのままがいいんだけどなあ」

「ははっ、オマエはもう父ちゃんなんだぞ?しっかりしろよな」


そうなんだけどな。

フフッと笑いながら、卓は窓から視線を俺に移す。


「4年間、ありがとな」


その目がほんの少し潤んで見えた。


「こっちこそ、ありがとな。これからも、ヨロシク、だろ?」


努めて明るく振る舞う。

そうしなければ、何かとんでもないことを口走ってしまいそうな気がした。


「そうだな、これからもヨロシクな」


目を伏せて、穏やかな声で応える。

それっきり、ふたりとも無言になった。

静まり返った廊下に、空調の音だけが微かに響く。

密着した卓の身体は、俺の体温と混ざり合って程よく温まったようだ。

それでも卓は抱き着いたまま身じろぎもしない。

俺も抱き寄せた肩を離せずにいた。

……なんて静かな夜なんだろう。

まるでこの世に俺たち二人だけみたいだな……。

月明かりが廊下を少しずつ移動する。

俺は、いつまでもこうしていたいような、もう部屋に戻らなければと焦るような、曖昧な気持ちを抱えて、ただひたすら空を見上げていた。


  

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