第10話

「卓、百合音に電話してやったのか?」


夕食から帰ってホテルの部屋に落ち着いてから、俺は卓に聞いてみた。


「いや、まだ。シャワー浴びたらかけてみるよ」

「ん、百合音もオマエの声を聴くのを待ってるはずだぞ」


分かった、というように頷いて、卓はユニットバスの中に消えていった。


「須藤先輩、すごいよなあ。4年間ずっと2区を走るんですね」


相部屋の2年生が話しかけてきた。

俺らの大学は1年の時以来、ずっとシード権を獲得することができていた。

もちろん選手の質が上がってきたのもあるが、やはり卓が2区を守ってくれていたからだ。

1区で出遅れても、必ず卓が押し上げてくれた。

それに触発されて、みんなの意識が上がったのだ。

奴は1年の時こそ2番手で戸塚に入ったが、2年からはトップで戸塚に襷を持ってきた。

2年間それが続けば、おのずと今年も……と、誰もが期待している。

顔には出さないが、卓は相当なプレッシャーを感じていたことだろう。

正直、百合音のことを考える余裕は無かったかもしれない。

9時の消灯の直前、卓はやっと電話をかけたようだ。

ちょっと外に出てくる、と言って10分後に戻ってきた卓は、そのまま俺を廊下に連れ出した。


「もう、病院に向かってるんだって」

「え、そうなのか?」


どうやら陣痛が来たらしく、間隔を見て病院待機になったらしい。


「いよいよだな。今日中に生まれるってこともあるのかな」

「どうだろう。それならそれで、俺も明日安心して集中できるんだけどな」


こう見えて、卓は結構気にかけていたんだな……。


「大丈夫だ、生まれたら俺のところに連絡くれるように言ってある。オマエは走ることに集中していいんだぞ」


卓はホッとしたように目を伏せて頷いた。


「さ、明日も早いんだ、寝ようぜ?」


消灯時間が過ぎたのを腕時計で確認して、部屋に戻ろうとしたその時。

強い力が俺の腕を掴んだ。


「何だよ、卓。痛いぜ」

「優、明日、戸塚中継所で俺を待ってて」


1年の時と同じセリフだ。

どうしたんだよ、改まって。

3年間ずっと待ってたじゃないか。

今まで通りだろ?

俺は心の中で思ったが、その声が聴こえたかのように卓は話し出す。


「最後だろ。俺たちが一緒の舞台で過ごせるのは」

「ああ、そうだな」

「もう、最後なんだよな……」


一瞬、遠い目をした卓は、ニコッと笑って俺を見る。


「ずっと、待っててくれてありがとうな。明日も、待っててほしい」


掴まれたままの腕に、卓の掌の力がこもる。


「……分かった、安心して走ってこい」


俺は真直ぐに卓の目を見た。

そう言ってやらないと、奴はこの腕を離してくれなさそうだった。

あと3ヶ月で、俺たちの大学生活は終わる。

陸上部も、箱根が終われば実質引退みたいなものだ。

卓は企業へ、俺は中学や高校の陸上部にコーチを派遣する、小さな会社に行くことが決まっていた。

卒業すれば互いの生活に追われて、なかなか会うことも出来なくなるだろう。

何だか、このままずっと卓と一緒に走っていけるような気がしていた。

でもすぐそこの未来に、もうすでに分かれ道が見えているんだよな……。

センチメンタルな気持ちが胸を覆い始める。

本番前にこの気持ちはダメだ……っ。


「ささ、ホントにもう寝ようぜ?俺、眠いよ」


卓に悟られないうちに、暗がりの部屋に逃げ込む。

そのままベッドに潜り込んで、ギュッと目をつぶった。

卓もそっと隣のベッドに入った気配が伺える。

1年の時に、冷たい身体で俺のベッドに入ってきたことを思い出す。

今日は寒くないのか?温めてやらなくて平気か?

余計なお世話だと思いながらも、俺は少しでも卓の近くに居たいようなもどかしい気持ちになっていた。

そっと手を伸ばす。

指先に、柔らかな髪が触れた。

ゆっくり確かめるように、その束を優しくつまむ。

卓はもう寝ているのか、ピクリとも反応しない。

なんだ、大丈夫そうだな。

俺は少し残念なような気持ちで手を引っ込めると、もう一度ゆっくり目を閉じた。

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