第15話

卓の怪我から、3ヶ月が過ぎた。

1ヶ月の入院を経て自宅に戻った卓は、毎日のリハビリの成果がよく現れて、見た目は以前と変わらないほどになった。

普通に歩くことも出来る。

さすが元々の鍛え方が違うからと、リハの先生も目を見張ったという。

会社にもつい最近復帰したと聞いたばかりだった。

土曜の朝早く、部屋のインターホンが鳴った。

誰だよ、こんな休日に……。

あくびを噛み殺しながら玄関を開けると、そこには百合音が立っていた。


「あれ、オマエどうしたんだよ。用があるなら、俺がそっちに行くのに。っていうか、ひとり?」

「優、朝早くゴメン……。でも、どうしたらいいか……」

「何だよ、何かあったのかよ」

「卓……、昨日辞表出してきたって」

「えっ、マジかよ」


会社に復帰してから、なんだか様子がおかしいとは思っていたけれど、まさか辞めるつもりになっていたとは思っていなかったと。

もちろん会社はその辞表を保留にしたようだが、卓の意志は変わらないようだ。


「……俺、話しようか?」

「うん……、いや、どうしよう……」


百合音は煮え切らない。

何か都合の悪いことでもあるのか。

しばらく考え込んでいる。


「……やっぱり、卓に会ってやって。アタシじゃ卓を動かせない」


それはどういう意味だろう?

俺は訝しげに百合音を見た。

しかし百合音はそれ以上何も語らず、お昼過ぎに来て、自分と槙は外に出ておくから、と言い残して去っていった。

俺は言われた通り、1時過ぎに卓の家のインターホンを押した。

カラカラと引き戸の玄関が開いて、卓が顔をのぞかせた。

案外元気そうな顔色だ。

ずいぶん身構えていた俺は、少々肩透かしを食らったような気分になった。

奴はニコッと笑って手招きしている。

俺は小さくため息をついて、玄関の中に入った。


「百合音から聞いたの?」


キッチンでお茶を淹れながら、卓は穏やかに微笑みながら言った。


「なんで。せっかく入った会社だろ?もう10年以上勤めてるのに」

「そうだな、もう10年以上経つんだな」


卓はゆっくりダイニングに入ってきて、熱い湯のみを俺に差し出した。

テーブル越しにストンと座る。


「10年、えっと槙が生まれてすぐだから……12年か。長い間世話になったよなあ」


遠い目で頬杖をつく。

いやいや、そうじゃなくて。


「オマエ、辞めてどうするんだよ。百合音も槙も困るだろ。特に槙はこれから教育費にずいぶんな金がかかってくるんだぞ?」

「分かってる」

「分かってるなら、辞めるなんて選択は出来ないはずだ、そうだろ?」

「分かってるよ」


何度も同じ答えを繰り返す卓は、さっきから俺と目を合わせようとしない。

くそっ、ホントに話が通じているのか?

俺はもう一度、どうするつもりなんだ、と聞いた。

と、突然。


「分かってるってばっ!!」


卓はテーブルを拳で叩きつけて、大声で立ち上がった。

湯のみがぐらついて、中のお茶がテーブルに跳ねた。


「卓……」


見たこともないような鋭い目つきで俺を睨んで、奴はグッと唇を噛んだ。

そのままフイッとリビングのソファに歩いて行って、背中を向ける。

俺はしばらく唖然としてその後姿を見つめていたが、急に沸々と怒りが沸き上がってきた。

……一家を養わなけりゃならないのに、オマエは甘いんだよっ。

椅子から立ち上がって、ソファの前に回り込む。

思いっきり怒鳴りつけてやろうと思っていたのに、俺は卓の顔を見た瞬間、いきり立った気持ちが一気に萎えていくのを感じた。

なぜなら奴は声も出さず、静かに泣いていたのだ。


「オマエ……」


俺は何も言えず、ただ流れる涙を見つめていた。

まるで時間が止まったかのように、沈黙が空気を縛っていく。

卓は涙をぬぐうこともせず、その目は虚ろに宙をさまよっていた。

俺は奴の両肩をグッと掴んで顔を覗き込んだ。


「卓、しっかりしろ。ゴメン、俺が悪かった。オマエの話、聞くから」


軽くゆすってやると、ようやく卓は俺の目をしっかり見つめた。


「優……、俺……」


頭を振りながら俯いてしまう卓を、俺は辛抱強く待つ。

しばらく経って、卓は肩を掴んでいる俺の手にそっと触れてきた。

……やっぱりオマエは相変わらず冷たい手だな……。

俺は切ない気持ちになって、掴んだ掌に力を込めた。


「俺……、もう走れない。走れないんだ」


日常生活的に走ることは、もちろん可能だ。

だけど、卓の言う“走る”は、まったくの別物だ。

今度は俺がたまらなくなって、俯いてしまった。


「会社はね、指導者として部に残ってほしいって言ってくれたんだ。でも……、でも俺……、無理だ……」


卓の膝に、新しい涙が落ちるのが見える。


「陸上で入った会社に、競技で返せなくなった俺は、もうあそこにいる意味が無いんだ。……そうじゃないな。俺がもう、あそこに居たくない」

「…………っ」


卓の悲しみが、痛いほど俺の胸に流れ込んでくる。

百合音、ゴメン……。

コイツを説得するなんて、俺には出来ないや。

これ以上、コイツを苦しめたくないよ……。

俺はゆっくり顔を上げた。

泣きはらした卓の顔を、間近で見つめる。


「……分かった。オマエの気持ち、よく分かったから……。家族のことに口出しできる立場じゃないけど、オマエはオマエの気持ちのままに……」


そこまで言うと急激に涙がこみあげてきて、あとはもう声にならなかった。

ヤバい、俺はコイツに涙を見せたことが無いんだ。

咄嗟に顔を逸らす。

見るんじゃねえよ、卓。

俺は小さく呟いた。


「優……っ」


涙声で叫びながら、卓は俺に抱き着いてきた。


「見ないよ、見ないから……」


額を肩に押し付けてくる。

涙が服に沁み込んで、俺の肩を濡らしていく。

俺は泣きながら、抱き着いていた卓の身体を思い切り抱き返した。

今日は、泣こう。

な、一緒に泣いて、泣いて……、ほんの少しずつ、立ち直っていこう。

抱き合ったまま泣き続ける俺たちを、窓から差し込む光がやわらかく包んでいた。

こんなコイツを温めてやれるのは俺だけなのかもしれないな……。

百合音に申し訳ないような気持ちを抱きながらも、このまま時が止まればいいのにと、俺はぼんやり考え続けていた。


 

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