第14話

その日俺は、派遣先の高校でちょっとしたトラブルに見舞われていた。

部の顧問と些細な言い争いをしたのだ。

以前からそりが合わない相手だったから、またいつもの事だと深刻に捉えていなかったが、顧問はコーチを変えるよう会社に要請してきた。

俺は部員たちと年も近いこともあって、フレンドリーな関係を築いていたのだが、顧問はそれがずっと気に食わなかったらしい。

俺としてはきちんと一線置いて彼らを指導していたつもりだったが、そうは見えなかったとハッキリ言い放たれてしまったのだ。

部員たちは俺を慕ってくれていたが、学校と折り合いが悪くなるのは会社としても困るのだろう。

俺はすぐに別の高校に派遣先を変えられた。

それが、桜ケ丘高校だった。

明日からそこに行けと言われて、正直納得いかない想いを抱えながら家路に着いた俺の携帯が、ポケットの中で振動した。


「百合音か……」


土曜でもないのに、珍しい。

俺は、やさぐれた気持ちを胸に押し込んで通話ボタンを押した。


「百合音、どうし……」

「優っ!大変なの、卓が、怪我した!」


涙ながらに切羽詰まった彼女の声が、耳に大きく響いた。

卓が怪我?


「今、どこにいる?!」

「北部病院。優、今すぐ来てほしい……」


俺はとっさに大通りに向かって走り出していた。

流しのタクシーを捕まえる。

怪我?

百合音があんな風になるなんて、どんな怪我だよっ!

俺は赤信号に引っかかるのももどかしく、バックミラー越しに何度も急いでほしいと目で訴えた。

救急センターの入り口に転がり込む。


「須藤卓、どこに居ますか?!」

「どちら様ですか?」

「多田優、と申します。須藤の友人です」

「多田さんですか。奥様が、すぐにお通ししてほしいと言ってました。突き当りを右に行ってください」


駆け出したい衝動を堪(こら)えながら、足早に案内された先に急ぐ。

廊下の向こうに、百合音と槙の姿が見えた。


「どうしたんだよっ、何があった?」


百合音は小刻みに震えながら、槙の肩にすがりついていた。

12歳の槙は、集中治療室の中の父親を食い入るように見ている。

俺もその視線の先をガラス越しに覗き込んだ。

痛みに耐えながら顔を歪め、時折激しく頭を振る卓の姿が見えた。


「百合音、しっかりしろ。状況を説明してくれ」


泣きはらした赤い目で俺を見上げた百合音は、しどろもどろになりながら説明を始めた。

今日は陸上部の大会のためにスタジアムに行ったのだと言う。

そこで、階段の一番上から足を踏み外して転落したのだと。

正確なことは分からないけれど、ライバルの会社が卓の傍に居て、転落したときには不自然なほど卓に近づいていたらしい。

偶然だと思いたいが、階段はさほど急な造りではなかったのに、勢いがついていたのか最後まで落ちきってしまったようだ。


「それで、怪我ってどんな、だ」


見る限りでは、頭に傷を負っている感じではない。

なら一体、どこを怪我したのか?


「……多分、股関節じゃないかって……」


俺は絶望的な気持ちになった。

よりによって、股関節……っ。

それがトップアスリートにとって致命傷になりうるということは、俺も百合音も痛いほど分かっていた。


「待て待て、まだ医者から説明受けてないんだろ?とりあえず、オマエがしっかりしなきゃダメだ」


槙が不安そうな瞳で俺を見上げてくる。


「槙、大丈夫だ。オマエも、びっくりしたな」


俺は槙の頭をグッと撫でる。

小さく頷いた彼は、再びガラスの向こうの父親に視線を移した。

その後、家族だけが状況説明に呼ばれ、俺はジリジリとした気持ちで廊下の長椅子に掌を組み合わせながら座っていた。

待つ時間だから長く感じたのが、実際長かったのかは分からない。

ようやく部屋から出てきた百合音は、見るからに憔悴しきっていた。

思わずすぐに駆け寄ると、百合音は俺の左腕を掴んでくる。

女の力とは思えないほどの痛みに、事態の深刻さを感じずにはいられなかった。

ゆっくり椅子に座らせて、深呼吸させる。

母親の隣で槙は、うつむいたまま大人しく座っていた。

俺は二人の目の前にしゃがみこんで、視線の高さを合わせる。


「やっぱり、股関節骨折だって。かなり鍛えていたからあれだけで済んだけど、普通の人ならもう一生杖の生活だって……」


ん?ということは、卓は普通に回復が望める状態なのか?

俺は百合音の顔を覗き込む。


「リハビリすれば、普段の生活には支障ないまで回復できそうなの。でも……」


ハッキリ言われたの。

もう、陸上を続けることは出来ないって。

それだけ言うと、百合音はその場で突っ伏して大声で泣き始めた。

卓から、陸上が奪われる。

その事実は、俺の心も重く押しつぶした。

元通りに歩けるようにはなるのだ。

それだけでも、本当なら感謝しなければならないのかもしれない。

でも、卓にはそれが却って辛いことになるのではないか……?

日常に戻れたところで、肝心な生き甲斐には二度と戻ることができないのだから。

俺の顔が、ひどく苦痛に歪んでいたのだろう。

槙がそれを見て、しくしくと泣き出した。

しまった、大人が揃ってこんな顔していれば、コイツもどうしていいか分からなくなってしまうな……。


「優さん、どうなるの、父さん……」


俺のことを“優さん”と呼ぶ槙は、近しく心を開いてくれている。

赤ん坊の時から、ずっと成長を見守ってきたんだ。

俺はそっと立ち上がって槙の隣に座ると、その肩を抱き寄せた。


「父さんは、大丈夫だって。な、心配するな」


言ってる傍から、こんなに説得力の無い声で話したって……と、自分を戒めた。

卓は今日一日集中治療室に入って、明日か明後日には手術ということだった。

俺は百合音と槙を自宅まで送り届けた。

病院に泊まり込むわけにもいかなかったからだ。


「明日また病院行くよ。明日から派遣先が変わるから、何時に行けるか分かんねえけど」

「え?ずいぶん急な話なのね」


そうだ、卓の怪我で自分のことは吹っ飛んでいたが、俺も今日はどうしようもない一日だった。

嫌な事なんか、シンクロしなくてもいいのにな……。

俺は家に帰って、久しぶりにウイスキーのロックをあおった。

5年前に実家を出て一人暮らしを始めた俺は、須藤宅から駅ふたつ向こうに部屋を構えていた。

会社にも近いし、卓の家にも行きやすかったからだ。

これからアイツら、どうするんだろう。

卓はしばらく病院から出られないだろうし、出られたとしても会社に復帰するのはもっともっと後の話だ。

しかし……。

陸上部はもう続けられない。

どんな仕事を任されていたのか知らないが、陸上がメインみたいな感じだったから、これから憶える仕事も山積みになるだろうな……。

人の事ばかり考えてもいられない。

明日から派遣される桜ケ丘高校は、一体どんな雰囲気なんだろう。

分からず屋な今までの顧問みたいのが、いなければいいが。

部員の質も気になる。

同僚に言わせれば。昨今の高校生は話の通じない奴もたくさんいるらしい。

今まで指導していた部員たちはみんな素直な奴らだったけれど、あれを基準にしたら痛い目に遭うかもしれんな……。

久しぶりのアルコールは、一気に体中に酔いを回した。

俺は急激に奪われていく意識を感じながら、ベッドに深く沈みこんだ。


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