第16話
結局卓は、ほどなくして会社を退職した。
うまく話しできなくてゴメン、と謝る俺に、優でもダメだったならしょうがないよ……と、百合音は小さく首を振った。
卓はほとんど家から出ることなく、毎日ぼんやりと部屋の中で過ごしているのだという。
まるで抜け殻ね……。
寂しそうに百合音は目を伏せた。
週に一度の通院だけが卓の外出で、車を運転する百合音はなるべく遠回りをして、ほんの少しドライブをするのだと言っていた。
俺も日曜の休みの日には卓を訪ねて何処かに行こうと誘ったが、卓は外には出たくないと頑なに拒んでいた。
外に出れば、どうしてもトレーニングをしている人に目が行ってしまう。
走っている人を見ると、それだけで胸が苦しくなってしまうんだと話す奴を、無理に連れ出すことはできなかった。
この頃から、卓はあまり眠れないというので、病院内にある心療内科で睡眠剤を処方してもらっていたようだ。
完全に無気力になった卓を、俺たちはどうすることもできなかった。
奴はずっと引きこもったような状態で、時間だけが淡々と流れていった。
それから約2年。
槙が中学2年の秋、合気道の全国大会が四国で開催された。
それに出場するため、親同伴の泊りがけで行かなければならない。
百合音は前日に俺に電話をかけてきて、卓の様子を見に来てほしいと言った。
自分の留守中のアイツが気がかりだったのだろう。
俺は、会社から帰ったら訪ねると言って電話を切った。
翌日、夜7時くらいに帰宅した俺は、玄関に入ってほどなくしてインターホンが鳴るのを聞いた。
宅配便か?と思いながら玄関を開けると、そこには卓が立っていた。
ずっと外出してなかったのに、ましてや一人でだなんて。
俺は心底驚いて、一瞬言葉を失った。
「……オマエ、どうしたんだ……」
やっとのことで出した声は、上ずって掠れていた。
卓はニコッと笑った。
久しぶりに見る、無邪気な笑顔だ。
「上がっていい?」
俺の返事も待たず、ドアを押しのけるように卓は部屋の中に入ってきた。
「久しぶりにここに来たなあ。優、相変わらず部屋汚いな」
フフッと笑いながら、ベッドの端にそっと腰掛ける。
怪我をする前の、いや、大学時代の卓みたいだ。
「どうしてここまで来たんだよ」
「どうしてって、普通に電車に乗って歩いてきたよ?」
そうじゃなくて……っ。
オマエはほぼ2年間、引きこもりの状態だったよな。
急にこの部屋にコイツがいること自体が、俺にはなんだか信じられなかった。
「今夜、泊めて?」
これまた突然何を言い出すのか。
「いや、家にオマエがいなかったら、百合音が心配するだろうよ。アイツ、今、槙と一緒に四国だろ?」
「知ってたんだ?」
「……昨日百合音に頼まれていたんだ。オマエの様子を見に行くようにって」
卓はフウッと小さく息を吐いて、天井を見上げた。
「心配しすぎなんだよな、アイツ。今日はいないから、思い切ってここに来たんだ」
「…………」
百合音が心配するのは当たり前だろ?
この2年間、どんな気持ちで傍にいたと思ってるんだよ。
「な、泊めてよ。そういう話になってるのなら、俺が家に居なければ優の携帯に電話がかかるだろ?」
「そういうわけには、いかない。泊まるというなら、今すぐ百合音に電話しろ。余計な心配をかけさせるな」
俺は自分の携帯を卓に渡した。
それでかければ、ウソじゃなく俺と一緒にいることが分かるだろう。
奴は憮然としていたが、素直に携帯を受け取って、百合音の電話番号を押し始めた。
電話の向こうの百合音は、さぞかし驚いていることだろう。
俺は何となく居心地の悪い気分で電話が終わるのを待った。
「分かったって。優によろしくって言ってたよ」
そんな冷静な受け答えをしたとは思えない。
でもこれ以上どうこう言ってもしょうがないな……と思い、俺は簡単な食事の準備をし始めた。
「腹、減ってないか?大したものじゃないけど、作るぞ」
「え、優、料理するんだ?うん、腹減ったよ。なんでも食う」
卓は嬉しそうにベッドから立ち上がって、コンロの前の俺の横に立った。
おい、ソコに居たら邪魔なんだよ。
俺は右肘で奴を軽く小突く。
ははっと笑いながら、再びベッドに戻っていく卓。
……状況は全く違うのに、何故だろう。
寮で一緒に生活していた時のことを思い出す。
俺は冷蔵庫からキャベツと肉を取り出して、焼きそばを作った。
小さなテーブルにフライパンごと持っていく。
「こいつを盛り付ける皿なんか2枚も無いからな、ここに箸を突っ込んで食うぞ?」
卓の目はキラキラと輝いていて、割り箸をパチンと割ると同時にフライパンの中に手を突っ込んだ。
「あー美味い!なあ、焼きそばとかカレーってさ、急に無性に食いたくならねえ?」
今日の卓は饒舌だ。
俺は狐につままれたような気分だったが、これはもうこの状態を受け入れて楽しんだほうが良さそうだなと思った。
ふたりで食う焼きそばは、いつもと変わらない味付けのはずなのに、なぜか本当においしく感じられた。
そういえば。
こうして卓と二人だけで食事をするのは、もしかしたら1年の時のコンビニパン以来かもしれない。
いつも誰かが一緒に食事をしていて、こんな機会無かったよな……。
「ホント、美味いな。って、自画自賛だな」
俺の言葉にクックッと笑いながら、卓はどんどん焼きそばを頬張る。
この2年間が、まるで嘘のような感じがした。
食事を終えて、卓を風呂に送り込む。
その間にフライパンを洗ったり、簡単に部屋を片付けたりしたが、よく考えてみると寝る布団なんか無いなと思った。
仕方ない、ベッドをアイツに譲って、俺は床で寝るか……。
お先に、と言いながら上がってきた卓に入れ替わって、俺も風呂に入る。
しばらくして上がってみると、卓は背中を向けてベッドに横になっていた。
「ん?寝たのか?」
上からそっと顔を覗き込むと、小さな寝息を立てながら目をつむっている。
ったく、寝るならちゃんと布団の中に入れよ……。
せっかく風呂に入ったのに、また冷えるだろ?
俺は卓の下敷きになっている掛け布団を無理やり引き出して、身体の上にかけてやった。
「……優?風呂上がったのか?」
眠そうな卓の声が聞こえる。
「ああ、起こしちまったな。っていうか、オマエ、寝るならちゃんと布団に入れって」
「眠れるとは思ってなかったから、油断した」
薄目を開けて、こっちを見る。
そうだった、コイツは眠れなくて薬に頼らなくちゃならないくらいなんだ。
「今日は眠れそうじゃないか。そのままそこで寝ろ?」
俺はもう一度、布団を上に引き上げてやった。
その手を、卓がギュッと握ってくる。
「優はどうするんだ?どこで寝るの?」
「俺は床で寝るさ。気にすんな」
卓はぼんやりとした眼差しで俺を見ていたが、小さな声でハッキリと言った。
「一緒に寝ようよ」
「えっ」
一瞬、なんて言ったのか分からず、俺は卓の顔をまじまじと見た。
「だから、一緒に寝ようって」
「……いやいや、このベッドに二人は狭いだろう?却って眠れないぞ?」
それには答えず、卓はフイッと目を逸らした。
「……うたた寝で冷えちまったよ」
確かに握りしめてくる手は冷たい。
でも、でも……。
戸惑う俺の手を、布団の中に引き込もうとする。
「寒いんだ、優。あっためてよ……」
……このセリフを聞いたら、もうダメだ。
俺は布団をめくって、そっとベッドの中にもぐりこんだ。
すかさず卓が抱き着いてくる。
俺も冷え始めたその身体をそっと抱き返した。
「やっぱりあったかいな……」
耳元で囁くように卓はつぶやく。
いくらだって温めてやるさ。
今日みたいに、オマエが笑ってくれるなら。
どんなことだって、してやるよ。
柔らかな髪に触れる。
不意に卓は、間近で俺の顔を覗き込んできた。
「…………っ」
今のは……っ?!
不意打ちのように重なった唇に、頭の中が真っ白になった。
卓は、眩しいものを見るように目を細めた。
もう一度、柔らかな感触が唇に触れる。
俺は思わず顔を逸らして呼吸を整えた。
心臓が口から飛び出そうなほど、ドキドキしている。
この音が、卓に聞こえてしまわないだろうかと、俺は横目でチラッと奴の顔を見た。
「ゴメン、優。ビックリしたよな。もうしないから、気にしないで」
ゆっくりと目を閉じて、満ち足りたような表情で再び抱き着いてくる。
俺は思わず衝動的になってしまいそうなギリギリの線で、何とか平常心を保った。
そうだ、俺はこいつを温めてやるためだけに抱きしめているんだ。
もう一人の俺が囁く。
“もう十分温まっただろう?”
いや、こんなに抱き着かれて、抜け出せるわけないじゃないか・・・。
再び囁く声が聞こえる。
“振り払ってでも、抜け出せばいいだろう?”
“なんだかんだ理由をつけて、結局コイツを抱きしめたいんだろ?”
……そうだよ、俺が、卓をずっと抱きしめていたいんだよ……。
腕の中で寝息を立て始めた卓を慈しむように、俺はその夜一晩、ずっと間近でその顔を眺めていた。
……そして、一本の電話がかかってきたのは、この日からちょうど一週間後のことだった。
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