第17話

その日は冷たい雨が降っていた。

秋雨前線が日本列島を縦断し、しばらくは長雨になりそうだと天気予報が伝えていた。

部活を早々に切り上げて、帰社途中の社用車の中で携帯が鳴った。

交通の邪魔にならないところに止まって、電話を取る。

聞こえてきたのは、百合音の声だった。


「……優。今、大丈夫?」

「ん?ああ、高校から会社に戻ってる最中なんだ。どうした?」


 電話の向こうがしばらく沈黙する。俺はなんだか嫌な予感がした。


「……卓に何かあったか?」

「……優……。卓、亡くなったの」


 …………え…………。


「ちょっと、待て。今、何て言った?」

「今日、どうしても外せない用事があって外出していたんだけど、家に帰ったら、もう……」


……なんで、なんでだよ。

喉が張り付いたように、声が出ない。


「優……。今、北部病院に来てるの。卓もいるわ。会いに来てやって……」


信じないぞ。

俺はそんなの信じない。

つけっぱなしのワイパーが、規則正しく動き続ける。

しばらく俺はハンドルに突っ伏したまま動くことができなかった。

頭の中が、シーンという音で埋め尽くされていく。


「優」


不意に耳元で、卓の声が聞こえたような気がした。

弾かれたように、俺はシフトレバーをドライブに突っ込んで、無我夢中で北部病院に向かった。

社用車を会社に戻さなければならないことなど、頭からすっ飛んでいた。

2年前に飛び込んだ救急センターの入り口に、再び飛び込むことになろうとは。

素早く自分の名前を告げて、案内を受ける。

廊下の突き当りの一室に、静かに卓は眠っていた。

傍らで、百合音と槙が縋りつくようにして泣いている。


「卓……」


俺はまだ信じられなかった。

そっと近づいて、百合音の肩に手を置いた。


「ゴメン百合音、槙……。本当に、申し訳ない……。ふたりっきりにさせてくれ」


百合音は泣き腫らした顔を上げて、無言で槙を連れて部屋を出て行ってくれた。

ベッドの傍らに置かれた椅子に、そっと座る。


「卓、何やってんだよ、こんなところで」


色を無くした頬に右手で触れる。

左手で、胸の上に組まれている手の甲を包む。


「……また冷えてんなあ、オマエ。ったく、寒いんだろ?」


答えは無い。

俺はゆっくり立ち上がると、額と額を合わせてその身体を抱きしめた。


「しょうがないなあ、あっためてやるよ」


力の限り、抱きしめる。

涙が、合わせた額を伝って、卓の額をどんどん濡らしていく。


「……俺の体温、全部オマエにやってもいいから……。目ぇ、開けろよ。開けろってば」


俺の涙なんか、どれだけ見られてもいい。

オマエが戻ってくるなら、どんなことだってしてやるよ。


「……っ、なんで、温まらないんだよっ!チクショウ!卓っ!」


どんなに、どんなに抱きしめても、その身体に再び熱が戻ることは無かった。

それでも俺は、どうしても抱きしめた腕を離せずにいた。

どれだけの時間が経っただろう。

ふと気が付くと、百合音と槙がすぐそばに立っていた。


「ゴメンね、優……。槙がどうしても傍に行きたいって言うものだから……」


俺はようやくその腕を離して、槙を近くに寄せてやった。

俺の涙でグシャグシャになった前髪にそっと触れている。

その目には、次から次へと涙が溢れていた。


「百合音、卓はなんで……」

「……薬、大量に飲んでた。」

「…………っ」


自殺だったのか?!なんでっ!

百合音は槙に父親を頼んで、そっと俺を廊下に連れ出した。


「優……。卓、これを抱きしめて倒れていたわ……」


差し出されたのは、一枚の写真だった。

それは最後の箱根で撮った、二人の笑顔。

肩を組みあって、満面の笑みで納まっている。

……卓、なんでコレ……。


「きっと、卓の中で一番輝いている思い出だったのよ。純粋に陸上に情熱を注いで、そして……」


百合音は切ない表情で俺を見つめた。


「卓、ずっとずっと優のことが好きだったのよ。……知ってたでしょう?」

「…………」


ゴメン、百合音。

たぶん俺、知ってたんだ……。

知ってて……、気づかないふりをしてた。

でも。


「卓は百合音の旦那だろ?槙だって生まれてんのに、そんなことあるかな」

「‥…卓がアタシを抱いたのは、槙が出来たときの一度きりよ。それも、アタシがお願いして」

「えっ」

「まさか子供ができるとは思ってなかったから、驚いたけれど……」


そうだったんだ……。


「付き合い始めてくれたのだって、カモフラージュだったと思う。卓、いつもなるべくアタシと二人きりにならないようにしてたわ。槙が生まれる前、しょっちゅう優も連れてきたのは、そのせいよ」


……何て言ったらいいんだろう。


「オマエ、それで寂しくなかったのかよ」

「……寂しくないわけ、無いじゃない。ずっと寂しかったわ。でも、それでも、アタシは卓の傍にいたかった」


唇を震わせながら、百合音の目から大粒の涙が溢れだした。


「どんな形でもいいから、アタシはずっと卓の傍に居たかったのよ……」

「百合音……」


俺はほんの少しためらって、それでもやはり、百合音の肩をそっと抱く。

百合音は拳で小さく俺の胸板を叩きながら、そこに顔をうずめてしゃくりを上げた。

卓……、オマエ、そんなに絶望してたのか。

陸上が出来なくなったのは、それほどオマエを壊してしまったのか。

この前、そんな素振り、ちっとも見せなかったじゃねえかよ。

……あの時俺がオマエの気持ちに応えてやっていたら、何か変わっていたのかな。

どんなに考えても答えは出ない。

そして、もし答えが出たとしても、もう卓は二度と戻っては来ないんだ……。


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