第18話
長い長い時間、俺はずっと考えた。
そして、ようやく分かった。
俺も、卓が好きだった。
ずっとずっと好きだった。
卓の気持ちに気づかないふりをしながら、自分の気持ちにも気づいてなかった。
百合音と付き合っていると言われた時のあの胸の痛みは、百合音に卓を渡したくなかったのだと。
何度も襲った、同じような痛み。
子供が出来たと言われた時も、結婚の話の時も、そうだった。
どうして目を背けていたんだろうな。
あんなにたくさんのサインを寄越してくれた卓に、俺はちっとも応えてやれなかったような気がする。
百合音は全部、分かっていたんだろうな。
卓の気持ちが自分には無い事も、俺が卓を好きだということも。
4年の箱根の晩に、卓をよろしくたのむ、と言えたアイツは、本当に卓のことが好きだったんだな……。
俺なんか、ちっとも敵わねえ……。
初七日が過ぎて、小さくなった卓を目の前にしながら、俺と百合音はぼんやりと遺影を眺めていた。
「ねえ、優。アタシがどうして槙に陸上をやらせなかったのか、分かる?」
「え?そりゃあ、本人が合気道をやりたかったからじゃねえの?」
「それは、表向きの理由よ。アタシ、槙まで陸上に獲られたくなかったの。槙が陸上の素質を持ってるのは、分かっていたわ」
「百合音……」
「親子だもの、絶対に槙ものめり込むと思ったわ。卓と優の間にある深い絆に、槙も入ってしまったら、アタシはきっと自分が壊れてしまうって思ったのよ」
そんな馬鹿な、と思ったが、百合音をここまで追い詰めたのは俺たちなんだよな……。
「昨日ね、槙が合気道を辞めるって言ってきたの。辞めてどうするのって聞いたら、何もしないって答えるのよ。もしかして、陸上やりたいの?って聞いたら、それは絶対にやりたくないって」
百合音はフウっとため息をついて、天井を見上げた。
「陸上が憎いんだって。父親が自殺したのは、陸上のせいだって」
思春期に差し掛かった子供なりに、父親の自殺の原因を思いめぐらせたのだろう。
陸上が出来なくなって壊れていった父親を間近で見ながら、槙は何とか自分が納得できる理由を見つけたかったのかもしれない。
「でもね、アタシには分かるの。槙は、陸上をやりたいと思ってるわ。本人は気が付いてないけど……。アタシの勝手な我儘で申し訳ないけれど、優、槙を陸上の世界に連れて行ってやって……」
「……そんな、どうやって」
「優が今行ってる高校、そこに誘ってやってほしいの。今すぐじゃなくていいわ。もう少し落ち着いたら、話してほしい。あなたの言葉で」
俺の言葉で?俺に、槙を説得できるような言葉があるとは思えないが……。
百合音はゆっくり首を横に振って、切ない顔で俺を見た。
「我儘ついでにもうひとつ……。槙の種目は短距離にさせるわ。長距離は絶対に嫌なの」
「……なんで」
「私の中の長距離ランナーは、卓だけなの。卓と槙を、重ねてしまいそうだから……。それじゃあアタシ、辛すぎるの。ホントにアタシの我儘だし、槙には申し訳ないけれど、絶対に長距離はダメよ」
「……分かった。進学先を決める前に、必ず話す」
「……槙を、よろしくお願いします」
……今度は槙を頼むのか。
百合音、オマエの寂しさが痛いよ。
俺は精一杯応えてやらなきゃならないだろう。
もう、誰も悲しませたくない……。
4月に入って、槙が中学3年になったのを見計らって、俺は話を持ち掛けた。
最初はひどく嫌がって、一時は俺に会うことすら拒んでいた槙は、6月の中旬頃ようやく俺の言葉に小さくうなずいた。
「卓が……、父親が見てきた世界を、オマエも一度は見るといい」
これが、精一杯の“俺の言葉”だった。
卓が見てきた世界、俺が見てきた卓の世界、オマエにも見てもらいたい、槙。
「……俺、短距離ならやるよ、優さん。長距離は……、辛いから。」
百合音に何か言われたんだろうな、ということは容易に想像できた。
本当なら、俺は槙に長距離をやってほしい。
父親と同じ風景は、やはり長距離じゃないと見えないだろう。
でも、いいんだ。
槙が陸上をやろうと決めた、そう、槙の意思で。
俺はコイツを連れていくよ、あのフィールドへ。
見ててくれよな、卓。
そして応援してやってほしい。
いつかコイツが、どこかの頂点を目指せるように。
初夏の空を仰ぎ見る。
俺は、遠くに行ってしまった大好きなアイツに俺の想いが届くようにと、深く深く深呼吸をした。
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