第4話

年が明けた。2日8時スタートの本番に向けて、俺たちは前日から大手町のホテルに宿泊した。

相部屋には3年の先輩と2年の先輩、そして卓がいた。

翌日に備えて9時には消灯と監督命令が出て、皆ベッドの中に入る。

そうはいっても明日のことで頭がいっぱいで、アドレナリンが絶えず出ているような状態だ。

誰一人、そのままグッスリというわけにはいかなかった。

先輩たちがゴソゴソと何か話をしている。

俺は少しずつ目が慣れてきた暗闇の中で、ぼんやりと瞼を開けていた。


「優、起きてる?」


隣のベッドに入っていた卓が、囁くような声で話しかけてきた。


「ん……、眠れないな」

「ちょっとそっち行っていい?」

「えっ」


俺の返事を待たずに、ベッドの中に卓がそっと潜り込んできた。

ヒヤリとした手足が俺の肌に触れて、その冷たさにゾクリとする。


「あー、あったかい。寒かったんだよな。冷やすと明日に響くからさ」


……人間カイロか、俺は。

どんどん卓に奪われていく熱を感じながら、俺は心の中で毒づいた。

それにしても、男同士ひとつベッドの中っていうこの光景は……。


「なあ、優。前に、周りをちゃんと見ろって言ってくれたよな。そのおかげでみんなと親しくなれたし、俺、もっともっと自分を客観的に見られるようになった。ホント、サンキュな」


ふたりで並んで寝るには狭いベッドで、俺たちは天井を見上げていた。


「アレは百合音がオマエを心配していたんだ。アイツ、オマエの事よく見てるよ」

「そうだったんだ。そっかー、じゃあ百合音にもお礼言わなきゃな」


フフッと笑って、卓はこっちを見た。


「明日俺、頑張るよ。初めて走る場所だから、ドキドキするけど」

「……卓、なんで戸塚で待ってろって言ったんだ?」


俺は走っているオマエが見たいんだけど。

それの答えを、卓はそっと耳に口を寄せて囁いてきた。


「オマエが待っていたら、早く会いたいって思うから」


そしたらきっと誰よりも、先に戸塚に着きたくなるだろう?

俺は一瞬固まって、横目で卓の方を見た。

間近で目が合い、なんて答えたらいいのか動揺してしまう。


「……そりゃ、ものすごい原動力だな」

多分俺の笑顔はぎこちなかっただろう。

それでも卓は嬉しそうに笑っていた。

あったまったし、自分のベッドに戻る、という卓に、冷たいベッドに戻すわけにはいかないと思った俺は、自分が卓のベッドに移動した。

先輩たちはいつの間にか寝てしまったらしい。

スピーッスピーッと規則正しい寝息が聞こえてきた。

そんな中俺は一人、胸の鼓動が耳元までせりあがってきているのを感じながら、ギュッと目をつぶった。

まんじりともしない夜を越えて迎えた正月二日目の朝は、突き抜けるような青空だった。


「こんなに早起きの正月なんて、初めてだよ」


6時にホテルを出発した俺たちは、そんなやり取りをしながらスタート地点の読売新聞社前に向かった。

現地に着くと、それまでしっかりシミュレーションした通り、部員は次々に自分の持ち場に分かれていく。

俺たちBチームは、とりあえず2区のスタート地点となる鶴見中継所に向かった。

そこはもうすでに出場校の選手やサポーターたちで溢れかえっていて、本番前の独特の空気感が緊張を高めていた。

あてがわれている所定の待機場所に荷物を置いて、1区のランナーを迎えられるよう準備を整える。

卓は荷物の端っこに埋もれて、シューズを履きかえていた。

その表情はいつもと同じで、コイツがこれから2区を走るなんて不思議なほどの穏やかさだった。

腕時計を見る。

もう7時50分だ。

あと10分でスタートのピストルが鳴り響くのだ。

ずっと夢見てきた舞台の裾に立っていると思うと、背中をゾクゾクするような痺れが駆け上がる。


「卓、俺、戸塚に向かうな。オマエが襷を受け取るのを直接見たいけれど、そうしたら戸塚に間に合わないだろうからさ」


丁寧に紐を縛っていた卓は、クッと顔を上げて笑った。


「うん、よろしくな」


ハイタッチを求めてくる。

その掌にパシンっと掌を打ち付けて、俺は鶴見を後にした。

給水所のサポートに入っている6名のメンバーも一緒に車で移動する。


「多田はどうして戸塚に行くんだ?あっちはCチームが全部手はずを整えてくれるだろう?」


3年の先輩が不思議そうに聞いてくる。


「卓が、俺に待っていて欲しいって言うので。監督にも了解得ています」


4年の先輩が、しげしげと俺を見た。


「そっか、やっぱり須藤は多田のこと頼ってんだなあ」

「え?」


そんな話、初耳だった。

聞くところによると、例のアドバイスの夜に、寮の先輩たちを捕まえては、優がこんなこと教えてくれたんだと嬉しそうに話をしていたらしい。


“先輩たちも、そう思ってました?えっ、思ってた?どうして教えてくれなかったんですか。あー俺にこんなこと言ってくれるの、優くらいだなあ。やっぱり俺、優が居なきゃダメだなあ、ねえ先輩”


何度も同じことをマシンガンの様に繰り返すものだから、キャプテンが思わず注意していたくらいだったと。

上級生に向かって、その天然ぶり……。

何となくその場面が見えるようで、俺は思わず額を押さえた。

俺のその様子を見て、4年の先輩がフッと笑う。


「アイツ、ああ見えて結構繊細な奴だと思うよ。多田、しっかり支えてやってくれな」


一緒に生活してみれば、何か感じる物があったのかもしれない。

このとき俺は、そうかなあ、そうは見えないなあと首をかしげていた。

戸塚に着くと、Cチームの専マネになっていた百合音が見えた。

俺に気が付いて、駆け寄ってくる。


「卓、どんな様子だった?」

「いつも通りだったよ。全然緊張してないみたいだった」


心配そうな表情だった百合音が、ホッと息を吐いた。

それより、もう1区は走り出しているはずだ。どんな様子なのだろう。

待機場所に入ると、記録担当の先輩がタイム計測地点の部員と携帯でやり取りをしている。

その手元を覗き込むと、品川駅通過の記録が目に入った。

その時点で、12位。

第三集団の中にいるようだ。

時計が9時を過ぎた頃、トップは早くも襷に手をかけ始めた。

例年より早いペースだ。

もうすぐ卓が襷を受け取るんだ。

俺は自分のことのようにドキドキした。

1区は何位で入って来るだろう。

少しでも順位が上がってくれるといいのだが。

俺たちは祈るような気持ちでワンセグの画面を見ていた。

さっきチラッと映った画面では、うちの大学は第三集団に辛うじて噛り付いていたものの、かなりの疲労が見られた。

ワンセグの画面が慌ただしくなる。

トップランナーが中継所に入ってきたのだ。

今年最初の襷がつながる。

それと同時に、こっちでもトップとの差を計るためにストップウオッチを回し始めた。

次々にランナーが中継所に飛び込んでくる。


「あ、スタンバイしたよ!」


画面の中に、卓がスッと入ってきた。

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