第6話

その晩は、芦ノ湖に入っていたエントリー選手とEチームメンバーが近場の旅館に宿泊した。

他の部員たちは各々の持ち場からすでに帰宅して、明日また担当の持ち場に現地集合となっている。

そんな中、俺は卓に引っ張られて芦ノ湖まで来てしまっていた。

本来なら戸塚から帰宅するはずだったのに。

親に迎えに来てもらうかと思っていたが、監督が旅館に頼んで俺も泊まれるようにしてくれた。

須藤が連れてきてしまったのだから仕方ないと言いながらも、こっそり俺に“アイツをよろしくな”と耳打ちしてきた。

よろしく、と監督から言われるほど、俺は卓の面倒を見ているつもりも無かったのだが、その理由はその夜に分かることとなった。

各大学が芦ノ湖を引き払っていく中、俺たちも宿泊の旅館に向かう。

着いてすぐに5人の往路ランナーはトレーナーに身体をメンテナンスしてもらう。

幸い、だれも故障することなく終えることができていたようだ。

夕食の前に翌日のミーティングを行う。

俺は選手でも芦ノ湖チームでもないのに、こうしてこの場に居られるのが嬉しかった。

百合音も一緒にいたら、どんなにか楽しかっただろうと思った。

戸塚を出払うとき、アイツ、“優ばっかり、ズルいよ~~”ってブウたれてたな。

帰ったら、ここがどんな風だったのか教えてやろう。

旅館の食事はさすがに美味しく、今日一日ゆっくり飯も食ってなかったな……と思い返す。

腹が減った、ということにも気が付かないほど、俺たちは興奮していた。

箱根の湯に浸かり、疲れをいやした後は、やはり昨日同様9時には消灯だ。

2部屋に分かれた部員たちは8人ずつの相部屋で、ギュウギュウに敷き詰めた布団に雑魚寝の様に眠りについた。

昨日あまり眠れなかった俺は、すぐに睡魔が襲ってきそうだ。

隣の卓も、背中を向けて丸まっている。

あれだけ力を出して走ったんだ、相当疲れているに違いない。

目を閉じた俺は、一瞬のうちに意識が飛んだ。

どれだけの時間が経ったのだろう。

俺は肩を掴まれて揺らされている自分に気が付いた。


「ん……、何だ……?」


薄目を開けると、天井の薄明かりを遮るように黒い影が俺を見下ろしている。


「…………っっ」


古い旅館だ。出たのかもしれない。

俺は心の中で南無阿弥陀仏を唱えながら、ギュッと目をつぶった。


「優、起きたんだろ?」


俺はもう一度、恐る恐る目を開けた。布団の上で正座した卓が、真横でじっと俺を見ていた。


「……何やってんだ?オマエ」


髪を掻き上げながら、俺はゆっくり起き上がった。部屋は空調が効いているものの、やはり肌寒い。ブルッと震えながら、布団を引き寄せる。


「オマエも冷えるぞ?布団、肩から掛けろよ」


寝ぼけ眼(まなこ)をこすりながら、卓の布団も引き寄せた。


「ありがとう。でも、ここじゃ何だから、部屋出よう」


旅館の半纏を羽織って、卓はそっと部屋を出て行った。

何だ?俺に用があるのか?こんな真夜中に。

俺も半纏を羽織って、奴の後を追いかける。

廊下の突き当り近くに設えられた年季の入ったソファに、卓は座っていた。

窓からの月明かりが、奴のシャープな横顔を照らし出して、深い陰影を作っている。


「どうしたんだ?眠れないのか?ってわけじゃないよな、さっき寝てたもんな」


俺はゆっくり卓の隣に腰かけながら、窓を見上げた。

山の中の月は、都会と違って殊更輝いて見えるようだ。


「優、今日はありがとう」


俺の方をそっと見て、卓はニコッと笑う。

いや、どういたしまして……っていうか、それを言うために?

俺は訝しげな目つきで卓を見た。


「あーあ、トップで入れなかったなー、悔しいな」


突然卓は歌うように言った。

またそんなこと……。


「13人も抜いたんだぞ?悔しがるところじゃないだろ、ソレ」


俺は呆れたように言い放った。

卓はフフッと笑って、“そうなんだけど”と呟く。

しばらく俺たちは言葉もなく、ただ一緒に月を眺めていた。


「……やっぱり来てくれなかったな」

「え?」


不意に卓が小さく呟いた。

来てくれなかったって、誰が?

話が読めず、俺は次の言葉を待った。


「俺さ、この大学入るの反対されてたんだ、親に。オファーの中に、箔が付く大学もあってさ。親はそっちに行かせたかったんだよね。うちの親、教育熱心で見栄っ張りだからさ」


確かにうちの大学は、他の出場校に比べて若干レベルが低い。


「箱根走るって伝えたんだけどね。親の希望の襷を掛けていない俺には、興味ないって言われちゃった」


そうは言ってても来てくれるんじゃないかって、ちょっとは期待してたんだけどさ。

卓は寂しそうに笑う。

興味ないって……どんな親だよっ!

俺は単純に、卓の親が来ないのは広島という遠距離だからだと思っていた。


「俺、ずっと親の期待に応えてきたんだ。陸上だって、内申の為に中学から始めたんだよ。でも、やってみたらすごく楽しくて、俺のやりたいことはコレだって思ったんだ。でも勉強第一だった親はいつも、少しでも成績が落ちたら陸上のせいにしてさ」


そんな事言われたくなかったから必死で勉強もしたし、陸上も極めたかったからソコに力を入れてる高校に入ったんだ。

勉強と陸上の両立は大変だったけど、そうしなくちゃ陸上を辞めなきゃならなくなると思って。


「俺、実は陸上続けられるなら大学はどこでも良かったんだ。だからオファーが4校も来たときは、親が薦めるならそこでいいかなって思ってたんだ」


あんなに陸上を軽視してたのに、レベルの高い大学からのオファーで親も舞い上がっててさ。

でも。


「実は監督が広島まで来たんだよ。どうしても俺の力が必要だって。親は門前払いしたけど、玄関先で深々と頭下げてさ……」


すごく熱心でさ、俺は監督に着いていきたいって思ったよ。

でも親は監督の目の前で、この大学に行くなら援助はしないって言ったんだ。

箱根だってシードじゃないし、学校のレベルも4校のうちでは一番下だったからさ。

そんな風に言えば、俺は親の言うとおりにするだろうって思ったんだろうな。

でも、すかさず監督が、自分が全部面倒見るって言ってくれて。

だから俺はあの寮に入ってる。

学費は特待免除だし、身の回りのものは、監督が揃えてくれてさ。


「そうだったんだ……。俺、どうして卓がこの大学に来たのか、正直不思議だったよ。」


卓はゆっくり俺を振り返った。


「初めて親に逆らって、ここに来たんだ。自分が納得できる成果を出したかった」

「それって、トップで襷を渡すってことだったのか?」


しばらく考え込んだ後、コクン、と卓は頷く。


「もともとそれにこだわっていたわけじゃないんだけど。親が行かせたがった大学って、今日のトップなんだ。追い越して、俺がトップに立ったら少しは見返せるかな、なんて思ったんだ」


再び窓の外を見遣って、卓は言葉を閉ざした。

沈黙が空気を染める。

どこからか空調の音が、微かに耳に触れ続ける。

いつのまにか月は進んで、窓の明かりが移動していた。

おもむろに俺は口を開く。


「……卓、俺はさ、トップを独走していた大学よりも、下から競り上がって2位に着いたオマエの方が、ずーっとすごい奴だって思うよ」

「…………」

「オマエの2位の方が、トップよりも遥かに価値が高いんだ。絶対だ。だから、もう見返してる」


俺は会った事もない卓の親に、怒りが抑えられなかった。

それと同時に、卓の寂しさが俺の胸に沁みた。


「ゴメン、俺、何か上手く言えない……。モヤモヤしちまって……」

「優、ありがとう……。伝わってるよ、言いたいこと」


いつもと同じ、穏やかな笑顔でこっちを見る。

この笑顔に隠れて、こいつは……。

何だかとてつもなく切ない気持ちが溢れてくる。


「そういえばオマエ、戸塚に着いたとき何か言おうとしてなかった?百合音が来ちゃったから、そのまんまになったけど」


俺のベンチコートを握りしめていた手を思い出す。

卓は少し照れたように目を逸らした。


「待っててくれて、ありがとうって言いたかったんだ」

「そりゃあ、待ってるさ。だって、そうして欲しいってオマエに頼まれたしな」

「俺さ、優と一緒に居て、友達ってこんなにも安心できるものなんだって初めて知ったんだ。今まではみんなライバルっていうか……、打ち解けることは出来なかったから……」


いつも気張った優等生。それが俺の評価だったんだ。


「そっか……、さぞかし窮屈だったろうな。今のオマエからは想像できないよ」

「決めてたんだ。地元を出たら、それまでの俺はきっぱり捨てるんだって。高校までの連中は知らないよ、ホントの俺がこんなだなんて。もちろん、親も。知ったら、卒倒するかもな」

「ははっ、オマエ、それまでの反動でぶっ飛んでしまったって感じだな」


思いっきり笑った俺に対して、微かに笑った卓は急に真面目な顔つきになって、俺の目を真直ぐ見つめた。


「戸塚で、オマエに受け止めてほしかったんだ。エントリーが決まったときも、心から応援してくれてたよな」

「監督も部員も、みんなお前のこと信頼して応援してるぞ?俺だけじゃない」

「うん、分かってるよ。でも、俺はオマエに待っててほしいって思ったんだ。オマエじゃなきゃダメだって」

「なんで……」

「友達、なのは、オマエだけだもん。みんなは確かに仲間だし好きだけど、友達としてずっと続いていけるかって言われたら、正直わかんないや……」


一匹狼の様に、黙々と練習をこなしていた頃の卓を思い出す。

あれはきっと、大学に入る前までの卓の名残だったのだろう。


「昨日も言ったけどさ、百合音もオマエをよく分かってくれるよ。アイツも友達だろ?」

「女じゃあ、友達って感じがしないんだけどな」

「そうかあ?俺、小さい時からアイツと一緒だったから、全然女感じないよ?」


卓はフフッと笑って、ソファを離れて窓辺に立った。

外を見ながら、つぶやく。


「友達がたくさん欲しいわけじゃないんだ。心から信頼できる相手が一人いれば、それでいいんだ」


座っている俺を、卓はゆっくり振り返った。


「俺、オマエに会えて、良かったよ」


初めて見る、泣き出しそうな笑顔。

ギュッと心臓を掴まれたような感覚が俺を襲う。


「買いかぶりすぎだ、卓。でも、嬉しいよ」


俺は努めて冷静に言葉を返す。

そうでなければ、俺の方が先に泣いてしまいそうだった。

卓、俺の方こそ、オマエに会えて良かったよ。

傍にいるだけでホッとするような奴。

今まではただそれだけだったけど、オマエの話を聞いて、もっとオマエに近づきたいって思ったよ。

もっと、オマエの世界を見せてくれよ。


「サンキュな、こんな夜中に話聞いてくれて」


もう部屋に戻ろうか。

明日、いやもう今日、朝早いしな。

俺もソファから立ち上がって、卓の隣に立った。

偶然触れた指が冷たく、コイツまた身体が冷えてるな……と心配になる。


「早く布団に入って、温まれよ?」


俺は部屋に向かって歩き出した。

後ろから着いてきた卓が、ぎこちなく手を握ってきた。

俺は前を向いたまま、視線だけを手元に落とす。

また人間カイロにしようとしているな?

でも今日も特別に温めてやるよ。

その手を俺も握り返す。

ここだけ見たら怪しい二人だなと失笑しながらも、俺はこの時、これからもずっとコイツの手を握っていてやりたいと思っていた。


  

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