最終話:今日という日の花を摘め




 夜更けの草原に、私はひとり立っている。風はない。草も木も、花も、サナトリウムもすっかり寝静まっている。

 我が深遠なる対話者は、ただ天蓋を埋め尽くす星々のみである。とは云え話すのはもっぱら此方であって、星々は静かに微笑みながら、じっと耳を傾けている。


 私は熱心に何事かを話している。聞けばどうやら、家族の思い出話をしているらしかった。銀座の時計塔を見物に行った話、見世物小屋でみた三ツ目小僧の恐ろしさに、兄が寝小便をした話……


 私が見てきた家族は、いつも背中姿ばかりであったように思う。

 経営者として力強く部下を率いる父の背中、それを甲斐甲斐しく支える母の背中、偉大なる父の後継者たらんと勉学に励む兄の背中。熱心に思い出話をする私自身はいやに明るく、軽薄な社交家のごとき身振り手振りで星々を笑いに誘っている。その背中は痩せこけて薄い。


 身の丈に合わぬ社交家ぶりを内心苦く思っていると、ふと視界の隅に白いものがはためくのを見た。糊のきいた白衣である。


 ――新島。


 皺ひとつない白衣を風に絡ませながら、新島がふわりふわりと浮かんで行く。慌てて伸ばした指の先を掠めて、更に上へ、上へと。

 新島は穏やかな笑みを浮かべていたが、置いていかれることが無性に不安で堪らず、私は軽薄な社交家の顔をかなぐり捨てて叫んだ。


 ――おおい、新島、新島。何処へ行く。


 ――還るのだ。


 ――行くな、行くな。何処へ帰ると云うのだ。お前の居場所は此処であろう。


 新島は幼い子供に言い聞かせるように優しい声色で、還ろう、あの時、あの場所へ、と応えた。やめてくれ。私は心の内で叫んだ。お前らしくもない、竹を割ったような男こそがお前ではないか。迂遠な物云いなどはよせ。新島は応えず、微笑みを浮かべたまま昇って行く。

 見れば、星空に浮かんでいるのは新島ひとりではなかった。矢野医師、佐伯さん、お栄さん、談話室の面々に、院長先生までもが、柔和な表情をたたえて浮かんでいた。必死に名を呼ぶも応える声はなく、焦燥ばかりが胸いっぱいに広がり、やがて凝り固まってひとつの言葉を成し――私は叫んで――


 はたと目を覚ました。夢であった。



 採血のあと、院長先生の診察があった。院長先生に診られるのはこれが二度目で、一度目は入院初日であった。日頃はまずないことに内心不安を覚えるが、カルテを手に入ってきた院長先生の顔を見るなりそんなものは軽く吹き飛んだ。笑顔である。それも極上の。


「進藤君がいなくなると、きっと寂しくなるねえ」


 診察を終え、浴衣の衿合わせを直していると、院長先生が小さな声でぼそりと云った。


 このサナトリウムから去るには二通りの手段がある。ひとつは己の足で前門を通って行く手段。もうひとつは、裏手の森を経てひっそりと運び出されて行く手段。誰も口にはしないけれど、裏手の森に、木々に紛れるようにして火葬場が設けられていることは周知の事実だ。日中の火葬は禁ぜられているため、立ち昇る煙を目にすることはない。


 このように、サナトリウムを去るということにはふたつの意味が付き纏うため、医師も気軽にはこれを口にしない。陽気なお人柄ながらこういうところは酷く慎重な院長先生がそれを云うのだから、私の体調は余程具合がいいのだろう。滋養ある毎食の食事と、適度な運動の賜物である。


 院長先生は立ち上がってひとつ伸びをすると、手を後ろ手に組んでにこにこと振り返った。


「作品はいつ読ませてもらえるのだろうか」


「はあ、いや、それは」


 思わず口籠る。一応、ある程度形になってきてはいるのだが。人に読ませるには、あと一歩の勇気が足りない。

 分かっているのかいないのか、院長先生は変わらぬ笑顔を浮かべたまま、楽しみにしているよ、と朗らかに云って部屋を後にした。



 夜。各々がトレイを持って自室に戻ってしまってから、談話室の窓辺に立った。先程までの騒がしさから一転、室内は心地よい静寂に包まれている。

 気温差に結露した窓にそうっと指を滑らせる。硝子は氷のように冷たい。窓の向こうには、満天の星空。そしてその反対側に、


「お前が遠くへ行ってしまう夢を見たよ」


 そう声をかけると、背後に立っていた新島が目を丸くした。驚かせる魂胆であったらしい。少し気不味そうにしながら隣に立つ。


「気付いていたのか」


「お疲れかな、新島先生。白衣姿がばっちり硝子に映っておりましたよ」


 ははあ、と新島も硝子に指を走らせた。二本の線が硝子に並び、溜まった水滴がぽろりと落ちる。


「それで、俺がどうしたって?」


「夢の話だ。夜空に吸い込まれてしまうんだ、お前も、院長先生も、矢野先生も」


「ふうん。確かにこんな空であれば、吸い込まれても不思議ではないな」


 新島は鼻がつく程窓に顔を寄せ、星空を見上げた。星々が明るすぎるかのように、眼鏡の奥の目を瞬かせる。


「確かに美しい光景ではあったが、まるで終わりを暗示しているようで、恐ろしかった。物静かな悪夢であった。患者が医師の心配をするなど、本末転倒もいいところだろうけれど」


 少し冗談めかしてそう云うと、果たしてそうだろうか、と新島は星空を見上げたままで呟いた。


「医師も患者も、生きているという点では平等だ。そして、生きている限り死はいつも隣に在る。健康というだけ俺達側に分があるが、もしこのまま開戦の運びとなってみろ。患者より先に徴兵されるのは俺達医師だ。そうなると俄然、医師の方が死に傾きが掛かることになる」


「……してくれ」


「可能性の話さ」


 そう、あくまで可能性の話だ。しかし昨今の世界情勢には、それを可能性として笑い飛ばすことを許さぬ逼迫感がある。

 なんとか絞り出した制止の声は、情けない程に掠れていた。悪夢の残滓ざんしが再び胸に蘇る。


mementoメメント・ moriモリ


 新島が不意に呟いた。死を忘れるな――そんな意味を持つラテン語である。新島が流暢にラテン語を操ろうとて驚かぬ。医学会はじめ、各種学会はの言語と密接な関わりを持っている。


「しかし僕は、その言葉があまり好きではないな」


「なぜ?」


「だって、あまりに空虚じゃないか。来世という考えは否定も肯定もしないが、しかし今我々が居るのは間違いなく今世だ。我、此処に在り! 泣き、笑い、怒り、時には喧嘩もして、今、此処で、生きている。それをお座なりにして来世に心を馳せるのは、僕は違うと感ずる」


 語るうちに胸が熱くなり、熱は瞬く間に全身へ伝播し、指先が震えた瞬間に言葉が口を突いて飛び出した。


carpe diemカルペ・ディエム


 そうだ、今朝夢の中で叫んだ言葉もこれであった。


 carpe diemカルペ・ディエム――今日という日の花を摘め。

 そう発した途端、目から涙が溢れ落ちた。まさか涙するとは思わなかった。尚も込み上げてくるこの感情は何だろう。新島が一瞬此方を伺ったようであるが、突然の涙を揶揄からかうようなことは云わなかった。


「何だ、それは」


「古代ローマの詩人、ホラティウスの詩に詠まれた一節だ。短く云えば『今日を摘め』――分かりやすく云い換えるなら、今この瞬間を楽しめ、ということだ」


 ふうん、と新島は感じ入ったように吐息を漏らした。いつもの悪戯めいた笑みではなく、嘆息のようにかそけき微笑を浮かべている。


「覚えておこう」


 新島は窓縁に突いた両腕に体重を乗せ、星空に向かって囁くように、


「お前も、忘れないでいてくれ」


 その声があまりに切実に聞こえ、軽々しく応ずることも憚られて、ただ無言でひとつ頷いた。

 その拍子に涙がもうふた雫、溢れ落ちた。



 ***



 あれから長い月日が経った。


 東京に戻ってからは再び元の下宿先に落ち着いていたが、結婚し、妻の懐妊を機に新居へと移り住んだ。本は全てサナトリウムに寄贈したので、広さとしては許容の範囲であったものの、なんといっても壁が薄く、子供の夜泣きが始まればきっと困ろうというのがその理由だ。

 転居に当たっては兄が尽力してくれた。今は副社長として経営のいろはを学んでい、相当に忙しい身であろうに、甥を可愛く思わない奴がいるかと照れ隠し混じりに手伝ってくれる。所帯を持ってなお実家の助けを借りることには気が引けたが、まともな稼ぎもない我が家には他に手もなく、最初のうちは固辞したものの結局甘え、今は、土埃の少ない土地の一戸建てに住まっている。妻は第二子を懐妊中である。


 兄は他にも何彼と面倒を見てくれ、恥ずかしながら、今は文筆家の末席に名を連ねている。とはいえ、たまに雑誌に掲載される原稿料だけでは家族を養うに充分でなく、実家の援助を受けつつではあるが。いずれは家長として己が筆のみでしっかり支えてやりたく思うものの、まだまだその道程は長い。


 己が事ばかりを恥ずかし気もなく書き連ねたが、世情はもっと激しく変動している。

 あれから大きな戦争が起こり、世論に突き動かされて我が国も開戦を宣言した。奇しくも新島の言葉通りになってしまったというわけだ。世界中を巻き込む大戦であった。戦地では敵味方の別なく、将来有望な若者が多く死んだという。唯一救われたのは、僻地の医師までが兵力として駆り出される前に戦争が終結したことであるが、身を削った争いが各地に遺した爪痕は深く、大きい。


 我々は、今世を力一杯生きる我々は、これから何処へ進めばよいのだろう? 子らが憂いなく笑い合える未来のためには……?


 重苦しい不安に呑まれそうになった時には、畳に座し、静かに瞑目するようにしている。そうすれば、その懐かしき姿は、苦もなく目蓋の裏に蘇ってくる。


 サナトリウム。愛すべき静岡の僻地。


 温かな人々と、細やかな不可思議に囲まれて過ごした四つの季節。美しい茸、青い目をした住人、酷い悪臭を放つ河童の子供、そのどれもが愛おしい。



  時は春、

  日はあした

  あしたは七時、

  片岡につゆみちて、

  揚雲雀あげひばりなのりいで、

  蝸牛かたつむり枝に這ひ――……


  我、此処に在り。

  我、共に在り。



「これ、お父様のお邪魔をしてはいけませんよ」


 たしなめる妻の声に目を開けば、這いずる力を得たばかりの長男が、我が膝によじ登ろうと苦心していた。脇の下に手を差し込んで抱き上げると、何が可笑しいのかあぶあぶと笑い声を上げる。何だ何だと思いながら、自分もまた笑っていることに気付く。


「あら、お仕事ですか?」


 赤ん坊を引き取りながら妻が云う。文机には数枚の書き損じと万年筆が散らばっている。


「うむ。僕の知る限り最も困難な仕事と格闘中だ」


 赤ん坊が残した温もりを両手に柔く握りしめてから、万年筆を持ち直した。


 恐ろしく達筆で臍曲がりの友人に、今年も年賀状を書かねばならぬ。






《箱庭の紙魚 完》

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箱庭の紙魚 山路こいし @koishi_625

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