09:深海の道標




 秋の陽は釣瓶つるべ落とし。

 天高く、雲は薄く、澄んだ空気には鹿の声。木々は赤や黄、思い思いの衣に着替え、山全体が早や秋の装いに包まれている。


 先日、遠く英吉利イギリスより便りが届いた。スティーブ氏である。

 赤茶の封蝋がされたその手紙に曰く、彼が執念と底抜けの誠実さでもって捕らえた悪戯好きの小妖精、ヤレリー・ブラウンは、氏が目を離した一瞬の隙に虫篭の網を食い破り、何処ぞへ消えてしまったという。小さきものの、なんと素早く狡猾なことか。

 それでは誰かが迷惑しよう、静岡産の小妖精が、遠き島国の友人を煩わすことになってはとても堪らぬと心配になったが、手紙の中の氏は陽気に明るく、此方の人は妖精の悪戯にも慣れているからどうということはない、案じてくれるなと、筆蹟も頼もしく綴られていた。


 手紙を読み終え、皺がつかぬよう封筒に戻し、窓の外に目を遣れば満目の紅葉。の国の葉も同様に色付くものであろうかと、海の向こうに思いを馳せる。

 次に返信を送る際には、紅く染まったもみじをひとひら同封するとしよう。きっと、便箋いっぱいの文字よりも情緒豊かに、秋のサナトリウムについてを物語ってくれるであろう。


 前庭には三本の柿の木が枝を伸ばしている。いずれも大人が目一杯広げた両腕と同じ大きさで、枝ぶりとしてはまずまずといったところ。

 その下では佐伯さんとお栄さんとが、腕を組み、枝を見上げて何やら話し込んでいる。どうやら今年のみのり具合を評しているらしい。洩れ聞いたところによれば、此処の柿はどれも甘いらしく、今から熟するのが楽しみである。


 ふたりと軽く会釈を交わし、色付いた落ち葉を踏みしめ、定番となった散策路を辿る。小道の傍には杉、ツゲ、山百々やまももなどが並び、その枝枝を、まるで軽業師のような身軽さでゴジュウカラが渡り歩いて行く。鳥達も実りの秋を喜んでいるようだ。


 最初、散策に決まった道はなく、ただ気の向くままに脚を運んでいたのだが、ある日気に入りの場所を見つけてからは、其処に向かうのを日課としている。台風にでも切り崩されたか、崖に面したそこからは木がぽっかりと抜け落ちてい、そのため見晴らしに優れ、心ゆくまで海を見渡すことが出来るのだ。ちょうど頃合いの切り株などもあり、そこへ腰掛ければ疲労も心地よく抜けていく。


 東京に住んでいた頃には海を見る機会自体がまずなかったから、初めのうちはただただ物珍しく、澄んだ平原が大小の山に姿を変える様を眺めて楽しんでいた。

 しかしそのうち、えも云われず不安を覚えるようになった。この大海原を前にして、私という個は果たして個で在り得ているのや否や。


 彼方此方に小山を築きながら、しかし海は決してその大元の形を変えはしない。

 私という存在も、遥か上空から見下ろしてみればただの小山、時が経てばやがてぜ、その母体と馴染んでしまって境目すらも見出だせなくなるのではなかろうか。我が胸中の不安も、悩みも、日々の細やかな喜びさえも、すべては風が作り上げた只一瞬間の波、小さく揺れる泡沫うたかたに過ぎないのでは……


 終わりない思考から現実へと引き戻してくれたのは、鋭く目を射る光の一群であった。


 眉のところに手でひさしを作り、目を凝らしてみると、何やら海の一部が光っている。空を見上げればしゃの如き雲。太陽は鈍く翳り、陽の光が反射している訳でもないらしい。


 再び海に目を戻してみれば、光はいよいよ明るさを増し、いっとう眩しくなったと見えた瞬間、右目に刺すような痛みが走った。思わずうっと声を上げ、目を押さえるが、しかし痛みは尾を引くこともなくすぐ消えた。掌に落ちた雪が、肌に触れるやいなや、すう、と姿を消してしまうかの如き儚さであった。風に舞う塵でも入ったものか。

 痛みに気を取られているうちに、光の群れはすっかり姿を消していた。あれは何だったのだろう。



 外出時間の半刻が迫っていたので、そのまま真っ直ぐサナトリウムに戻り、夕食をとって眠りに付いた。

 談話室はスティーブ氏の手紙の話題で持ち切りであったため、光のことも、右目の塵のこともそれきり頭から抜け落ちていたのだが、翌日、採血に来た新島が、顔を覗き込むなり驚きの声を上げた。


「お前、右目をどうしたのだ」


 云われて初めて塵のことを思い出した。

 あれ以来痛みはないものの、時折、淡墨を溶いた影のようなものが視界にちらつく。煩わしさからつい目の辺りを掻いてしまい、それで充血でもしたのだろうと答えれば、新島はいっそう顔を険しくした。


「塵はどこで入ったのだ」


「海辺の崖だ」


「やはり。その時の海はどんな具合だった」


「そういえば、一部だけが矢鱈に眩しく光っていた」


 いつも驚かされてばかりいるので、たまには先回りしてやろうと思い、


「あの光こそ、噂に聞く、かの海底都市の光であったか」


「莫迦云え。お前が見たのは人魚の一族だ」


 人魚!

 当てが外れたうえ、逆にまんまと驚かされた。呆けていると袖を捲るよう促され、慌てて顔を窓へと向ける。


「ちょうど彼らも南下する時期だ。一族総出で移住の準備を進めていたに違いない。お前があまり熱心に見つめているので、仲間のひとりと勘違いされたのだろうよ」


 人魚が渡り鳥に似た暮らしをしているとは知らなかった。此方へ来てからというもの、新たに教わる事ばかりで――いや、違う。これまでは知ろうともしなかった数多の事に、今、初めて向き合えている。そう云った方が正しいやもしれぬ。


「勘違いされたら、まずいのか」


「実際に確かめてみるがよかろう。塵が入ったのは右目だったな。では、左目を閉じてみろ」


 云われるままに、掌をもって左の目を塞ぎ……

 途端、あまりのことに絶句する。


 右目に映っていたのは閑静なサナトリウムの一室ではなかった。


 視界いっぱいに広がる群青色、岩の隙間から立ち昇る大小のあぶく。射し込む光は巨大な珊瑚礁を照らし、無数の影を落としながら魚群が優雅に泳いでいく。なんと、これは……


「うわあッ」


 不意に大きな影が眼前に迫り、驚きけ反った弾みで左目を押さえていた手が離れた。するとたちまち幻想的な海底は掻き消え、魚群も珊瑚礁も淡墨の如き影と化した。昨夜からちらちらと見えていたものはこれであったか。


 突如眼前に広がった未知の世界に、心臓が早鐘を鳴らしている。口中がカラカラに乾き切り、息がつかえる。すっかり隙間風が寒い季節になったというのに、この僅かな時間で薄っすらと汗をかいていた。


「一体なんなのだ、これは」


道標みちしるべだ。彼らが向かう南の海への……おい、その辺でやめておけ」


 再び海底を覗こうとすると、新島に肩を押さえられた。


「もう見るな。あまり見入ってしまっては、本当に人魚となってしまうぞ」


 そう云い置き、新島は一度部屋を出て行ってしまったが、止せと云われてもこの好奇心は抑えようがない。まだ見ぬ世界が手を伸ばせば届く位置に広がっているというのに、黙って腕組みをしているのは物書きの矜持にも関わる。

 それで、新島の足音が遠ざかったのを確かめてから、右手で逸る胸を押さえ、左手でもって左目を塞ぎ、再び一匹の小魚となって海に潜った。夢中になって人魚の道標を辿る。


 獣道とまではいかないが、海底にも薄っすらと道のようなものがあることに気付く。その道を、蟹の大群が横向きになって駆けて行く。水の中ゆえか、実に緩慢な駈歩かけあしだ。立ち昇る砂煙にも勢いがなく、まるで物憂げな春の猫のよう。水流に海藻は薄い身体をくねらせ、名も知らぬ半透明の生き物がゆったりと流れてゆく。海月くらげの一種であろうか。

 視線を上げれば、ずっと先の方で幾つもの光がちらついている。あれが人魚の道標であろう。


 戻ってくるらしい足音に気付き、慌てて両目を開ける。

 従順な患者の顔でにこりと微笑みかけて見せると、しかし、なぜか金盥を手にした新島は、音が鳴りそうな程に顔を顰めた。


「もう見るなと云ったろう」


 はて、なぜ見破られたものか。


「なぜ見破られたものかといった顔をしているな」


「ははあ分かった。お前はサトリと呼ばれる化け物であろう。うまく正体を隠しているつもりやもしれぬが、この目は誤魔化せんぞ」


「何を寝惚けたことを云っている。お前の場合、サトリでなくともその顔を見れば一目瞭然だ」


 溜息半ばにそう云って、抽斗ひきだしから取り出した鏡を放って寄越す。まさか本当に顔に思念が浮かび上がっているのではなかろうな。それは間抜けでいかん。

 慌てて覗き込み、そこに映った己が顔を見て言葉を失くした。なんと、右目の周りに薄っすらと鱗が生えている。


「うへえ。こいつは気味が悪い」


 指を沿わせてみればざらりとした感触。乾いているようで湿っているようでもあり、妙に冷やっこい。不思議な触り心地である。


「どうしても人魚になりたいと云うなら止めはせんが、しかし一医師としては、その目の中身を洗い流してしまうがよろしいかと思いますよ」


「そのようですねえ。まだ人の世に未練もあることですし」


 意気消沈し、新島が差し出す金盥を素直に膝に乗せて、中に張られた清潔な水へと顔を浸す。目が醒める程冷たい水に、思わず息が詰まりそうになる。

 我慢して何度か目を瞬かせていると、淡墨の影がまた迫ると見えて、目前まで来て忽然とかき消えてしまった。


 前髪から水を滴らせながら顔を上げると、水の中で何かの欠片が泳いでいる。指に乗せて掬い上げると、それは陽の光を受けて虹色に輝いた。


「人魚の鱗だ」


 金盥を受け取り、新島が云う。


 指の関節ひとつ分程の大きさである。外はあいも変わらずの曇天、電燈を点けずとも不自由のない程度ではあるが薄暗い部屋の中、その鱗だけが仄かな光を発している。

 薄っすらと潮の香りが漂うそれを手拭いに包み、手鏡と共に抽斗へとしまい込んだ。



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