10:東屋にて




 人魚騒動から数日が過ぎたある朝、鳥の声に目を醒まし、ふと枕元を見れば薄茶色の花弁が落ちていた。

 重なり合った部分は下の方が透けている。随分と薄いものらしい。ざらついたその手触りには覚えがあった。花弁と見えたそれは、我が右目の周りに生えた鱗である。


 あの日人魚がくれた鱗は虹色に輝いていたというのに、私の身から生じたそれは、まるで剥いで置いておいた瘡蓋かさぶたの如き有様、同じ人魚といえど、こうも違いが出てくるものかと感嘆するやら口惜しがるやら。

 ひとくちに金持ちといえども、生まれながらの金持ちと成金とでは立ち居振る舞いも大きく異なる。高貴なる血の品格の成せるわざとでも云うべきか。人魚の鱗の品格も、それと似たようなものであろうか。


 大人になってしまってからでは立派な人魚にはなれぬ。また新しい事を知った。これで一層、人としての此の身で目一杯生き抜かねばならぬ、との決意が湧いた。


 先頃、立て続けに東館の患者が亡くなった。

 どちらもご高齢で、吹き付ける秋風に体調を崩し、咳が出た熱が出たと思ったらもう間に合わなかった、と聞く。無論、医師も看護婦もこの手の話題を患者の前で出そうはずもないが、噂話はぬるい隙間風のように何処からともなく洩れてくる。


 矢野医師の両目の下に、まるで雨雲のように陰鬱なくまが広がっている。

 それが理由かどうかは分からないが、何故かしら、このところ彼の注射が痛くない。いつ触れたかと思うほどに軽く、すうと採血が終わっている。それが無性に物悲しい。あの、長く尾を引く非道い痛みが、早く戻ってくればよいとさえ思う。


「果実は熟すると色が変わりますでしょう」


 刺した痕を消毒しながら矢野医師が云う。ええ、と応じると、


「人の熟し時というのは、どのようにして見極めればよいのでしょうねえ。柿のように、いっそ赤く染まってくれれば分かりやすいものを」


 あまりに突飛な問い掛けよりも、まるで夢を踏み締めるかの如き不確かなその口振りが心配になって、矢野先生、と思わず声を上擦らせるも、さてその続きが出てこない。失意に打ちひしがれた若い医師は、救いを求めるような目で此方を見上げた。

 いよいよ言葉に窮した時に、ふと口をついて出たのはひとつの劇詩であった。


  時は春、

  日はあした

  あしたは七時、

  片岡につゆみちて、

  揚雲雀あげひばりなのりいで、

  蝸牛かたつむり枝に這ひ、

  神、そらに知ろしめす。

  すべて世は事も無し。


 矢野医師の目は未だ宙空を彷徨っていたが、すべて世は……と、唇の動き確かに復唱した。


「進藤さんの作ですか?」


 慌てて首を振り、否定する。どうやら、私が物書きの真似事をしていることは、サナトリウムの住人達には衆知の事実となっているらしい。


「違います、上田敏という人が訳したもので、元はブラウニングという英吉利イギリスの詩人の作です」


 説明しながら、なぜ私はこの詩を選んだのかと不思議に思った。矢野医師は口中で繰り返し詩を呟いていたが、ありがとうございます、と少し力ない笑顔を見せた。


 すべて世は事も無し。そんなもの、嘘っぱちである。



 靄が出ているな、と思っていたら、やがて堪え切れなくなったように空が突然泣き出した。湿り気を抱えきれなくなったものらしい。霧雨である。窓の硝子ガラスが、無数の細かな雨粒で煙っていく。


 木々は季節に応じて異なる姿を見せるが、雨もまた、降る時期によってその表情を大きく変える。

 春は命の芽吹きを予感させる温かな雨、夏はまるで挑みかかってくるかの如き激しき雨、冬は物音までも吸い込んでしまいそうな冷えた雨。秋のそれには、声を殺して忍び泣く女人のような趣がある。


 霧雨はすぐに止んでしまったが、泥濘ぬかるむ足元を嫌ってか、西館の患者達は皆談話室に集まっている様子。数日前より談話室に火鉢が置かれたことも理由のひとつであろう。そこへ加わろうかとも思ったが、何故かしら外の空気を吸いたく思い、半纏の上から膝掛けを羽織って庭に出た。風が冷たい。


 流石にいつもの散策路を辿るほどの意気はなかったので、建物のぐるりを回って裏庭へ。

 裏庭には小さな東屋あずまやがある。近くには鳥の給餌箱が設置されてい、天気のいい日には季節の鳥が舞い来るのを間近で眺むることが出来てなかなか宜しい。今日は生憎の空模様なので鳥の姿は見えなかったが、代わりに珍しい客がいた。新島である。


「えらく老けこんだ不良ですなあ」


 ぷかぷかと紫煙を吐き出すその背に声をかけると、新島は振り返るなり慌てて煙草の火を揉み消した。傍に置いていたカルテを左右に打ち振り、悪しき空気を追い払わんとする。

 あまりの取り乱しぶりに思わずぬたぬた笑っていると、新島が不機嫌な顔で振り向いた。


「こんな日に外へ出たがる物好きがいるとは思わなかった」


「類は友を呼ぶ、というやつでしょうなあ」


 ベンチの上に放り出された敷島の箱を取り上げて、


「新島が敷島を吸っているとは、これいかに」


「くだらん冗談だ。まったくくだらん。時折、お前の頭蓋には脳髄でなく、四季折々の花でも詰まっているのではないかと思うよ」


「むべなるかな。しかし残念ながら、ブローカ中枢がなければ、いかにくだらん冗談を思いついたとて喋れもせんよ」


 未だわさわさと騒がしくカルテを振っていた新島が、目を丸くして此方を見た。


「なぜお前がブローカ中枢などを知っている」


 勉学の賜物であると嘯いてみせたが、それは嘘だ。探偵小説で読んだのだ。さる悪人が、仲間の口封じのために毒薬を仕込むという非道を犯し、そのくだりで『言語能力を司るブローカ中枢』という一節があった。それを覚えていたので云ってみたに過ぎない。


 新島は不可解な顔をしている。どうだ口惜しかろう。文学をあまり侮ってはいけない。


 いつも隠れて吸っているのかと問えば、いいや吸わぬ、実に一年振りの喫煙だと云う。敷島の箱は随分と薄汚れていたから、恐らくは真実であろう。


「俺に煙草を教えたのは、お前であったな」


「そうでした、そうでした」


 学生の頃、芥川龍之介をはじめとした愛煙家の文豪の名を並び立て、煙草は文学の友なりなどと云い、したり顔でぷかりぷかりとやっていたのだ。思い返すだに顔が熱くなる。決まりが悪くなり、もぞもぞとベンチの上に足を持ち上げ、胡座をかいた。


「酒を教えてくれたのもお前だった」


「そうだっけ。なら、僕がおらねば、お前は随分と詰まらぬ男であったろうなあ。おや先生、"Erbrechenエルブレッヘン"の綴りが間違っているぞ。"C"が抜けている」


 ふと目についたカルテの誤りを指摘すると、新島は再び不可解な顔を見せた。


「お前、第二言語は仏蘭西フランス語ではなかったか」


「そうだ、よく覚えているな。独逸ドイツ語の方は独学だ。ゲーテの詩を、原文そのままの響きで味わってみたかったのだ」


 新島は無言で胸ポケットから鉛筆を取り出すと、指摘した箇所に乱暴に"C"を書き加えた。カルテを抱え込むようにして立ち上がるので、もう見ないよ、と笑った。見ない方がよかろう。


「勘違いするなよ。お前のものではないからな」


「分かっておりますよ。僕は嘔吐などしていないもの」


 新島は困っているとも怒っているとも取れる不思議に曖昧な微笑を浮かべ、俺は弱い人間だな、と吐き捨てるように自嘲した。日本人らしい卑屈さをまるで持たない新島にしては、珍しく弱気な発言であった。やつれ切った矢野医師の顔が脳裏をよぎり、胸の奥がぶるりと震える。


「……なあ、新島、お前『春のあした』という詩を知っているか」


「知っていると思うか」


「思わん。こういう詩でな」


 私はまた、ブラウニング作のその詩をそらんじてみせ、


「どう思う」


 と訊いた。

 新島はしばらく考え込んでいたが、やがて口を開くと、傲慢だな、と云った。


「傲慢かあ」


「『神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し』……天高くで胡座をかいておっては、そりゃあ、下界の事など何ひとつ見えやしないだろう。何も無いわけではない。見えておらぬだけで、この世は実に様々なもので満ち溢れている」


 なるほどそういう捉え方もあるかと感心する。そうだそうだと相槌を打つように、折しも給餌箱にやって来た小鳥が愛らしい声を上げた。それを見遣る新島の顔からは、先程見せた気弱さが露と失せている。そうだそうだ。神の在り方を「傲慢」と云って退ける程の男が、弱腰になってどうするのだ。私は無性に嬉しくなった。


「では、代わりにお前が、神の目には留まらぬ小さな種々を拾い上げてやらねばなるまいな」


 そう云うと、新島は晴れ間の覗き始めた天を仰ぎ見ながら、


「それにはお前が適任であろう。俺はな、進藤。神の御意思に逆らうが仕事だ」


 と朗らかに笑った。




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