箱庭の紙魚
山路こいし
01:おはぎ
手荷物は驚くほど少なく纏まった。
着慣れた浴衣に肌着が数枚。これは肌触りが特に気に入りのものを選んだ。潮風が吹きつけると寒かろうから、
全て包んでも大きめの風呂敷一枚で片がつく。生涯の身支度にしてはあまりに身軽なその様に、我がことながら苦笑が洩れた。
元より本以外にはさして物のない部屋であったが、いざ出立に臨み、改めて見返してみれば随分と寂しくなったように感ずる。希望があった物は皆友人知人に譲ってしまったものの、それも大した数ではない。恐らくは万年床を上げたのが大きかろう。肺を病んだ者が毎夜包まっていた夜具など、いくら肉親といえども気味が悪かろうから、残った書物同様、適当に処分してもらえるよう頼んでいる。
言葉にしがたい酸い思いで部屋を眺めていると、ふと机上のものに目が留まった。万年筆である。幾度となく握っては投げ出し、また握っては投げ出してした腐れ縁の我が相棒だ。物を書いて生計を立てるというのが長年の夢であったが、しかしその夢は芽吹くこともなく
いい加減諦めるがよかろう、万年筆も新しい握り手に出逢えたほうが余程幸せに違いないと考え、荷にも含めずいたものであるが、今再び目にしてしまっては我慢がならない。女々しいとは思いながらも、手に馴染むそれを風呂敷の結び目から突っ込んだ。
路面バスに飛び乗り、東京駅でおはぎを一ダース。日暮れには対面しているであろう気難しい顔の旧友は、あれでなかなか甘党ときている。
サナトリウムは海の近くにあると聞いていたので、開けた眺望を期待し、また吹き付ける粘こい潮風を覚悟もしていたのだが、その
「半纏は必要なかったかもしれんなあ」
「いや、冬になればここらも結構冷える」
窓の外を伺いながらぼやくと、
「彼方此方に水が流れているからな。夏は涼しくていいが……おい、『未』の払いが甘い。俺が国語科の教師であればまず丸はやれんぞ」
「しかしお前は国語科の教師でないし、それは答案用紙でもないよ」
「俺は心掛けの話をしているんだ。まったく、少しは大人びたろうと期待していたが、まるで変わっていやしない」
それはお互いさまであろう。
新島とは帝都大学の同窓で、良く云えば学友、有り体に云えば悪友であった。
新島は根っからの理科、一方の私は文科であったため、基礎学科以外ではまず顔を合わすこともなかったのだが、なぜかしら彼には
気難しい新島が同窓会に顔を出すことはなかったが、年賀状のやり取りだけは続いていたので、彼が静岡のサナトリウムで医者をやっていることは知っていた。しかしまさか、患者として彼を頼ることになろうとは。人生、何が起こるや分からぬものだ。
それをそのまま伝えると、新島はたちまち顔を
「それはこちらの台詞だ。いきなり連絡を寄越してきたかと思えば、入院の便宜をよろしくなどと……。簡単に云ってくれるが、今じゃあどこも人手不足だ。部屋の空きはあっても、寝台の空きはそうそう出ないんだぞ」
「そこはほら、感謝している。手土産も僕なりに弾んだのだ。固くならないうちに食べてくれ」
桐箱に入ったおはぎを押しやると、新島はそれを
怨敵に対峙したかのごとき形相のままおはぎを頬張る新島に、我知らず苦笑が洩れた。彼がことさらに不機嫌でいる時は、何か云いづらいものを抱えているからだと知っている。やはり、変わらないのはお互いさまだ。いそいそと両手を合わせ、私もお相伴に預かることとする。
「そんなに悪いか、ここは」
そう云って胸に手をやると、新島は眼鏡の奥からじろりと鋭い視線を投げてきた。しばし黙り込んだ新島が、ぐいと茶飲みを傾ける。
「俺はな、
「よく知っている」
「だから気休め事は云わん」
新島はため息をつくと、顎に手を添えて外を見た。気まずい時に相手から視線を外す癖も、よく知っている。
「三割だ」
「うん?」
「ここを生きて出て行ける患者の割合だよ。全体のうち、およそ三割だ」
三割。ひっそりと我が胸を撫でてみる。波打つような
「三割か……うん。福田教授を覚えているか、新島。あの人がシャツの片襟を立てたまま講義室にやって来る率が、おおよそそのくらいであったなあ」
「お前という奴は……」
新島が一層顔を険しくし、こめかみの辺りを掻く。ぬたぬたと笑いながらその様子を見守っていると、やがて堪え切れなくなったか、新島のほうが吹き出した。
「まあいい。それもお前の持ち味だろうよ」
「新島先生に褒められるとは光栄の極み」
「褒めてはいない。……おや?」
箸を置き、ふいと新島が立ち上がった。その背を追って窓を見遣ると、先程まで晴れていたはずの森にさあさあと雨が降っている。とはいえ、雨雲に覆われたわけではないらしい。暮れ時の陽は依然変わらず射している。
「狐の嫁入りだ」
珍しく、感じ入った様子で新島が呟く。その傍らに立ち、窓を開ける。
光を受けて降る雨は、まるで上等な絹糸のように美しい。思わず手を差し出すと、冷たい感触が
よく見れば、掌に溜まったのは雨粒でなく、薄桃色の金平糖であった。
「なんと……」
唖然として見つめていると、新島が私の手を覗き込んできたが、金平糖を見ても格別驚きもせず、ただ一言「食べるなよ」と素っ気なく云うのみだった。
失敬な奴だ。何でもかんでも見境なく口にするほど食い意地は張っておりません。それに、天から降ってきた金平糖など、そうおいそれと食えもすまい。
しかし好奇心はある。
「食べたらどうなるのだ」
「さてな。だが、狐狸は人を化かす。大方、酔いどれ気分で嫁入り行列に加わり、獣共と朝まで莫迦騒ぎする羽目にでもなるのだろうよ」
その言葉には少し心を惹かれたものの、わざわざ静岡くんだりまでやってきたのは養生のためであって、狐と戯れるためではない。
暫くの間、言葉なくそうして並び立っていたが、やがてさっと晴れ間が陰ったかと思うと、瞬きをする間に雨があがった。行列は遠くへ行ってしまったらしい。
目を凝らしてみれば枝々の隙間から淡く輝く婚礼衣装が見えたような気がしなくもなかったが、それは
「吉兆だ。いいものを見た。これはもしかするともしかするやもしれん」
「おいおい、いい加減なことは云わない性質ではなかったか」
「独り言においてはその限りでない」
新島は怒っているのか笑っているのか判じ難い顰めっ面で振り向くと、両手を白衣のポケツに突っ込んだ。
箸を差し込めば、おはぎは水を含んだ春の土のように柔らかく崩れる。舌の上で仄かな温もりと甘みを楽しみながら、私はここでの生活が少し楽しみになっている自分に気付いた。
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