02:ケサランパサラン
人付き合いは得意な方と見られがちだが実際のところは何とも云い難く、そもそもそれ一つを取っても学生時代と今とでは心構えもまるで違ってくるわけであって、つまるところ、果たして新しい環境にうまく馴染めるや否やと人並みに心配もしていたのだが、三日と待たずに杞憂と知れた。
サナトリウムは西館と東館とに分かれる。私が起居する西館は軽度の患者専用であるから、近所付き合いにそう肩肘を張らずともよい。さすがに走ったり騒いだりするお調子者はいないが、ぱっと見には健常者と何ら変わらぬ人達だ。誘われるまま気楽に森の中を散策したり、花札に興じている内にたちまち打ち解け、夕食時にはトレイを持ち寄り、談話室で
面白いのは、その輪の中に自然と医師が混じっていることだ。
かつて暮らしていた東京においては、医師と患者の関係性は主従のそれにすら似てい、医師は尊敬と畏怖の対象であるのが当然であったから、家族同然のこの距離感が実に興味深く、
「新島先生って、どんな学生だったんですか?」
話題の主が席にいないのをいいことに、毎度こうやって話をせがむのは矢野という若い医師だ。まだ大学院を出て二年と経っていないという。若者らしい爽やかさと
それだけであればまだ微笑ましいのだが(他人事であるし)、この若い医師は注射の腕が極めて悪い。素人の見立てではあるが、実際、わざとやっているのではと疑いたくなるほど痛いのだ。彼が採血担当と知った日などは、朝から気が鬱鬱として食事も喉を通らない。罪を憎んで人を憎まずの精神を大事にしたいとは常々思うところであるものの、そういう訳で、
とはいえ、こうも短期間で患者仲間のみならず医師とも打ち解けられたのは、彼がせがむ新島の逸話によるところが大きい。その点に於いては感謝しているのもまた事実だ。
新島の数ある逸話の中でも、特に人気なのが彼の
気難しい顔をしておきながら、新島はこと悪戯にかけては天才的であった。彼の考案した悪戯は男子学生を中心に受け継がれ、その内の幾つかは今も帝都大学の鉄板として生きていると聞くから驚きである。海苔弁からは海苔だけが無残に剥ぎ取られ、参考書は試験範囲の
「なんとまあ、新島先生もあれで存外子供なところがあるのですねえ」
矢野医師などは、嬉しげな顔を隠そうともせずにくつくつと笑っている。いつも
つい調子付いて少しばかり誇張してしまったから、という訳ではないが、友人の
「いや、大いに子供じみた行いであることは否定しませんが、しかし奴も奴なりに美学を持って働いていたことは確かです」
「美学? 悪戯の美学ですか?」
「その通り。奴に云わせればこうです――悪戯とは忠告であり、極上の嫌味であるべきだ、と」
例えば、海苔弁の男は、毎度々々歯に黒い破片を貼り付けたまま笑顔を晒す間抜けぶりであったし、参考書の男などはなお非道く、飯粒を汚く食い散らかして、しかし恥じることを知らぬ奴だった。新島はわざわざ奴が残した米粒を伸ばして糊をこさえ、参考書を綴じ、食い物を粗末にするからこういう目に遭うのだぞ、と暗に忠告したわけだ。
無論、新島自身がそう語ったわけではない。あくまで私なりの解釈であるが、それを云うと、矢野医師は少し白けた顔で山菜を口に放り込んだ。どうやら水を差してしまったらしい。彼の
と、年長者の余裕と大らかさをもって様子を見守っていた院長先生が、目尻に
「しかし、直接指摘せずに悪戯をもって気付かせようというのは、実に新島先生らしいねえ」
一同、大いに頷き合うのであった。
さて、森をもって外界から隔離されたこのサナトリウムにおいて、驚いたことがひとつある。食事の旨さだ。
どうせ病院食などパサパサと乾いて味気ないものに違いないと決めてかかっていただけに、その旨さには感動をすら覚える。決めつけが如何に悪しきものかが分かるというものだ。人間、三十路を目前にしても学ぶ余地は無限にあるものと思い知り、ひとり感じ入りなどもする。
当然のことながら、朝昼夜の献立は健康を第一に考えられてい、主食は白米でなく玄米である。更には大麦や小麦、小豆などの雑穀もふんだんに含まれてい、一口噛み締める毎に滋養が身体の隅々にまで染み渡っていくのを感ずる。
ぷちぷちとした雑穀は食感においても楽しめるのだが、しかし黒紫米だけはどうも苦手だ。まず、色がよろしくない。ぬらぬらとした黒紫の皮など、まるで小虫のようではないか。それで、目についたものは茶碗の
するとこれをお気に召したか、食事が終わる頃合いになると、窓の処へ小鳥が舞い来るようになった。柳葉色の胴体に黒い風切羽、おそらくはカワラヒラであろう。ちょこちょこと跳ね回りながら小さな
「感心せんなあ」
「緑を眺めながら小鳥の囀りを楽しむ。実に風流ではないか」
別に悪いことをしている訳ではないと思うものの、前提として大人の好き嫌いがあるので心苦しい。それで、ついつい云い返す声が大きくなった。
「小鳥ならば毎朝耳喧しく鳴いているではないか。部屋に招き入れるまでもない」
「お前には小さきものを愛でる心が分からんのだ」
「分からんね。分かりたいとも思わん」
吐き棄てる新島に肘の内側を軽く脱脂綿で圧迫され、初めて針を打たれていたことに気付く始末、昔から小器用な男であるとは思っていたが、こうも鮮やかに刺せるものであろうか。夕食の席で散々彼の悪事を披瀝したことを、今更ながら反省する。我が友人のこれからに幸あれ。
よし、ここはひとつお
「しかし見事なものだ。注射がまるで痛くない。いや、
とやった。対する新島は平然としている。
「医師である以上、当然のことだ」
矢野医師よ、お聞きになったであろうか。
ぬぬぬと念じていると、眉間に皺を寄せた新島がこちらを睨んだ。まさか心の声が漏れたであろうか。それはいけない。ずいと手が伸びてくる。いやに恐ろしげな顔付き。勘のいい奴だから、軽薄なお追従が露見して、気を悪くでもさせたかしらん。
まさか患者を殴りはすまいと強がってみるも、寝台の上で思わず身を引く。
「動くな」
「はい」
髪の内に差し込まれた新島の指は、引き抜かれた時には何物かを摘まんでいた。風に揺れるそれは白い糸屑のようである。さては若白髪かと一寸疑ったが、それにしてはいやに長いし、何より淡く光って見える。これは、もしかすると……
「ケサランパサラン!」
「阿呆か。あれは民間伝承上の創り話だ」
にべもない。狐が金平糖を降らせても平然としていたくせ、ケサランパサランは違うと云う。その線引きは何処にあるのか。
「ケサランパサランは持ち主に幸せを運ぶとも云うが、残念ながら此奴は真逆でね。精気を食らう害虫だ」
「害虫?」
「そうだ。普通は木の皮の隙間に潜んでいるが、宿り木が枯れそうになると鳥の脚に着いて場所を移す。だから野鳥など近くへ寄らせるなと云ったのだ」
新島はがらりと窓を開けた。
「森には色々なものが生きている」
窓縁から身を乗り出し、新島はぷうッと息を吹きかけて糸屑を遠くへ飛ばした。上体を起こして外を見遣ると、糸屑は暫くの間ふよふよと不安定に揺れていたが、やがて木々の間を縫うようにして行ってしまった。また新たな宿り木を探すのだろうか。
次の晩餐会までに、友人を讃える英雄譚の一つでも書かねばなるまい。
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