03:箱庭の紙魚




 白山木が隆盛を誇っている。春の、せ返るような芽吹きは幾分か落ち着き、色の熟した鮮やかな緑に白の小花が涼やかである。


 院長先生は寛容な人で、野草の繁栄にも文句を言わぬ。

 木々の間には草。庭には色取り取りの花々が咲き誇り、あやめ、山査子サンザシ、カロライナ、種に国境の別なく、ひとつ風に吹かれては同じかたへと身を傾ける。正体も知れぬ蔦は思うさま先端を伸ばし、壁から壁へと這い回っている。節々に小さな蕾があるから、いずれ花が咲くのだろう。楽しみがひとつ増えた。


 サナトリウムには入院患者用のふたつの棟と、更にもうひとつ、渡り廊下で西館と繋がれた別館がある。医師以外の職員が寝起きする以外に、来客の宿泊施設としての役割も兼ねているので、自然、西館に起居しているとよく見舞い客とすれ違う。手土産に持参された菓子のおこぼれに預かることも多いから、すれ違う折には精一杯愛想を振る舞うのが我が務めと心得ている。

 しかし、如何に此方が笑みを向けたところで、必ずしも相手をも笑顔に出来るとは限らない。中には青褪め、微笑むことも忘れた様子で、ぎこちない会釈を返すだけのご婦人もいる。病人以上に病人めいたその様子が心に残り、一度で顔を覚えてしまったのであるが、そういえば、近頃めっきり姿を見かけなくなった。


 あまり深く考えるのはよくないと思い、庭の緑に目を転ずる。脚に花粉をつけた蝶が飛び交い、花にとまって蜜を吸い、知らず知らずのうちに果実の母となっている。これぞ自然の有り様、美しき生の営みである。

 うんうんとひとり頷いていると、背後の騒がしさがにわかに増した。玄関口の辺りである。逼迫ひっぱく感のある騒ぎようではないので、まず一安心。


「ああ、いたいた進藤さん。お客様が見えましたよ」


 そっと胸を撫で下ろしていると、ばたばたと駆けてきた看護婦さんに声を掛けられた。


「客? 私にですか?」


「ええ。たっぷりと」


 たっぷりと。こんな静岡の辺鄙な処まで私を訪ね来る物好きなどはきっといないと踏んでいたし、事実、ここへ来てから一度だって来客のあったためしがないのだから、その呼び掛けには心底驚いた。

 さて誰であろう。かつての学友で今は出版社に勤める前田君か、あるいは幼少の頃より可愛がってくれたタエさんか。まさか家族ではあるまいな。あの人達の忙しいことは、私自身が一番よく知っている。


 半ば浮かれながら玄関口へ赴くと、なるほど、はたして狭い入り口には我が客人が「たっぷりと」並んでいた。

 もう二度と会うことはないと覚悟し、別れを告げた懐かしき顔触れに、堪らず熱いものがこみ上げてくる。


 ひいこら云いながら客人を運び入れていた矢野医師が、此方に気付くなり非難がましい声を上げた。


「ちょっと、進藤さん、あなた一体どれほどの本をお持ちなんです!」


 本。そうなのだ。我が初めての客人は、かつて涙を呑んで置いてきた数々の本であった。


 喜びと、僅かばかりの落胆を胸に秘めつつ指を本の背に沿わせていると、目の前に紙が突き付けられた。手紙だ。差し出したのは新島である。

 大凡おおよそ何が書かれているかは察しがつくが、念のために開いてみると案の定――古本屋に引き取りに願ったが断られた、曰く、持ち主が如何に此れらを大事にしていたかを知っているが故にどうしても受け取れぬとのこと、ついてはお前が責任を持ってどうにかせよ――と、兄らしいせっかちな筆跡でしたためられていた。思わず眉を下げ、手紙を元の通りに畳んでいると、顰めっ面の新島と目が合った。


「貸本屋でも営むつもりか」


「いや、すまない。さすがに量が量だから、持ってくるつもりはなかったのだが」


「新島先生も手伝ってくださいよう」


 哀れ、ひとり荷馬車と玄関の往復を続けていた矢野医師であるが、新島は取りつく島もない。若者は体を動かせと一蹴されて、悲鳴に似た叫びを上げた。


「すみません、矢野先生。今度、お好きな御菜を献上します」


「結構です、健常な肉体は食事から!」


 せめてもの詫びのつもりであったが、注射は下手でも流石は医師。初めて、この若い医師に尊敬の念を覚えた。


 騒ぎを聞きつけた院長先生の計らいにより、本は西館の空き部屋に収納されることとなった。

 誰かしら暇を持て余すこともあろうから丁度いい、圖書室付きのサナトリウムとは上出来じゃないかと大らかに笑っていただき、此方としては有難い限りであるが、本を空き部屋まで運ぶよう仰せつかった矢野医師の喪心ぶりは目も当てられない。せめて彼の負担が僅かでも減るよう、特に気に入りのものと、あまり人目には触れさせたくないものを数冊抜き取り、さっさと自室へ引き退がった。


 さても懐かしき言の葉の海である。こちらへ越して以来、日々の趣味は読書から散歩へと成り代わったが、やはり恋しきはこの手触りだ。折り畳んだ半纏を枕に重ねた処へ上体を預け、うっとりと灼けた表紙を撫でる。

 本を開けば、嗅ぎ慣れた香りが鼻をつく。つい嬉しくなり、人目がないのをいいことに、頁に鼻を押し付けなどする。すると突然、何物かが肌の上を這い回るような心地を覚え、慌てて顔を上げた。


 違和感は耳の後ろを通り、首のぐるりを経て胸へ至り、腕を伝って本の中へと潜っていく。目を瞬かすいとますら与えぬ、まさに一刹那の出来事であった。

 腕を這っていったのは、何やら平べったい虫であった。かつて海で見た生き物に似ている。その姿を思い起こすや、肌が細かく粟立った。脚が無数にあったように思う。筆先で撫でられるかのごときかそけき感触は、つまり、あの脚が……


 驚かせるだけ驚かせておいて、謎の虫はすっかり姿を消してしまった。本に潜っていく様を確かに見届けたはずなのに、逆さまに本を振ってみても落ちてはこず、いたずらに頁を捲ってみてもその姿は見当たらない。まさか寝台に逃れたかとシーツを引っ剥がして見るも、やはりいなかった。幻であっただろうか。




 今日の採血は矢野医師と聞いていたが、時刻になって現れたのは新島だった。矢野医師はと訊けば、自室で伸びていると云う。度重なる重労働に、精根尽き果てたものらしい。


「気合が足りんのだ、気合が」


 およそ根性論とは程遠い処にいる新島からそんな科白を聞く日が来ようとは思わなかった。彼は根っからの理科男である。

 ぼやきながらも手際よく準備する新島を見、我が心中は矢野医師への申し訳なさ半分、安堵半分といった空模様。


 手早く採血を終えてしまうと、新島は懐から半紙を一枚取り出した。墨痕鮮やかに『圖書室』と書かれている。なんとも対応の早いことだ。


「労働だけ押し付けておいて、一番の旨味を攫っていくとは非道い奴」


「同じ掲げるなら達筆の看板の方がよかろう」


 違いない。しかし謙遜しない男である。

 ひと通り笑い合った後にふと思い出し、先程の虫のことを話してみると、


紙魚しみではないのか」


 と云う。


「いや、それにしては大きかった。子供の扁平足ほどな大きさはあったように思う」


「しかし本の中に消えたとあっては、やはり紙魚だろう」


「そうだろうか」


「そうだろう。上質なものを食えば、その分大きくもなるだろうさ。本を大事にしている証左だ」


 そんな話は聞いたこともないが、褒められたようで、少し嬉しい。


「しかしあまり根を詰めるなよ。そうでなくとも埃じみた本ばかりだ。もし夜更けまで読書などしていたら、ぶん殴るぞ」


「ほどほどにしよう」


 苦笑いを返し、続けて、何か要らない紙はないかと訊くと、新島は器用に片眉だけを吊り上げた。

 未練がましく連れてきた我が相棒の万年筆であるが、傍の机に置いたまま、一度もインキに浸していない。それも仕方なかろうと半ば諦めもしていたが、再び活字に触れる機会を得、また書きたいとの欲求が辛抱ならなくなったのだ。


「此方へ来てから何かと気付かされることも多い。そういった種々のことを、思うさま書き残しておけたらと」


 そう云うと新島は納得したようで、今度町へ買い出しに行く際、原稿用紙を買って来て貰えるよう頼んでおくと請け負ってくれた。それから少し考える素振りを見せて、


「箱庭の紙魚、というのはどうだ」


 何がと訊けば、その随筆の題名だと云う。


「悪くはなかろう」


「確かに悪くはない――いや。いい。すごくいいと思う」


 箱庭の紙魚……箱庭の紙魚。忘れぬよう、何度か口中で転がしてみる。実にいい響きだ。しかし、サナトリウムを箱庭と表現するとは。旧友の、存外にロマンチシストな一面を垣間見たような気がする。


「俺のことを書くなら、少しばかり良いように書けよ」


 意見を受け容れられて上機嫌の新島を、否とも応とも答えないままに見送る。真実を広く伝えることが、物書きの使命と心得ている。




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